投稿者: Mitsuhiro

膜のような

 言葉にならないのだが、私の最近の日常は何か膜のようなものに覆われている気がしてならない。直接触れることができないし、その介在物によって実体が歪んで見えている。

 その膜がどこにあるのかは分からない。実体に貼りついているのか、空気中にあるのか、あるいはソフトコンタクトレンズのように感覚器を覆っているのか。分からないがどこかにそのようなものが存在していると感じている。

 もちろん、これは文字通りの錯覚だ。そんなものがあるはずはない。誰がなんのためにそんなことをするのか説明がつかない。それでもやはり何かを感じている私がいる。

一気に

 今日の東京の予想最高気温は16℃である。一気に季節が進む。南海上を遅行する台風の影響によるものと考えられる。弱いが着実な雨足がこのあと大きく強くなって行くことが予想される。もう半袖の人はいなくなった。薄手のコートを着始めた人もいるようだ。私にとっては曇る眼鏡を気にする季節となった。

英雄中毒

 トランプアメリカ大統領のパフォーマンスを英雄信奉精神の表れと評す人がいる。コロナウイルス罹患を敵に見立てそれを克服したかのように見せかけるスタンドプレーに辟易した人も多いだろう。ただこれはアメリカ人の基本的な思考の一つであり、個人の問題ではなさそうだ。

 英雄は危機的状況においてもっとも目立った仕事を行う。逆境に負けることなく、力技で形勢を逆転する。弱みは見せず立ち向かう姿勢こそが英雄の資質なのだ。その結果、多くの人が救われることになる。

 ただ、英雄は正義の名のもとに破壊行為も行う。正義の行動に巻き込まれて死傷した人は尊い犠牲なのだ。場合によっては彼らも英雄チームに加入させられ、不合理な結末が隠蔽される。そして多くの人がそれに見事に騙されてしまうのだ。

 アメリカは英雄信仰が強い国民性を持っているのかもしれない。少なくともそういう思考経路をとる人が一定数存在する。ただこれはアメリカだけのことではない。呼び方は様々であっても、英雄信奉の考え方はどこでもあり、多少の濃淡はあるが、共通するのは自己目的達成のための犠牲を無化しようとする発想だ。

 かくいう私もヒーロー好きな子ども時代を過ごした。今でも心躍るものがある。ただ、最近はウルトラマンが怪獣退治のためにどれほどの建物をなぎ倒し、何人を踏みつけて圧死させたのかが気になるようになっている。

陶芸

 陶芸の展示を観てきた。難易度の高い美意識涵養の場になった。東アジアの美は奥深い。

 陶器の芸術性は難解だと感じている。本来、何らかの用途のために作られた陶磁器は実用性という裏打ちがある。それが芸術性の方面に傾くときに別の様相を見せはじめる。

 釉薬のたれ具合に何かを感じるのは完全に見る側の美意識の問題になる。作者は当然何かを狙って窯に入れるのだろうが、出来上がったものは偶然性が極めて高い。それに価値を見出すのは、一種の伝統といえる。

 陶芸の美を味わうためにはまずこの審美の伝統に入らなくてはならない。その上で自らの美意識を発動する必要がある。これはどの芸術にもあてはまるが陶芸は特にこの点が意識される。

穏やかな朝

 最近、精神的な休みがなく少し疲れている。こういう時はすこし息抜きをした方がいい。ところがその息抜きの仕方を忘れてしまっている。

 そうだ、かつてこれをしたことがあった。ラフマニノフの交響曲2番を聴こう。確かにこれは効果がある。毎日の些細なことをしばしば忘れさせてくれる。有名な3楽章は特に一種の麻薬のような即効性がある。

 今日は久しぶりに何もない朝。しばらくは穏やかな幻想に浸ることにしたい。

大統領の罹患

 トランプアメリカ大統領がコロナウイルスに罹患したというニュースは世界に衝撃をもたらした。選挙の直前ということでその影響力は甚大だ。まずは回復をお祈りしたい。

 トランプ大統領がこのニュースで特に注目されるのは、自身がウイルス軽視の立場を取り続けてきたこと、その結果世界でもっとも死者を出した国になっていることである。政策次第では被害者の数が軽減されていたのではないかという説もある。

 大統領が国民のロールモデルであるという考えはアメリカにはないのかもしれない。尊敬すべき存在としての国家元首という考え方はなさそうだ。自分に利益をもたらす人物であれば多少問題を抱えていても構わないのだ。トランプ失脚を恐れているのは税制上優遇されている富裕層だろう。

 大統領の罹患という非常事態でも、心配の対象は彼の健康ではない。大統領はそういう立場の人だといわれればその通りだが、何ともやりきれない思いが残る。

10月

 昨日から10月が始まった。年度後半ということになる。日本では4月が年度の始まりだからだ。

 聞くところによるとOctoberは8番目の月という意味なのだそうだ。古代ローマでは3月に当たる月から一年が始まり、一年は10か月だったという。時間の基準というものは時代により、権力により変わってしまうものなのだ。

 私にとっては10月は通過点にすぎない。ただ、なにがしかの時間の折り目として区分を意識することもある。ちょっとした緊張感を得られたならば、それなりの意味はあるだろう。

見たいものしか

 見慣れた風景を何らかのきっかけで写真にとり、後から見直してみると思わぬ発見があることが多い。毎日見ている風景にも関わらず、ここにこんなものがあったのかと発見し驚いてしまう。

 私たちの知覚は多分に選択的で自己中心的だ。結局気になるのものしか見ていない。視角に入っても意識されなければ映像として感知されない。

 絵を描くときにそれを実感する。描きたいもの以外は省略してしまう。あるいは描きたくないものは意識から抜けているといった方が事実に近いかもしれない。見えているのが風景なのではなく、見ているのが風景なのである。

 このことを考えると、視覚による記憶というものがいかに恣意的なものであるかを再認識できる。百聞は一見に敷かず、されど真実にはあらず、である。

声援

 声援に意味があるのかという素朴で根本的な問いを考えてみる。言わずもがなの結論であると先に述べておく。

 何かをするのは当事者であり、どんなに周囲が動いてもそれだけでは意味がない。手を貸したり、資金的援助をしたりと何らかの実質的な支援をするならば別だが、声をかけるだけの行為に効果はあるのだろうか。

 私たちはそれが有意義であることを経験的に知っている。それは私たちの行動が言葉によっているからだ。私たちはごく自律的な身体行動を除けば言葉によって行動している。どのような言葉で行動するかによって行動の程度が大きく変わるのだ。

 だから行動を加速する言葉は効率を上げ、抑制する言葉は過度な刺激から身を守るきっかけになる。だから、声援には意味がある。