投稿者: Mitsuhiro

 雨の日曜となりました。少し乾燥していた空気を潤す恵みの雨と考えています。

 コロナウィルスのニュースが次第に過激化してきています。中国での死者が急速に増加したことに加え、その対策に不安があること。さらには日本でも死者が出てしまったことなどが不安を掻き立てているのです。

この病だけで死に至るのではないことはほぼ明らかになっています。ただ、他の疾病と併発したり、高齢者などの体力低下がある人は注意が必要ということです。

 東京ではすでにマスクが手に入らなくなっていますが、実際に電車に乗るとマスクなしの人もたくさんいます。マスクは予防効果よりも拡散防止の意味があるのだとか。動画サイトには手作りマスクの作り方が公開されています。私もそろそろ作ってみようかと考えています。

 雨はウイルス騒動を少しだけ忘れさせてくれます。その意味でも恵みです。

発車ベル

 駅の発車ベルの中にはその駅でしか使わないオリジナルメロディーがあります。もっと普及してもいいと考えます。

 電車の発車ベルには様々なメロディーがあり、中には駅のイメージにあったものや、民謡などのご当地メロディーのものもあります。地下鉄東京メトロ乃木坂駅のベルが「君の名は希望」という乃木坂46の歌の一部であることはその典型です。

 発車ベルにはかなりバラエティーがあるのですが、多くの場合汎用されています。できれば個性的な発車ベルがもっと増えてほしいと思います。

見え方

 自分の視覚や聴覚を真実の姿と考えるのかについては太古から議論があります。人によって感覚に微妙な差があることが証明されるようになると、この議論は様々に展開されました。

 たとえ物理的身体的な条件が同じでも対象をどのように捉えるのかは均一にはなりません。個人の経験に加えて文化的なバイアスも加わるために感覚は無垢ではありえないのです。

 そもそも私たちは過去の経験と照らし合わせて現実を認識しており、その時点で皆が同じものを見ることはほぼ不可能であるといえます。ことばの力によって、実は多様な現実をいくつかにまとめあげパン、小異を捨てて共通項を見る習慣を獲得したために混乱は起きません。

 ただ、見えているものが違っているという事実は忘れてはならないことであると常に思い返しているのです。

大麦

 コンビニで買うおにぎりの中にスーパー大麦が入っているものがあります。私はよく食します。

 スーパー大麦はオーストラリアで開発された大麦の品種です。食物繊維が豊富で悪玉コレステロール低減の効果が期待できるそうです。白米に混ぜて使われる。米飯のアクセント的な食材です。

 最近、この時期にありがちなのですが体重増加の傾向にあり、さしたる対策もできていないのでせめて食べるものだけでも考えてみなければなるまいと考えているのです。

交友

 調布市にある武者小路実篤記念館に行ってきました。住宅街の中に建つ小さな展示室は文学とは何かを考える素晴らしい空間でした。

 武者小路実篤といえは白樺派の穏やかな作風の小説家であることと、晩年に描いた野菜などの静物画とそこに付された人間味溢れる一言が有名です。この記念館を訪ねて知ったことは、彼が多くの人に支えられ、また支援していた人も多かったということです。残された書簡には友人からの助言や、編集者との交流など交友の中から作品が生まれていたことが伺えるものが多数ありました。

 文学作品が一人の卓越した能力によってのみ生み出されるのではなく、周囲の人たちとの相互作用によって醸成されるものであることが実感できる気がしました。

 実篤の生きた時代は価値観が激変していく難しいものであっただけに、かえって周囲の人々の支えが必要であったのかもしれません。

弱みなのか

 困った人がいたら手を差し伸べたくなるのは人間の弱みなのか。考えてみるといろいろな答えが見つかります。

 自分の周囲に何らかの問題を抱えている人がいると認識した場合、私たちにはなんとかしてあげたいという気持ちが起きることがあります。多くの場合、その気持ちを実行できず、できなかったことに様々な理由をつけます。ただ惻隠の情が起きること自体に意味があるのではないでしょうか。なぜそのような感情が立ち上がるのか。

 識者の説明でこれは人間の歴史と関係するという言説に触れたことがあります。集団で生き残る選択をした人類にとっては集団の維持が死活問題であり、その記憶がいまも作用するのだとか。証明不可能な意見ですが確かにそういう面もありそうです。

