秋の野草の一つに藤袴がある。淡い紫の色はひかえめだが確かな存在感がある。
万葉集では秋の七種に数えられ、古来から注目されていたようだ。なでしこや桔梗のような派手さはない。ただしっかりとした植生やわずかな芳香はこの花の魅力だ。
先日、花壇に植えられた見事な大株を見た。調べてみると野生種は絶滅危惧があるという。ますます愛着が湧いた。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
秋の野草の一つに藤袴がある。淡い紫の色はひかえめだが確かな存在感がある。
万葉集では秋の七種に数えられ、古来から注目されていたようだ。なでしこや桔梗のような派手さはない。ただしっかりとした植生やわずかな芳香はこの花の魅力だ。
先日、花壇に植えられた見事な大株を見た。調べてみると野生種は絶滅危惧があるという。ますます愛着が湧いた。
アメリカ大統領選挙ではソーシャルメディアによるキャンペーンが繰り広げられげいる。選挙に向けていまが佳境だ。果たしてソーシャルメディアのつぶやきは公式の見解なのか、無責任なつぶやきなのか。そのあいまいさが気になっている。
トランプ大統領のツイートは時に過激であり、およそ大国の首席とは思えない表現も出る。しかし、これは公式な見解ではないと思ってみれば、人柄のあらわれとして考えることができる。しかし、時にツイートを政策上の手段として使うこともあり、果たしてどれほど本気なのか分からない。
これはアメリカだけの話ではない。我が国でも政治家が微妙な立場をつぶやきで済まそうとする。しかし公人が不特定多数の人に発言する表現が非公式などと言えるのか。いま大変疑問に思っている。
東京へ気温がまた下がり冷たい雨が降っている。10月も半ばを過ぎたのだから当然といえばそれまでだ。
同じ気温でも春先この気温になったときの感覚とは随分違う。私たちの体感は相対的なものであり、それまでの気温の推移で暑くも寒くも感じるものだ。また冬に向かうこの頃は気分のあり方も違う。
気持ちの持ち方が健康にも影響するという。明るくすごそう。
筒美京平さんが亡くなったことを記念していわゆる昭和歌謡がラジオに流れる機会が増えている。懐かしさとともにそこには厳然とした日本型メロディがあると実感した。これを世界にアピールすべきではないか。
戦後の日本文化はアメリカを中心とした海外要素の模倣と和風化の流れがある。単なるコピーにならないのは、伝統的な日本型旋律の影響や、日本語の歌詞を乗せるという制約のもとに発展してきたからだろう。だから例えば西洋の楽曲をそのままカバーしたような曲でも日本でヒットするのはかなりの和風化が施されたものだ。
それをまがいもの扱いする時代もあったが、いまとなってはその独自性こそが貴重なもののように感じる。こだわりなくいいとこ取りをしたようなメロディラインや、エモーショナルな響きを重視する曲作りなどは日本楽曲の特徴であり、海外にもっとアピールしてよいのかもしれない。
評価されるべきものがされていないことが問題かもしれない。これは楽曲の話だけではない。
感情は自発的なものであり、制御ができないものと考えられる。ただ、ある種の記憶に関してはそれが可能になることもあるようだ。
大切な思い出の一つはいつまでも忘れられないもののはずなのに、思い出すことを封じているかのように出てこない。これは何かが自発の動きを制しているからなのだろう。そんなことは映画かドラマの中の虚構だと思っていたがそうでもないようだ。
制していたものはいつか堰を切ることになる。そこには痛みもあるかもしれない。いまはそのことを恐れるのは止めておこう。いまを生きるための本能の技を信じていよう。
上野の森美術館で開催中の美術展を観てきた。英国の歴代の国王の肖像画や写真を集めたものであった。権力者の画像は普通の絵画とは違うと実感した。
英国に限らず権力者が必ずしも聖人とは限らない。むしろ庶民より拘束度が低いために醜態も残りやすい。そして公式記録としてつまり歴史として刻まれることになる。
写真がなかった時代には国王の肖像画は様々な目的を持っていた。写実的であればいい訳ではなく、むしろ弱点を隠蔽し、ときにそれを補強する必要があった。時代の価値観に合わない部分は描かず、理想的な人物にしなければならなかったのだろう。それを自覚した君主は日常生活と公務の顔を変えていたかもしれない。肖像画のみならず、本人の生活それ自体が二重化、多重化していたのだろう。
エリザベス1世の背景に暗く描かれるスペイン無敵艦隊の背景を観たとき、明るく笑うダイアナ妃の写真を観たときも画像というものの役割を感じざるを得なかった。
公園で楽器を演奏する人を見かけた。なかなかの腕前であり、通行人の注目を浴びていた。もちろん一流の演奏には及ばないのだろう。でも、演じている本人が楽しそうであり、生きがいを感じているようだった。
自分を表現する方法を知っている人は幸せだと思う。うまく言えない何か、言葉にならない何かを表現することは案外難しい。それをあきらめてしまうのが通常の人のあり方だが、楽器演奏なり、大道芸と言われるパフォーマンスなりにそれが表現されることもある。演じること自体が目的だから収益は二の次だ。もちろんお金がもらえればもっといいが、それが目的ではない。
自己表現ができてそこそこ暮らしていける生活が出来たら、なんと幸せなことなのだろう。私は最近そんなことばかり考えている。
線路脇の土手一面にすすきが穂を揺らしている。乗車した電車が起こす風がその揺らぎをさらに大きくする。ここ数日ですっかり季節は進んだ。半袖姿は元気な一部の小学生だけになっている。
関東地方に接近した台風はなんと南に進んでいる。このまま、勢力を弱めて消滅する予報が出ている。今までの常識を覆す進路だ。
詳細に見ればこういった現象はほかにもあるに違いない、数年前一度消滅したのが復活したり、反転して戻ってきたりしたものもあった。自然現象の予測は難しい。誰にもわからないものだとは知っているが、近年のものはあまりにも例外が多すぎる気がする。
南進した台風が戻ってくる可能性は低いという。これもよく分からない。自然は侮れない。
台風は南にそれていくようで最悪の事態からは免れるようだ。ただ、すでに強めの雨が降っており、油断はできない。私には最近風雨とは無関係の悩みがある。
急激な気圧の低下が起きたときにどうも調子が落ちる気がするのだ。めまいや頭痛を伴うこともあるが、大抵はなんとなく違和感があるといった程度だ。厄介な事実である。
気象病ともいわれる症状を訴える人は一定数いるらしい。今日はそれを少し感じている。