投稿者: Mitsuhiro

朗読劇

 密を避けることが義務づけられつつある社会情勢の中で、演劇は公演が制限されている。小劇場での感染も報告されており、厳しい状況が続いているのだ。その中で妥協点として考えられるのが朗読劇ではないか。

 向かいあわず接近しない。演劇の大半の要素を切り捨てた朗読劇は、それ自体で味わいがあるものだ。ただし、物足りなさが伴うのも事実である。いま、制約が設けられた状況にあってその欠乏感までもが効果的な表現方法になる可能性が出てきた。

 ソーシャルディスタンスなどという言い方もあるが、要するに触れあえない悲しみ、もどかしさを伴う状況にあるわけである。それが果たせないやるせなさを朗読劇の方法で表現できるかもしれない。

 久しぶりに脚本を書いてみようかという思いになっている。創作にはある意味こうした現状打破のエネルギーが必要なのかもしれない。

梅雨空続く

 雨が降り続いている。予報でも傘マークが並び、梅雨明けは持つ少しあとのようだ。ここ数日は気温も上がらす、ときに肌寒く感じることさえある。

 本来であれはオリンピック直前の時期であり、さまざまなプレイベントが行われていたはずだ。学校は学期を切り上げて夏やるべきことをいま行うはずだった。例えば部活動合宿は今ごろ行う手はずで宿も予約を済ませていた。

 降り続く雨の中でもマスクが外せない日が続いている。やるべきさまざまなことが流れ、それを悔やむ暇もない。押しつけられた新しい日常に心身の方が流されている。梅雨空はかえって諦めがつくきっかけかもしれない。

手触り

 バーチャルな時空が急速に広がっているいま、密かに渇望されているのは手触りなのではないか。そのときに一回限りで現れる感覚こそが大切な要素なのだと気がつくことがよくある。

 ここでいう手触りとは文字通りの皮膚感覚の介してのものにとどまらない。たとえ触れることができなくても、それに接しているという生の感覚が得られるものをすべて含めるとする。極めて主観的な感知であり、容易に定量化しにくい。

 しかし、対象と同じ次元を共有しているという思いは、実は結構大事なものであったのだ。その安心の中でいろいろなことが可能になってゆく。最近はこの感覚がないがしろになりつつある。

雨模様

 東京はしばらく雨模様の天気予報が出ている。今日も折り畳みではなく、普通の傘で出勤している。

 考えてみれば7月は梅雨のただ中で雨が降る日が多い。しかもかなりまとまった雨量になることがしばしばある。それなのに梅雨といえば6月を連想し、7月はそうでもない。それは7月末の強烈な暑さがまず想起されるからだろう。土用あたりの猛烈な暑さがこの月のイメージを圧倒してしまう。

 私たちの印象というものは単純化に向かう。イメージがどのように形成され定着するのかは考えてみなければならない。

 まもなく猛暑の期間になるはずだ。

見方次第

 最近、視力低下に悩んでいる。細かい文字が見えなくなったのは本当に困る。ときには腹立たしく感じることもある。

 加齢による宿命だと割り切ることはできる。同年輩以上の大半の人が同様の症状を訴えているのを見聞きすると、どういう訳か慰められたり、諦めがつきそうな気持になったりする。しかし、それでも残念に思う心の方が勝る。

 よく見えないことはいろいろな局面で不利益をもたらす。注意力とか推察力に負の要因をもたらすのはもっとも困った要素だ。日常のコミュニケーションにも目は口ほどに、いやそれ以上にものを言うはずなのに、それがうまくできない。

 ただ、よく見えないことがある種の恩恵をもたらしているのかもしれないなどと考えることもある。繊細な情報を削減することで精神的衛生を保てているのかもしれないからだ。最近はそう考えるように努めている。

選べる楽しみ

 私たちが思う贅沢の一つに選択の喜びがある。総体として高級感が今ひとつでもたくさんの選択肢が容易されているとそれだけで満足感が高まる。これは幸福感を考える上で大切なのではないだろうか。

 寿司は生魚を乗せた酢飯であり、料理としてはシンプルである。もちろんそれゆえに個々の作業が洗練され、店によって大きな違いが生まれている。ただし無粋な言い方を敢えてするなら、料理のやるべきことは限られている。

 それなのに寿司屋に行くと得られる豪華な感覚は自分で多くの食材の中からほしいものをその都度選べることにあるのだと考える。これは顧客満足度を上げる有効な手段なのではないか。

