投稿者: Mitsuhiro

あと1週間

 アメリカ大統領選挙まであと1週間だ。我が国の未来にも多大な影響をもたらす選挙だけに注目している。共和、民主のどちらが勝利しても日本に有益というだけではない。いずれにもリスクがある。

 国際的な協調を基盤として生きていくしかない我が国にとっては、アメリカという大国の力をうまく活用し、ときに協力し、あるいは批判して超大国の本筋を踏み出さないように影響を与えることが必要だ。経済問題は重要だが、東アジアの治安を維持するための同盟関係を展開することの方が大切だ。隣国との小競り合いに事態を見誤ってはならない。

 大統領候補のいずれにも欠点が見えるのが今回の選挙の難しいところだ。アメリカ国民はどのような選択をするのだろうか。

欧米での新型コロナウイルス拡大

 報道によるとヨーロッパやアメリカで新型コロナウイルス感染者数が再び増加傾向にあるという。一部の国や地域では外出制限を発令して感染予防を呼び掛けているが効果は限定的なようだ。このブログを海外でご覧いただいている方もいるようなので、日本の状況についてまとめておく。

 日本でもコロナウイルスの感染者数は増え続けている。現時点で97095人が感染し、1716人がこれが原因で亡くなられている。痛ましい事実であるが、世界の他国の感染者数と比較すると少ないという表現ができる。昨日の東京の発症者は102人である。月曜日の統計はかなり低く出るのだが、3桁になったのは8週間ぶりであり、増加傾向にあることは否めない。日本をはじめとする東アジア諸国はこのウイルスとよく戦っているといえる。発生源と思われる中国が近いのにも拘らず、韓国も台湾も感染者数は低く抑えられている。中国のデータは信用していいのかわからないので除外するが、人口100万人当たりの感染者数は日本が771人、韓国が501人、台湾は23人、ベトナムは12人しかいない。アメリカは26533人、ブラジルは25460人、フランス16313人、イギリス13153人などと比較するとまさにけた違いだ。(ネット上の安易な情報収集によったもの。各国の基準が異なる可能性があり全面的な信用性はない)

 だから日本でもコロナウイルスの脅威は十分に知られているし、ほとんどの人は外出時にマスクをする。店に入るたびに手指の消毒を求められ、場合によっては検温が条件となる。夏の暑い盛りでもマスクは外さなかったし、いまは眼鏡が曇るのに閉口しているがそれでも続けている。もともと公衆衛生にはうるさい国民性と、こどもの頃からの手洗いうがい教育が奏功しているのかもしれないが、日本ではウイルスに対する生活習慣があったのが一つの要因になっているのは間違いない。さらにはすでに中国からの旅行者が弱毒性のウイルスを運んでおり、それに対する抗体ができていたとの説や、BCGなどの他の目的のワクチンが効果を発揮しているといった説も日本では取りざたされている。いずれも真相は分からない。

 そういう状況なので、実は欧米での悲惨な状況が日本国民にはよく理解できていない。単純に考えて、日本より30倍以上の感染者がいるアメリカ人がどうしていまだにマスクをせずに集会を行うのかが理解できない。22万5千人を超える死者がすでに出ているというのに、次が自分の番であるかもしれないと思わないことが分からない。きっと数字だけでは分からない何かがあるはずだ。そう考えないと腑に落ちないのである。

歴史的な場所

 史跡を訪ねる人はいつの時代も後を絶たない。それは歴史の授業で学んだからだろうか。それは一つのきっかけに過ぎない。おそらく人をひきつける要因にはもっと深いものがある。

 私たちは過去の人々が確かに生活していた場所に赴くことで、現在地を確認しようとしているのではないか。不断の時間の流れの中で、物事は常に変転し、その無常の現実さえ見失っている。大抵は意識しないでいられても、ある時突然思い浮かぶ不安定な気持ちを抑えてくれるのが歴史なのではないか。

 過去は輝いているとは限らない。否定したい負の記憶も含まれている。ただ、それも含めて振り返ることが、現在を安寧な気持ちで生きるための条件なのではないかと考えるのだ。

転地の効果

 行き詰った時には思い切って今まで言ったことがない場所を訪れた方がいいかもしれない。非日常の環境に身を晒すことが新しい局面を連れてくるかもしれないのだ。

 環境を変えることは危険なことだと言われる。いたずらに緊張を高ぶらせてしまうかもしれないからだ。しかし、自分とは無関係の場所に訪れて、無目的に時を過ごすことが大事なのかもしれない。それは時間の浪費ではない。ならば、読書とかゲームが代わりになるという人もいる。そうかもしれないが、思い切って非日常の世界に身を置くのはより効果的なように感じる。

