投稿者: Mitsuhiro

声援

 声援に意味があるのかという素朴で根本的な問いを考えてみる。言わずもがなの結論であると先に述べておく。

 何かをするのは当事者であり、どんなに周囲が動いてもそれだけでは意味がない。手を貸したり、資金的援助をしたりと何らかの実質的な支援をするならば別だが、声をかけるだけの行為に効果はあるのだろうか。

 私たちはそれが有意義であることを経験的に知っている。それは私たちの行動が言葉によっているからだ。私たちはごく自律的な身体行動を除けば言葉によって行動している。どのような言葉で行動するかによって行動の程度が大きく変わるのだ。

 だから行動を加速する言葉は効率を上げ、抑制する言葉は過度な刺激から身を守るきっかけになる。だから、声援には意味がある。

遠景を見よう

 自己啓発のために書いている。どうも最近は極端な近視眼に陥っている。うまくいかないことの連続が心を砕いており、風景が灰色がかっている。それはあまりにも近いものばかりを見ているからだろう。

 スケッチブックを持って外に出よう。輪郭がはっきりしない遠景に目を凝らそう。そこから浮かび上がるものに夢を見よう。思い切って線を描き込もう。色を付けてしまおう。

 いま足りないのは次の筆を入れる勇気だ。間違ってもいい。世界を分けるラインを決めよう。自分の思う絵を描こう。

運び屋

 今年特に活躍が目立つ職場にテイクアウトの食べ物を運ぶ仕事がある。その大半が個人営業の自転車による運搬である、外出自粛期間を含めて彼らが果たした役割は大きい。

 歩合制といえる彼らの仕事は過酷であり、個人営業扱いなので保障などは個人負担になるらしい。健康であれば場合によってはかなりの稼ぎになるが、仕事が激減することもあるらしい。自己責任という諸刃の剣が振り回される。

 これまでになかった仕事が生まれた一例であろう。ただあまりにも設定がラフ過ぎる。人間としての労働のあり方を考えさせられる。もっとも、そんなことを論じているうちに、自動運転と配達ロボットがせっかく作った仕事を奪い取ってしまうかもしれないが。

夜の寒さ

 急に夜の気温が下がったために、寝具の選択を誤ったようだ。肌寒さのために安眠ができず、何度も目覚めてしまった。

 季節の変わり目は生活体系も変えていかなくてはならない。着るものの選択は大切な要素であり、これに失敗すると体調を崩すことにつながる。毎年繰り返していることなのに、いつも失敗している。

 東京は秋雨前線に包まれてこのところ雨ばかり、つい最近まで騒がしかった蝉がいつの間にかいなくなっている。

できないことは他で

 どうしてもいまはできないと思うことがある。それはできないと言いたいがいえない状況に置かれることも多い。できないことはできない。これは真実だ。

 こういう場合、私は強い劣等感に苛まれる。なぜできないのかと自分に詰問する。当然答えはない。

 もう一人の私が助け舟を出す。できないならばやらなくてもいい。君には向いていないんだ。やらない方がいいんだという。するとさらに別の私が逃げるのは卑怯だという。

 いろいろな自分がひとしきり言い合ったあと、結局できないことはできない。何か別のことをしようという具合になんとなくまとまる。長い時間をかけてようやく重い腰が上がる。残っていた自分の分身が歩き始める。

ハンコ

 行政のデジタル化のシンボルとして、ハンコ文化の廃止とデジタル署名促進とがある。稟議書に並ぶ肩書ごとの押印の列は日本経済界の悪癖として捉えられることが多い。

 もっとも押印の文化は古代から継続するものであり、近代社会にのみ責任があるわけではない。印鑑の持つ権威を共有する人々にとっては便利なアイテムであることは確かだ。また、複数の関係者に文書を共有し、納得させるという工夫として機能してきた。言質をとるよりずっと強制力のある同意確認として。

 デジタル化することは私も基本的に賛成だ。文書を回す時間のロスは蓄積すれば相当な長さになる。ただこれは効率だけの話で終わらない。LINEが普及した一因としてスタンプ機能があった。自らの感情を既定の型で表現することが習い性となっている日本人の根元にふれる意識改革が必要なのかもしれない。

一度見た風景

 既視感というものがある。この経験はかつてしたことがあるというものだ。大抵は思い違いか類似した状況との混同ではないかと考えられる。しかし、程度のさこそあれ、私はこの錯覚で随分助けられている。

 新鮮な体験というものは言葉としてはそれはそれで魅力的な響きがある。ただし、実際にそれに直面するのは相当の覚悟と忍耐力がいる。どう対処していいのか分からないのは不安だからだ。

 そんなとき、これは過去に経験したことがあると考えること、もしくは思い込んでしまうことは、大きな安心に繋がる。傾向と対策は把握できていると判断することができるのだ。

 実際はどんなことも一度限りで同じことは二度と起きはしない。それを繰り返しと考えることは、生きるための知恵に属するものだ。過度な緊張から逃れ、つかの間の余裕を演出することで次のステップが得られるのだ。

 だから既視感を軽視することは止そうと思う。活用すべき幻想なのだから。

さらに涼しく

 今朝は時折小雨が降る重い曇天になっている。予想最高気温は20℃前後だ。涼感というより相対的に肌寒さを感じる。

 天気予報によるとこれから南海上を台風が通過するらしい。上陸の予報は劣勢になったが風雨はそれでも激しくなる可能性が高いらしい。嵐が季節を一層進めることは経験上知っている。彼岸過ぎてもう秋も半ばだ。

 やらなくてはならないことがいくつかある。それを始めるきっかけにしよう。秋の方が集中できることもある。

秋分

 秋分の日が敬老の日と連休になるなどかつては考えられないことであった。おかげで土曜が休みの人にとっては4連休となった。私は土曜勤務なので恩恵はなかったが。人はシルバーウイークともいうそうだ。

 気がつけばこれからは夜の長さの方が長くなる。つるべ落としで昼は短くなっていくというのだ。季節の変動を実感できることは私たちにとっては何かを見直すきっかけを与えてくれることになる。季節という永遠の循環をとおして自分の生の有限を見直すことになるのだ。

 そういえば彼岸の中日でもある。最近は死後の世界など信じなくなっている私だが、死後に何らかのストーリーを考えたくなる気持ちにはなる。そういうことを思うのも季節の変わり目のもたらすものなのであろうか。

敬老の日

 今日は敬老の日である。日本のみならずどの国でも年配者に対する敬意を示す気持ちはあるはずだ。日本の場合は高度高齢社会であり、かつて老人に分類されていた人でも今は立派な現役であることから、この言葉の意味もずいぶん変わったものになっている。

 源氏物語では光源氏は40歳を迎えたことから人生が暗転し、波乱にとんだ展開になる。かつては40歳は人生の転機であり老齢の始まりと認識されていたようだ。織田信長は幸若舞「敦盛」で人間50年と謡い、人生のスパンをそのくらいに見ていた。古希は70歳であるが、現在は日本人の平均寿命が女性で87.45歳、男も81・41歳(2019年)であり、100歳まで生きる人も稀ではない。

 老人を引退した世代と考えるのはどうも違うようだ。少なくともこの国においてはそんなに早く老け込むことはできない。健康年齢が終わるまでは労働人口に属する必要があるようだ。そのための生き方をしなくてはならない。