投稿者: Mitsuhiro

遅ればせながら

 遅ればせながらマイナンバーカードを発行した。国家による情報統制だと当初は警戒していたし、今でもその気持ちは残っているが、時代の流れには乗ってみないといけないこともあるようだ。要は使いようであり、不正利用されないよういつも関心を持ち続けているしかあるまい。

 医療情報の集約化は期待している。医者ごとに処方が異なり、連携が難しい現状は改善すべきだろう。多様化は損ねてはいけないが最低限の情報共有は医学の進歩にもつながるかもしれない。個人消費行動の監視については避けられない状況にある。第三者への情報開示がどのように制限されるのかは関心がある。

 行ってみれば誰にでも名前が知られているような状況になる制度だけに、社会の変化を引き起こすことは必至だ。便利だが恐ろしくもある。

他山の石

 汚職事件容疑で議員辞職した元党員に対して、党の要職にある人物が「他山の石としたい」という旨の発言をしたことが話題になっている。他山とは何事か、事件が起きたとき、辞職した議員は党員であり決して他の山ではない。あまりに無責任だと言うのだ。

 私もこのニュースをラジオで聞いたとき、件のコメントを聞いた瞬間に違和感を覚えた。しかし、すぐに次の理解に変わった。この方は反省する気はないのだと。事件当事者と自分たちは無関係ない。ただ、一応気をつけておきたい、という意味だと。

 私と同じように考えた人は多いのではないか。野党の誰かが同じ発言をしたとしても印象は変わらない。私たちは政治家をひと括りに考えているからだ。不用意に成句を使うと返り討ちに合う。今回の「他山の石」が他山の石となることは確かだ。

 ところでこの故事成語は詩経という古典の中の古典に典拠があるらしい。紀元前の文献で解釈が難しいものも多い。厳密に言えば作者の意図ははかり難い。わかるのはどのように解釈されてきたかという歴史である。

 ネット検索すると他山の石を他人を模範にせよという意味で使う人もいるらしい。原典の文脈ではこの石は宝石を磨く砥石のような存在であり、範たる存在の比喩ではなさそうだ。他人の悪行や失敗でも自己研鑽の契機にはなるというのが一般的な用法だ。

 なんでも検索し参考にする(私もしたばかりだ)現在では他者の言動の善し悪しなど考えないという価値観の変化が現れているのだろうか。

 

次にやること

 次に何をやるのか。それを考えなくてはならなくなった。こういう気持ちは時々意識されていたのだが、その都度思考停止してきた。その習慣をやめなくてはならない。

 いま持っているものなり、わざなりを活かしながらも、場合によってはそれを捨てても次の段階に進まなくてはならない。いまはそのような段階に入ったようだ。

 それが何なのかはまったくわからない。とにかくやるしかない。過去の経験ではそう考えた時に展開はあった。信じるしかあるまい。

緊急事態は明けても

 緊急事態宣言が解除になった。しかし、日常は何ら変わることがない。相変わらずウイルスに怯える毎日だ。

 後日これを読み直すときのために書いておくと、毎日のマスク生活は変わらないが実はそれほど恐れてもいない。普通に外出し、外食もする。全員がマスクをつけて、やたらと消毒液が置かれていることを除けばあまり変化は感じられない。

 通勤電車が幾分空いたのはリモートワークをする企業が増えたからだ。ただ、すべての人が家で仕事ができるわけではない。だから、自然と人はあふれるのだ。

 おそらく数年後にコロナ禍という社会現象を振り返ったとき、大きな変節として捉えられるのだろう。いまはまだそれに気づくことができない。

やり直しと前進

 緊急事態宣言が解除されるという。まだ何も変わっていはないがとりあえず次の段階には進める気がする。私自身、この病禍のためにいろいろ変化した。はっきり言って停滞というより退化したこともある。ここからはやり直しだ。そしてむしろ今までにないことを始める必要がある。

 いろいろなことへの自粛の気持ちはようやく保ってきた向上心の最後のかけらをも奪いつつある。今はその塵埃をかき集めて何とか形を作らなくてはならない。気持ちの衰退は身体にも来ている。最近、体調の変化を自覚している。危ない状態に確実に近づいている。恐らく運動不足が大きな原因だ。

 社会の再開とわたしの人生とは無関係だが、少なくとも強い相関はないが、でもこれを機に一歩前に進まなくてはならないという気持ちにはなっている。

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余震

 今日18時9分頃、宮城県沖でマグニチュード6.9の地震が発生し。最大震度5強を宮城県で観測した。気象庁によると2011年3月の東日本大震災の余震ということだ。10年経っても余震があるとは実に驚きである。

 先月も同規模の地震がありやはり余震とされていた。地震は収束に向かっているのか、それとも新たな大地震の予兆なのかは誰にもわからない。今回は津波注意報まで出た。東北の皆さんには心配であろう。察して余りある。もうそろそろ終わるかと思えばまたぶり返す。日本にとって地震との付き合いは止むことがないのだ。プレートに上に浮かぶ船のような日本列島に生きる以上、これは覚悟しなくてはならない。

 常に内心に危機を感じ、突然訪れるかもしれない終末を潜在意識のなかに持ち続ける。これが日本人の心性を形成している。

黄砂

 今年は黄砂の量が多いとのこと。花粉症の私にとってはまた防がなくてはならないものが増えた。緊急事態宣言は解けるようだが、別の意味での緊急事態は暫く続く。

 黄砂は中国などの砂漠地域の砂塵が風に飛ばされたものという。その総量は計り知れない。一点に絞れば微量だが、人体にも機器などの人工物にも甚大な被害を及ぼす。

 自然の循環の一つではあるが、人智では制御できないものがあることを思い出させてくれるものでもある。

読書量

 読書量といわゆる国語の能力はおそらく相関関係があるはずだ。たくさん本が読めるということは、文字から内容を理解できているということであってそれだけで読解力のある証だろう。

 ただ、本を読まなくても国語の点数がいい子どもはいくらでもいる。つまり、読書量は国語の点数を取る必要条件ではない。点数を取ると断ったのはあくまで従来の大学入試のような問題を想定しているからだ。より深い読解をここでは考えないことにする。

 国語の試験で聞かれることは論理の展開を把握できているかどうかだ。だから極端なことをいえば、内容が本当に理解できていなくても正解は書けてしまう。国語の成績はいいのに、その知識の深みが感じられない人がいるのはそのせいなのだろう。

 読書量は国語の成績のためというより知識や知恵の厚みを担保するものとして重ねるべきなのだ。

短冊

 スマートフォンを使うようになって、フリック入力にもすっかり慣れた。このスタイルは昔の人がみたら短冊を持っているかのように見えるのかも知れない。

 昔から短歌や俳句を作ってきた。いまでも思い出しては作り続けている。スマホに横書きのデジタル文字で歌や句を書くことは抵抗感が消えないが、いつでも書いてなくさずにいられることは便利だ。

 俳句のブログは実はそこそこアクセス数がある。きっと時代が変わっても、共通する情緒があるのだろう。

自己開拓

 何事も効率よく行うことが賢い選択のようにいわれる。ただ、自己開拓の大切さは忘れてはいけない。

 できるなら無駄なことはしたくない。そう思うのは人情というものだ。この考え方が新しい何かを生み出して来たのは確かだ。その事実をないがしろにはできない。ただ、いつでも最短距離で行くことがいいとは限らない。失敗のなかから生まれるものもある。

 いつも思うのだが、失敗はそれを寛容する社会がなければできない。そして、失敗を前提とした生き方は自らの勇気が試される。自己開拓をすることの苦労と楽しさは今の自分にもっとも必要なものである。