投稿者: Mitsuhiro

旧弊

 最近の自分の中のキーワードが「旧弊」だ。古臭い言葉自体がすでにその雰囲気を醸し出している。私の生きてきた過去を否定したくはないし、するつもりもない。ただ、何となく前例に倣うことは現状を維持しているどころか、確実に後退していることに繋がっている。

 何か次の段階に進むためには捨てなくてはいけない要素もある。時に痛みを伴うことがあってもそれは仕方がない。新しいことを始める覚悟とはそういうことなのかも知れない。

 体力と気力の衰えを感じる最近ゆえ、切実な問題として旧弊を早めに打破しなくてはならないと感じる。恐らく今やらなければもうできなくなるのだろう。

集中のための遮断

 最近全く集中力が落ちている。気力の問題が一番だろうが、デジタルデバイスがなにかに向かう気持ちをかき乱しているというのが事実だと考えている。最近読んだ『スマホ脳』という本にも書かれていたが、スマートフォンはその存在を意識するだけで人の集中力を奪うのだという。たしかにそのような事はある。

 今朝もいろいろなことをしようと考えていたのに、ネットに向かった瞬間からあれこれ見たいものが発生し、一つを見ると関連したものへの誘惑が起きてしまう。その連鎖がいつまでも続いてものごとがはかどらない。これはデジタル分裂症とでも言うべきものなのだろう。

 わざわざカフェで仕事をする人はそうした誘惑を自分に不自由な条件を課すことで集中力を保とうとしているのかもしれない。何かに向き合うために、他の多くを遮断することが今私達がしなければならない生活のスキルであることは間違いがない。

分かれ目

 卒業式の定番曲「仰げば尊し」の歌詞を分かれ目と誤解していた時期は長い。係り結びの法則を学んだあともこの歌詞に思いを致すまでには暫くかかった。

 ただ分かれ目説にもそれなりの説得力がある。卒業を気に人生の分節点を意図的に作りだし、現状からの脱却をはかるというのはむしろ卒業の意志にふさわしい。そう思って歌唱している人は多いのではないだろうか。

 慣れ親しんだ学舎と同窓の仲間との訣別を覚悟する点においては当たらずといえども遠からず。それぞれの思いで歌えばいいのかもしれない。

記憶

 震災記念日を過ごしたが、10年前本当に不安だったのはそれからの日々だった。福島を始めとする原発や火力の発電設備に支障があり、エネルギー不足に直面したからだ。

 街頭が部分的に消され、電車内の照明も間引きされていた。広告用の電球は優先的に外されたようで結果として街は暗くなってしまった。

 毎日放射線の量が発表され、それがどの程度深刻なものなのか理解できないまま、小数点以下の変化に一喜一憂していた。

 終わらない余震、ソーシャルメディアに出ては消えるデマなど、心を揺らすものは止まらなかった。地震発生後の経過を振り返ることは苦しいが、今後のためにはやっておかなくてはならない気がする。

10年目

 東日本大震災から今日で10年経ったことになる。震災発生時は職場にいてその日は帰宅できなかった。翌日部分開通した電車で途中まで行き、あとは歩いて帰宅した。東京でもかなりの揺れがあり、近隣で死者が出た。ただ、自宅の家具はほとんど無事で不思議なほどだった。

 恐怖はその後にやってきた。福島の原発事故や、各地の発電所の停止による計画停電、ライフライン寸断の脅威などいろいろあった。それらを乗り越えてきたことは考えてみればかなり歴史的なことだった。

 そしてパンデミックが起こり、いまに至る。私たちの生きる世界はいつもなにかが起こり、それへの対応が迫られる。この国に住む限り、グローバル時代に生きる限り、この事実からは逃れられない。震災記念日はそれを再認識する一日なのだ。

使わないなら

 古典の学習が無意味だという人はかつてから一定数いる。特に学習に興味を持てず苦しんだ人に多い。学生たちの愚痴として、また大人の思い出話の一環として語られることが多かったが、最近、影響力のある人までが発言するようになったのは残念だ。

 古典文学の学習は文化の継承に不可欠というだけではなく、母国語の深層部を知るきっかけになるものだ。例えば「うつくし」が可愛らしい意味を中心に用いられていたことを知ることで、現在の「かわいい」文化の淵源がわかる。考え方の型や、人生観の変化も学ぶことができるはずだ。

 学校の古典教育が入試科目として位置づけられ、表層的読解に終始してしまっているのがいけないのかもしれない。このことは回を改めて述べてみたい。

書店の意味

 近隣の書店が閉店してしまった。駅ビルの中にあって便利であったのに残念でならない。電子書籍を利用することも多いが、大切な本はやはり冊子で購入したい。それがどんどん難しくなるようである。

 小規模の書店は近隣からほぼ消滅してしまった。いくつも支店をもつ中規模以上の本屋が残り、それも次第に数を減らしつつある。読書をする人が減ったのに加えて、ネット注文ができたり、電子書籍が普及したりで、この業界には逆風が吹き荒れている。

 自分の本を所有することの意味はデジタル化社会でも変わらないといわれる。知識の吸収という面において紙面メディアは優位にあると言うことはデジタル教科書問題でしばしば議論されている。

 その意味で書店が消えていくことは残念だ。損失というしかない。

定点観測

 かなり前に同じ場所から同じ方向の写真を取り続けたことがある。定点撮影を気取って四季折々の変化を比較して楽しんでいた。

 定点観測はいろいろなことを気づかせてくれる。よく考えれば変わるのは風景の方だけではない。例えばこのブログのように毎日考えることを綴っているのは、自分という定点がある。そこから見える世界は日々刻々と変化しているが、それを見ている自分も動的平衡を保ちつつ変わりゆく存在だ。

 ブログを定点とすれば、変わりゆく世界とともに自分の変化も記録されていることになる。くだらない文章を連ねる意味があるとしたら、己の定点観測をすることにあると言える。暫く続けていきたい。

マスク、フィルター

 近隣の動物園に行ってきた。小動物が中心の市営の動物園で入場料もいらない。珍しい動物はいないが、間近に見られるのがよかった。

 鳥類の展示にはみなフィルムが張り付けてあり、外気を遮断していた。掲示によると鳥インフルエンザ対策という。人間はコロナウイルスのためにマスクをつけ、鳥は透明なフィルムで囲まれている。まったくこの世は油断ならない。目に見えないものに対してこんなにも怯えて過ごさなくてはならないことに少々疲れてきたのは事実だ。

 まだ我慢しなくてはならないことは分かっている。その我慢が多くの人を救うことも。しかし、理解することと感情とは別にあるようだ。やり場のない悲しみだ。飛び立ちかねつ鳥にしあらねば。鳥もダメだった。

偏見

 脳に事実を曲折する機能が織り込まれていることが最近読んだ本に書かれていた。偶然だが同じような言説に出会うことが多い。これをバイアスと言ったり偏見と言ったりしたあるいは錯覚と言ったりしている。

 このような現象は脳の不完全さを示すだけではないようだ。むしろ、現実の生々しさを軽減して受容できる形にするために遺伝的に形成されたのだという識者もいる。首肯すべきだ。

 ただ、森の中で生きてきた先祖と、機械に多くの作業を任せている現代人とでは生き残るための戦略が異なる。にもかかわらず錯視の中で生きるのには問題があるのだろう。

 少なくとも自分の見たこと聞いたことが世界の真実だとは思わないようにしなければ。錯視の風景をそれなりに楽しむことが必要だと思う。