投稿者: Mitsuhiro

上着

 上着を着ずに出かけたことを少々悔いている。今日は少し気温が上がるようで、24度に達するかもしれないということだ。このところ少しあとの季節の先取りをしているだけに体感温度の調節が難しい。

 季節の変わり目は神々の往来があるというのが古代からの伝統的な考え方のようだ。様々な災禍や病患を発生しやすいことから生まれた民俗なのだろう。根拠の有無は分からないが注意するに越したことはない。

 来週からは上着をつけようかと考え出している。体温調整の準備も必要だ。

低温

 関東地方は気温が上がらない日々が続いている。今日は20度に到達しないかもしれない。あすからはまた暑さが戻ってくるようだが、どうもこれまで涼しさに慣れてしまうとこの後が辛くなりそうだ。雨や曇りの日が続いており、気持ち的にも盛り上がらない。

 天気と感情との相関関係がどれくらいあるのかわからないが、気分転換が難しい昨今の様子にあってはちょっとしたことが精神衛生に影響する。天候も緩やかであってほしい。

パラリンピックも終了

 いわゆるTOKYO2020大会が今日で終了した。メダルの数が増えたことは選手や競技関係者にとっては嬉しいことだろう。日本人にとっては非常に複雑な大会であった。すぐ近くで行われているのに見ることができない。海外からの選手団を歓迎することもできず、ウイルスの運び屋ではないかなどと勘繰る向きまである。折悪しく開催時期にコロナウイルス感染者が爆発的に増え、緊急事態宣言が出されたままであった。

 日本人は災害に慣れているのか、この状況になっても一部のデモがあっただけで、混乱はまったくない。海外でどのような報道が行わているのかわからないが、東京は極めて平穏である。人出は抑制されているが、それでも集まるところには集まっている。マスク姿の異様性ももうなれてしまっている。医療機関は大変な状態だと言うし、在宅待機を言い渡らされて後に死亡した事例なども紹介されているので事態は深刻なはずなのに、少なくも自分の近辺はほとんど変化がないのだ。

 このウイルスの罪なところはこのように一部の人に深刻な害を与え、それ以外は軽く済んでしまうということだろう。危機感を共有しにくいし、真剣な対応も取りにくい。オリンピックとパラリンピックもだから素直に受け取れない。現代人を分断しようとする悪魔の手段なのだろうか。国際大会は多様な人を結びつけるための手段であったはず。古代オリンピックは不戦の日としての役割もあったはずだ。私達はなにかとても大きな力に対しても勝利を収めなくてはならない事態に追い込まれている。

先輩面にて

 先輩面して一言言おう。今できていることがいつまでもできるとは、思わない方がいい。これは大切なことだ。

 誰もが加齢という不可逆的な流れから逃れることはできない。見た目がいかにあろうとも中身は着実に変化しているのだ。するといままでできていたことができなくなってくる。これは少しずつ自覚できるものではない。あるとき急に立ち現れ、ゆっくりと自覚を促そうとする。抗えないものと観念するには時間はかからない。

 だから後輩諸君には改めて言っておきたい。先延ばししても同じことができる保証はない。やれるときにやっておくのが賢明なのだと。

涼風

 ここ数日、気温が低めで推移している。猛暑に順応した身体にはかなり肌寒く感じられる。これが秋の始まりかというとそうでもないらしい。季節のゆきあいは波のような循環である。

 落ち着いて本でも読みたくなっている。8月は暑すぎた。比較的時間があったというのに。毎年、同じことを思うのだが夏の休みはあまり生産的ではない、私にとっては休養のときなのだ。その意味では目的を果たせたのかもしれない。

 このブログはポジティブになるために書いている。そしてこれからもそうするだろう。

命か学びか

 恐らく現在多くの教育現場で出ている話題に、通学を優先するのか安全性を重んじて在宅にするのかということがある。いま蔓延しているウイルスのように致死率が高いわけでもない、さりとて無視できない害を持っている場合、その判断はかなり難しい。

 リモート授業の設備が整ったとしてもこの問題は残る。リモート授業の学習効果に関しては様々な疑問があるからだ。発信者側のスキル未熟もしくは未発達という問題もある。それよりも大きいのが受け手側の問題なのだ。学校という特別な空間に身を置かずに学びの姿勢に切り替えるには生活習慣の改良を伴う大きな変化が必要だ。仲間との関係から醸し出される様々な感情とその対応も学校でこそ学べる。