 一方で自己本位で利益を独占しようとする営みを私たちはし続けているのも確かです。歴史で学ぶ社会変化の主要因は富や権力の集中が影響しています。利己的な動機が格差を生み出し、混乱のもとになっています。

 相反する言動を繰り返しながら私たちは生きているのかもしれません。緊急事態では同情心が発動し、平時は利己的になることを考えるに、私たちは集団の生き物という意識を忘れたときに自己中心的になるといえるのかもしれません。これは人の弱みなのか。それとも強さなのか。考えていきたいです。

国別対抗

 オリンピックが国別対抗になっていることには歴史があります。古代オリンピックの時代は休戦期間でもあったといいます。ただ、少なくとも先進国にとってはもう国という縛りは要らないのではないでしょうか。

 選手が国のために戦うのは確かに大きなモチベーションです。巨額の支援を受けている選手にとってはいわばスポンサーでもある訳ですから、不可欠であるともいえます。それを踏まえた上で、やはり国家別の競技は減らしてもいいのではないか。少なくとも表彰式で個人競技なのに国歌で表彰することは止めてもいいのではないかないでしょうか。

 団体競技は複数国籍の選手がいてもいいのではないかとも考えています。スポーツの祭典であるオリンピックが変われば他の大会にも大きな影響を与えることができる。国ではなく人が競い、応援する大会にいつの日かなってほしいのです。

考える基準

 自由に考えてもいいと言われても私は困惑するばかりです。自由に考えるというのは無から何かを生み出すくらい難しい。

 何かを考える基準として例えば宗教的な知の枠組みとか哲学者の言葉とか、歴史的事実とかは確かに役に立ちます。さらに身近な人たちの言葉も大きく影響しているのは事実です。

 なんらかの基となる言説があって私たちは自分の考えをまとめることができる。まとめるまでは無数の試行錯誤の繰り返しです。それをある言葉にまとめあげたときに、さらなる命名前の体験に挑戦できるようになるのでしょう。

ネット記事の基本型

 文章読解力の低下が懸念されています。PISAの試験は子どもに対して行われましたが大人も例外ではありません。低下した読みの力に対応するかのようにネットにあがる記事も劣化しているように感じます。

 コラム風の文章には明らかに基本型ともいうべきものがあります。まずセンセーショナルなタイトルは字数制限で途中で切れてもいいように肝心なことは後半に書きます。切れたところに何があるのか関心を惹きます。

 文章の前半は具体例です。多くの場合、筆者が目にした事例やデータを点描するもので、よく読めばいくらでも反例が上がりそうな緩い事例紹介です。これがいくつもあがり、文章の大半を占めることもあります。

 結末の少し前に識者の意見などが紹介されます。インタビューの体裁で済ませてしまうこともあります。そして「いかがだったでしょうか」などで括り、読者に注意を促すといったものです。

 こうした基本形に沿った記事はあまり集中して読まないネット読者を意識して書かれているのでしょう。型はあるので一見文章として成立しているかのように思えます。気になるのは多くの場合、内実が少なく、最後まで読んでも印象に残るものが少ないのです。結局何が言いたいのだろうとか、それならもう少し短く述べられるのではないかといいた感想を持ってしまうのです。

 ソーシャルメディアの短い文しか読まないから読解力が落ちるという人がいますが、字数制限がない文章の世界にも読解力不足の影響が出てきているような気がするのです。文章表現力と読解力は表裏のものですので、書き手側の問題も考えていいのではないでしょうか。

院生時代

 時々思い出スイッチが入ることがあります。突如過去が脳裏を専有し、またすぐに消えていくのです。

 今回は大学院生だった頃のことを思い出しました。朝から晩まで図書館にこもっていた毎日でしたが、夜には先輩や後輩と飲みに行きました。何を話したのかは実はあまりよく覚えていません。あまり学問の話はしなかったと記憶しています。院には進んだもののその先がまったく見えないことへの不安を必死で紛らわしていたのかも知れません。

 その頃は先輩がすべて払ってくれていました。いい時代であったと思うと同時にあれほどタフな時間はもう送れないと考えるのです。