 疲れた体を休ませることは大事だが、心の安定の方は別のやり方で取り戻すことが必要なのかもしれない。

どちらになっても

 アメリカ大統領選挙はいよいよ大詰めだ。今のところ挑戦者のバイデン候補に部があるとメディアは報じているがアメリカ人の判断はどうなのかは分からない。単純な多数決でないことも予測を難しくしている。

 日本にとってはどちらの候補者が大統領になっても、相応の対応が必要であり、それが容易ではないということだ。まずはこの国の土台を固めなくてはなるまい。非戦協調の路線を選択した我が国は分断志向の時代では生きにくい。国際舞台で相応の役割を果たすことで、共栄の時代にせねばなるまい。

 指導者を育成することが、とても大切になっている。

分析癖

 ヒットしたアイテムがあるとその理由を分析したくなる。何がよかったのかを要素に分けていちいち検証する。それは意味があるのだろうか。

 私は意味はあると考える。分析するとは自分なりの視点を持つことであり、詳しく観察する過程にあることだ。だからやるべきことである。そこに新しい発見がある可能性はある。

 ただ、いくら分析しても同じものは作れない。同じようなものも作るのは難しいだろう。様々な要素の組み合わせと相互作用によって物事はできあがっており、部品に切り離した時点でもうまったく別物になっているはずだ。

 学問でも日常生活でもこのことを時々思い出す必要がある。

疲れてくると

 疲労がたまると忘れてしまうことがある。その場を切り抜けることばかり考えてそれがすべてだと考えてしまうのだ。視界はどんどん狭くなり、息遣いが荒くなる。

 そのようなときは思い出さなくてはならない。いまどうして自分はここにいるのか。なんのために日々を送っているのか。それを今一度思い返すのだ。

 損失の多い日もあれば、良いことばかりの日もある。あるいは実際はそれほどでもなくてもそう感じることがある。疲れたときににはとかく下半分ばかりが気になる。でもそれがすべてではない。全体を見なくてはならない。

 私はときに私自身を遠くから見なくてはならないと考えている。

うまくやる

 物事を効率的に行うことは究極の目的かもしれない。無駄をなくせば様々な効果が発揮される。うまくやればいい結果が出る。至極当然の論理だ。

 しかし、うまくやるためには下手にやる経験も必要だ。失敗がなければ何が良いのかも分からない。頭で分かっているつもりになっていても、実はそうではないということはいくらでもある。

 失敗を許さないという最近の風潮はその意味で心配だ。ならばコンピュータに判断を任せて失敗を避けよという。するとますますうまくやることの実感が消えていき、全体の構造を俯瞰できなくなる。その結果、環境の変化に対応することはできなくなる。何よりも仕事の実感とかやりがいといったものが見えなくなる。

 せめて若いうちはうまくやれと言い過ぎない方がいいのかも知れない。古人の言うように失敗は成功のもとなのだから。

労働の価値

 金を設けるために何をすればいいのか。そんなこと話題にしているものは山とある。最近見た動画サイトには、職業を選べという。接客サービスなどを行う業種はもうからないのでやめろと何度も言うのだ。

 理屈から言えば確かにそうなのかもしれない。過当競争の多い業種は労働に似合った対価を受けていない。消費者側もそれを分かっていながら、あえて高い金を払うことはしない。だから働き損だということもできる。金銭の獲得という面だけでいえば労働には効率の差がある。

 しかし、労働の中に何を見出すのかという基準でいえば少し違う結論になる。労働の内容それ自体に意味を見出すのならば、決して経済的な数値だけが物差しにはなるまい。どれだけ達成感があるか、社会貢献の自覚がもてるのかということも労働の価値を考える際には必要な尺度だ。

 時に矛盾する価値を埋める何かを考えなくてはならないと思う。社会のために働いている収益効率の低い人を評価する方法を見つけるべきだ。

藤袴

 秋の野草の一つに藤袴がある。淡い紫の色はひかえめだが確かな存在感がある。

 万葉集では秋の七種に数えられ、古来から注目されていたようだ。なでしこや桔梗のような派手さはない。ただしっかりとした植生やわずかな芳香はこの花の魅力だ。

 先日、花壇に植えられた見事な大株を見た。調べてみると野生種は絶滅危惧があるという。ますます愛着が湧いた。