 現状では保護者が責任を持つしかない。学校が万全を尽くしたところで感染の虞はなくならない。保護者が我が子の将来を見越して選択するしかなさそうだ。

9月

 今日から9月だ。伝統的な暦ではすでに秋は始まっているが、この月を季節の変わり目と考える人は多い。今朝も昨日と比べるとかなり気温が落ち、何かが変わったことを感じさせる。

 日本では夏休みが終わり2学期が始まるのがこの月だ。最近は地域によって様々な形があるので一概には言えなくなっている。再始動の月であることは確かだ。

 集団生活の復活に緊張する子どもがいることがこの時期の年中行事的な出来事である。今年は少し様子が違う。コロナウイルスの感染が一向に収束に向かわないので、登校を辞退するという選択肢があるのだ。行きたくないからの理由が、個人的な問題にとどまらなくなっている。

 生徒、学生諸君には早く平常の学校生活を送っていただきたい。失われた何年などと後で言われないようにやれることはやっておこう。

好ましくないたとえ

 ワクチン接種が進む中で様々な問題が生じているようだ。異物混入という深刻な問題は特に注目される。それでもワクチン接種は進めなくてはならない。

 好ましくないたとえであるが、自分の身体を全く知らない赤の他人に任せているというのがいまの日本である。世界の大半の国が日本と同等なのだが、それも大きな問題だ。ワクチンのような最新技術ゆえ仕方ないともいえるだろう。ただ、それにしても外国製しか選択できないというのは問題が大きすぎる。

 グローバルな時代に国産にこだわるのはおかしいというのが少し前までの考え方の主流だった。コロナ禍はその間違いを教えてくれた。グローバルな繋がりは何らかの理由で途切れることがある。その時どうするのか。食料やエネルギー問題も含めて再考する必要がある。

「空気」問題

 日本人の国民性として取り上げられるのが「空気」の察知能力だ。個人よりも集団を重視する日本人はいまいる環境の中での適合を好む性質がある。秩序を重んじるのはそのせいだといわれる。これは長年言われ続けていることだから、ある程度は正しいのだろう。

 「空気を読む」はしばしば命令形で用いられ、集団の輪を乱さないことが美徳とされている。これはこれで素晴らしいことだと感じる。ただし変化には弱い。国際社会の中で日本が衰退の方向に向かっているといわれているのは、このことと関係があるのかもしれない。過去に日本が苦難の歴史を乗り越えてきたのは、時代の変節点においてこの国民性を一時的に変更し、極端から極端に走ることで対応してきたからではないだろうか。

 極端に性格を変えることには相当の痛みを伴う。多くの犠牲者が出る。それを避けたいと思いながらも、どうしても極端に走ってしまう。過去の秩序を旧弊として非難する風潮が社会に満ち始めている。やがてこれが日本社会を大きく変えてしまうかもしれない。だが、事態が落ち着くとまた同調モードに逆戻りして平和主義になる。そういう歴史を繰り返しているのではないだろうか。

 もしそうならば、いまは同調モードが破綻しかけている時期と察する。このあとに大きな変革があるかもしれない。いやすでに始まっているのかもしれない。同調しきれない要素が世界を満たしたとき、一気に変化していく可能性がある。そこでの痛みをなるべく減らすために、私たちは過去の歴史に学ばなくてはならないかもしれない。

プレゼン資料

 プレゼンテーションのスライドを作っているとついそれだけが目的のようになってしまう。スライドが主ではなく、発表が主だということを忘れてしまう。

 プレゼンテーションのスライドを作るのはかつては結構ハードルが高かった。ところが、いまはかなり簡単にできる。画像を貼ることも簡単で、動画も付けられる。だから、どうしても作りすぎてしまう。

 大切なのはメッセージを伝えることであり、プレゼンテーションの資料に余計な装飾はない方がいいこともある。聞き手が話の内容に集中できるようにしなくてはならないのだ。

 最近は学校の授業でもスライドを多用しているが、いつも思う。メモできる程度を超える情報は出してはならない。記録ではなく、記憶に残すものにしなくてはと。