投稿者: Mitsuhiro

明けない梅雨はない

 まだ梅雨空が続いている。先日は強い日差しが降り注いだが、夕刻には梅雨空に逆戻りした。どうも今年の梅雨は長引くらしい。

 止まない雨はないという格言がある。ならば明けない梅雨はないと応用できるはずだ。ところが過去の記録を調べると気象庁がいわゆる梅雨明け宣言を出さなかった夏がある。記録的な冷夏で大混乱した。直近では2017年がそうであった。そして農業に打撃を与えた2003年の例がある。明けないこともある。

 暑さに多くの人が適応できていない現状では、猛暑まで時間稼ぎをしていることを良しとする考え方もできる。ただ、何事も例年通りでないのは不安である。

ものの捉え方

 私たちが周囲の世界を見てそれを評価する際には、必ず基準となるものが存在する。よほどのことがない限り、その評価は相対的であり、過去の経験に基づいている。

 例えば、自分の故郷や長く生活した場所はその基準の基礎を形成する。自分が使う方言は考え方の根本に影響する。何を基準とするのかはかなりの重要なことである。

 もちろんそれは評価の高い場所で暮らすことが問題ではない。むしろ劣悪な環境ゆえに理想を高く保てることもある。要するに己を知ることが大切だということになる。

曇天続く

 東京はまだ梅雨空が続いている。ほとんど日がささない。涼しいのはよいがまるで調子が出ない。

 暑い日々がよくないことは分かっている。場合によっては命さえ奪う猛暑はお断りだ。しかし、やはり夏は陽射しがなければ調子が出ない。

 ただ、この後急に気温が上がると健康被害が多数出るかもしれないと言われている。自宅待機で身体の順応ができていない人が多いこらだという。私もその一人だ。

 適度に日が差し、気温が上がればよいなどと勝手なことを考えている。思えば私たちは実にわずかな幅の環境で生きているものである。

神奈川近代文学館

 神奈川近代文学館を訪ねてみた。夏目漱石の肉筆原稿と絵画などの特集展示が主目的だった。そのほかにもいろいろ収穫があった。

 この文学館は神奈川県ゆかりの作家や、神奈川を舞台とした作品の展示のコーナーがある。東京に隣接し、文明開化の発祥地横浜のある神奈川県にちなむ作品は数多い。展示の種類には事欠かない。展示を観てその多彩さを改めて痛感した。神奈川は間違いなく近代文学の「聖地」である。

 文学の主たる展示物といえばやはり作家の直筆原稿である。ほとんどの作家が原稿用紙に万年筆で原稿を書いているのだが、中には毛筆で水茎の跡麗しいものや、流麗な草書体で書かれている原稿もある。一方でかなりの悪筆もあり、それぞれが個性と見えて面白い。そして何よりも推敲の跡が残っていることが興味深い。どのように作品が生まれたのか、その一端が分かるような気がする。

 現代の作家にも原稿用紙に作品を書く作家はいるが少数派になっている。コンピュータで作品を書く今の作家が文学館に何らかの資料を残すとすればどのようなものなのであろう。決定稿以前の制作過程を私たちが察するきっかけは残されているのだろうか。文学館に訪れるたびにいつも同じことを考えてしまう。

神奈川近代文学館

冷静に

 コロナウイルスの感染者が刻々と増えている。我が国では感染者数を低く抑えてきたが、これは検査数の少なさとも関係があると言われている。最近は積極的に検査を実施するようになって、30代以下の人々の感染状況も補足するようになった。結果的に軽傷もしくは無症状の感染者も計上することになっているのだという。

 経済活動再開に歓喜していた人々にとってはまた冷や水を浴びせられる結果になってしまったのは事実だ。このブログでも取り上げた政府の国内観光推進策も方向転換せねばなるまい。ウイルス拡散の政策と認知されれば政権の存亡にも関わる。ただ、以前のようなロックダウンの政策はもはや難しい。そもそも我が国では都市封鎖の効果はほとんどない。いたずらに自粛に走り、経済活動を止めれば感染予防以上のダメージがあるのは自明の事実でもある。

 識者にも予測不能の現況を私たち市民はどのように受け止めればよいのだろうか。まずは冷静にならなくてはなるまい。この期間の異常事態に正気を失ってはいけない。まずは足元を見ることから始めなくてはならない。コロナウイルスはかつて歴史を変えてきた天然痘やペストなどのような致死性はない。罹患すると確実に回復させる特効薬がないということが問題であって、すぐに死に至る病ではない。だから恐れすぎてはいけない。

 さらに、感染力もさほどではない。空気感染をする結核や水疱瘡のような威力はないと言われている。ある程度の予防策はある。最近、コロナウイルスも空気感染するとの報道があったが、諸見解を総合すると飛沫感染の可能性の方が高いようだ。その意味でマスク着用の意味はある。

 感染よりも重大なのが心理的な影響であると考える。コロナウイルスに対するショックは日常のルーティンを破壊し、さまざまな弊害を生んでいる。その中には生活のリズムを失って途方に暮れる人もいるという。私自身にもそう思う瞬間がたびたび起きている。実際に感染していなくても心身に不調を訴える人が出てきているように感じられるのは、精神的なストレスが作用しているのではないか。

 こういう時は冷静にならなくてはならない。緩やかな気分になるために大きな風景を見たり、穏やかな音楽を聴き、少々日光を浴び、孤独を避けなくてはならない。それだけで救われるものがたくさんある。世界は危機的な状況にあるが、致命的な状況では決してない。これから展開次第ではいくらでも状況は変わる。思いつめず冷静に過ごすことが大切なのだ。