 このような選択度の提供は我が国のサービス業の随所に見られる。実はほとんど既成品でも最後の選択に自分が絡んだということが、魅力を倍増させるのであろう。

もう一歩前に

 我が国の現状を嘆く悲観論者の多くは国民の士気の低下に触れることが多い。士気という言葉はあまり相応しくない。別に戦っている訳ではない。格好つけずにやる気と言えばいいことだ。つまりは活力のようなものが欠けていると言いたいのであろう。

 国が豊かになると現状に満足する人が増える。本当は豊かなのかどうか分からない状況になっても、現状を維持した方がいいと考える方が優勢になる。敢えてリスクを取るよりは多少の不満を飲み込んだ方が賢明だと考えるようになってゆく。

 そういう保守的な思考は治安維持には貢献する。しかし、いわゆるブレイクスルーには向かない。何が何でも新境地を開拓するという意欲が削がれる。それが従前の士気低下ということになる。現代の日本を覆う大きな問題はここにある。

万年筆の話

 このブログを海外から読んでくださっている方がいるらしい。ありがたいことである。日本語でしか書いていないので、日本語ができる方が読まれているのだろう。このブログは機械翻訳にかけても、意味が通じるような日本語で書きたいと考えている。

 今日は万年筆の話をしたい。日本製の万年筆はかなり優秀である。私が使っているのは安価なものばかりだがパイロット社のエラボーという名の万年筆は大変気に入っている。ペン先は特徴的で柔らかく、カリグラフィーにも使える。日本語は画数が多い漢字と曲線の多いひらがなが混在するため、万年筆にとっては要求される要素が多国語に比べて多い。それに見事にこたえている。日本製の万年筆を知らない人はぜひ試してほしい。きっと感動するはずだ。

 日常的に最も多く使っているのはパイロットのコクーンという安価な万年筆である。鉄製のペン先で高級万年筆のような滑りのよさはないが、それでもどんな筆圧でも対応してくれるような良さがある。日常的にはこれを多用している。

 外国製では学生時代はモンブランを使っていた。インクが乾きやすいのが難点であり、日本語を書くには硬めの漢字もした。でも所有欲、つまり持っていて自慢できる何かを持っている万年筆だった。ただ、いまはほとんど使うことがない。

 最近使っている万年筆は初心者向けのペリカーノジュニア―という学生用万年筆だ。これは家庭で気楽に使っている。私はコンバーター派なのだが、これだけはカートリッジを使っている。専用のカートリッジはかなり特徴的な長細いものである。この万年筆はおそらく小中学生に向けて作られているのだろう。持ち方を矯正するような形になっている。書き味はかなり大雑把である。それにインクの供給も日本製ほど繊細ではない。日本で使っているからかもしれない。ドイツの製品を悪く言うつもりはない。

 それでもこの子供用万年筆には十分な魅力がある。何というか自由になれる雰囲気がある。日本製にも似た種類があるが、それよりも非日常を味わる。これは全くの主観だ。インク供給が止まるたびにキャップをして振り回す。するとまたインクが出る。このわずらわしさも魅力だ。私はこのペリカーノジュニアを使ってエッセイを原稿用紙に書いている。太字で大きく書かれる文字は不断の縦横が交差する文字とは違う日本語を書いているような気になっていい。いつもとはちがう文章が書ける気がするのだ。

融合する力

 新しいものを作り出すことは容易ではありません。無から有を生み出すことを目指すよりは今あるものを組み合わせたり、取り合わせたりすることの方が結果的に新境地に達する可能性を高めます。

 もともと日本という国は地勢上、新発見や発明をするには不利なので、外来のものを自分流に組み直すことをしてきました。物資が限られている中で最大限の効果を発揮できるアレンジをして凌いできたのです。

 私たちはそのことを思い出す必要があります。外来のものをそのまま受け入れるだけではなく和風化するたくましさを取り戻すべきです。現在、世界的評価を受けているものの大半はこの日本アレンジの産物です。文化を融合させる能力を再評価すべきだと考えるのです。

フォント

 どの言語でも同じことが言えると思うのですが、特に日本語は文字の種類が多く多彩なため、それをどのように表記するのかが重要な要素となります。デジタル表記においては字体(フォント)の選択もメッセージの一部と言って構いません。

 最近、難読症の人にも読みやすいフォントが開発され、普及し始めています。字画が適度に太く交差する画が互いを打ち消さないように工夫されています。伝統的な風格は足りないのですが、確かに読みやすい。

 私は今年度から生徒諸君への配布物をこの書体にすることにしました。今までの明朝体やゴシック、教科書体よりも圧迫感や印刷時のかすれが少ない気がします。少し手書きにも似た書体をしばらくは愛用することになりそうです。