東京はどこまで

 コロナウイルスの蔓延で産業社会が衰退する中で、政府は観光支援策を打ち出し今日から実効されている。ただし感染者数が高止まりしている東京都は除外するという。これは理想的には東京から出ることも入ることも自粛すべきだがそんなことができると考えている日本人はほとんどいない。実におかしな政策である。

 日本人でなくてもグーグルマップか何かで東京を検索してみれば一瞬で分かることだが、東京は関東地方の一部分であり、その境目にはほとんど自然の障壁はない。多摩川や江戸川を境界とする地域もあるが、日本の河川はどれも小さく多くの橋が架かり、鉄道や車両が常に行きかっている。私の住んでいる地域は川さえない。道路歩いているといつのまにか他県に入っている。

 私は都民であるが職場は他県にある。職場に行くまでには都と県を複数回またぐ、そんなことも意識していないのが都民の実情なのだ。都県をまたぐ移動をしてはならないという自治体からの要請もあったが、実際は不可能だ。努力目標としてもあまりにも非現実的すぎる。

 今回の観光業支援策にはそれなりの理由は察せられる。地方経済はコロナ騒ぎ以前に深刻な状況にあった。自粛要請はそれに追い打ちをかけ、すでにとどめを刺された企業もある。それを救済するという試み自体は間違っていない。ただし、一方では感染予防を訴えながら、他方では感染の要因となる移動を推奨することは明らかに矛盾している。もっとほかの方法はなかったのだろうか。

 県内観光もしくは圏内観光の推奨の方がまだましであったかもしれない。自県の観光資源を見直す運動を打ち立て、格安の価格で観光資源を提供すれば地域でお金を回すことになり経済学的の理にかなう。日本はどの県も観光資源を有している。ただ意外と自分の家の近くの観光地には行ったことがないという人は多い。この体験をする機会になればいい。場合によってはリピーターとなるし、そうでなくても観光宣伝の口コミをしてもらうきっかけになる。

 政府の観光支援策がウイルスの拡散につながったという結末にならないことを祈る。そうなれば狙いは全く逆効果になり、地域産業に本当にとどめを刺してしまうのだから。

Photo by Pixabay on Pexels.com

まぼろしの開会式

 まぼろしとなるのか。東京オリンピックの開会式の予定日がち近づいている。日本ではこの話題もほとんど出ていない。先の都知事選挙でも延期でなく中止を訴えた候補もいたが敗退した。というより争点にならなかったのである。

 オリンピックに関してはコロナ以前から盛り上がりに欠いていた。2回目の開催であり、国運をかけた民意発揚の機会でもない大会であるためであろう。話題になるのは開催経費や、閉幕後の施設維持をいかにするかといった競技以外のことが大半だった。あるいはこれを景気浮揚の策と考え、あるいは破綻の契機として警戒する声もあった。あまりスポーツそのものの話題にならなかったのである。

 恐らく競技としての関心を持つ前に自粛ムードとなり、思考が停止した状態になっているのだろう。まぼろしとなるのか、準備期間を与えられたのか。まだ分からない。

違う風景をみること

 外出が歓迎されない日々が続いている。政府は観光推進で国内産業を回そうとしているようだが、現状では国民の理解は得られそうもない。

 経済の問題とは別に精神衛生の問題として、外出ができないことは大きな問題がある。普段見ない風景を観ることから得られるインスピレーションが生じないことだ。決して絶景である必要はない。日常の時間には遭遇しない環境に身を置くとこが大切なのだ。

 いつになったらこの自由が謳歌できるようになるのか。私たちの眼前にある現実はあまりに厳しい。せめて細かい観察眼と想像力を鍛える日々としたいと思う。

ビニール傘

 日本には天候が変わりやすい季節があり、特に突然の雨で足止めを食うことがしばしばある。そこで安価なビニール傘が500円程度で売られており、そこそこの強度もあってよく使われる。しかし、強風などで折れたり曲がったりすることも多く、使えなくなってしまうこともある。それを路傍に捨てて帰る不届きものもいる。ゴミの不法投棄には自主規制をする気質の日本人だが、物によってはこの箍(たが)が外れることがある。迷惑だし、何よりも環境問題対策に逆行している。

 ただ、壊れた傘の行き先は不燃物としてのごみというしかない。何かに再利用できるといいのだが、思いつかない。ネットで検索すると傘のビニールの部分を上手に組み合わせてバッグを作る例が紹介されている。それを専業としている企業もあり、製品を見るともともと傘であったことが分からないほどのデザインのいいものになっている。作り方を紹介しているサイトもあるが、少々敷居が高い。ただ捨てるだけではないという可能性を示してくれているのはいい。

 傘の骨の部分は特に処理に困るが、ある人はうまく組み合わせて園芸用品にしたり、インテリアにしている人もいるようだがこれもかなり技能を要する。しかも一つあれば事足りるものばかりで、大量に廃棄されるものを処理するには向かない。

 使い捨て傘という概念をまずなくすことが必要だ。そして強度を強くすることと、逆に部品を分解しやすくするという矛盾する二つの問題を解決する必要があるように思う。再利用の方法をもっと周知させることも大切だ。身近な環境問題としてエコバッグよりも大事なものの一つがビニール傘の行く末に責任を持つことであろう。

Photo by Adrianna Calvo on Pexels.com