投稿者: Mitsuhiro

近隣の見直し

 コロナ禍で遠出ができなくなった副作用もある。近隣の歴史や文化について考えるきつかけを与えられたことだ。

 身近な事柄について私たちは価値を見いだすことが難しい。日常に隣接することには特別な意味を感じにくいのだ。当たり前というバリアがすべてを見えなくしてしまう。

 どんな地域にもそれまでの歴史の積み重ねがあり、そこにはさまざまなドラマがある。そのことを思い出させるのは、今回の異常事態の僅かな功績の一つなのだろう。

聞き出すこと

 当事者でないと理解できない苦しみがあることは確かだ。それは心身ともに痛みを感じるものである。名状しがたいものであり、本人以外は決して踏み込むことができない何かだ。まずそこから始めなくてはならない。

 その意味において私たちは、他者の窮状を救うことはできないのかもしれない。陥穽から這い上がるのはあくまで本人であり、手を差し伸べれば解決するというものでもあるまい。ただ、本人が上昇するきっかけを与えることはできるのかもしれない。それは相手が苦しんでいるということを理解することから始まるのだろう。

 相手の苦しみを当事者に言語化してもらうことができれば解決策に近づく。漠然とした不安が言葉に集約されれば、その本質に近づく手がかりが生まれてくる。だから、私たちができるのは苦しみの当事者の言葉を聞き出すことだ。これには粘り強い気持ちが必要であり、その前提の愛情もいる。聞き出すことから、自助のきっかけを引き出せるのだ。

雑草

 雑草を検出するスマートフォンアプリがあるらしい。カメラを向けるだけで植物名を同定する機能があるアプリは私にとっては魅力的である。ただ、雑草判定機能があると聞いて躊躇を始めた。

 かつて庭付きの家を借りたとき、草刈りにはかなり手を焼いた。周囲が田圃ばかりの田舎であったからか、繁殖力は凄まじい物かあった。当然雑草との戦いが繰り広げられる。除草剤は巻きたくなかったし、農家が持っているようなエンジン付きの草刈り機もなかったのでひたすら鍬振りであった。

 雑草の中でも手強かったのが三つ葉であった。吸い物に浮かす繊細な日本のハーブは、実はたくましい生命力を持っている。庭に植えたところ、日に日に増えた。最初は食材の自己調達とよろこんだが、消費量をはるかに上回る増加だ。頭の中で3の指数関数が思い浮かんだ。

 何を雑草とするのか、雑草に役割はないのかを考えるのは大事なのだろう。アプリの指示で一意的に決定することに危険を感じたという話である。

副反応

 新型コロナウイルスに対するワクチン接種が進んでいる。私も2回の接種を済ませたがほとんど副反応はなかった。職場の同僚には発熱などの症状が出た人もいるが、ほとんどが一日程度で回復するのだという。

 副反応に関しては様々な情報が飛び交っている。情報共有が中途半端な場合、こうした根拠なき発言は力を持つ。正しい情報が何かが分かりにくいのだから、個々人が気をつけるしかない。

 私はファイザー製薬のワクチンをうち一度目は軽い筋肉痛のような感触を半日感じた。2回目はほとんど何も感じなかった。それは私だけの場合であり、他の人がどうなるかはわからない。参考まで。

転機

 転機はいつか来る。来たときにどのように振る舞うかが大事なのだろう。

 膠着状態にある毎日の生活の中では想像が難しいが、転機は必ず来るはずだ。それは自らが意図しないことかもしれない。でも、訪れる機会を無駄にしないよう心を柔軟にしておかねばなるまい。

 私は予感を得る才能はないのでただ待つだけだ。そしてやるときはやる。いまはその蓄えの時期なのだ。

横浜問題

 市長選はIR反対派が勝利した。結果としてIR誘致は遠のいたといえる。ただ、税収確保の問題は残る。カジノを使わない大人が楽しめ、インバウンドが期待できる観光施設を作るべきだと私は考える。横浜にはその資源がたくさんある。

 博物館や美術館、体験型施設などすでに横浜の臨港地区には様々なものがある。ただそれが統一感なく点在するため、相乗効果が出ていない。まず、既存の施設の連携から考え、収益を増やす仕組みを作るべきだ。

 やるべきことは色々ある。若い人たちの意見も聞くのがよい。

リモートクラス

 感染拡大が止まらないまま9月を迎えることになりそうだ。さらなる爆発があれば学校も止めるという議論になりかねない。学校を止めることとと感染予防とがどの程度関係するのかは専門家の意見が聞きたい。

 中等教育課程までの学校の役割に、他者との協同、協調性を養うということがある。過度な同調圧力はあるべきではないが、やはり他人と折り合いをつける力は必要だ。それは学校でなくてもよいのだか、多くの生徒にとって学校以外でそういう能力を養えるところはない。

 2年も隔離生活を強いられている世代の未来が心配になってきている。学校は止めない方がいい。通学のピークアウトや行事の変更は仕方がないにしても、リモートクラスは子どもには課さない方がいい。

コーチ

 少年サッカーのコーチを見る機会があった。小学生の男の子たちが大半で、女の子もいた。

 コーチは乱暴な言葉を使わず、具体的に何をすればいいのかを指示する。ボールを頭より高く蹴り上げてみよう。どうしたら上がるのか、その力ぐあいを覚えておこう。できた子どもには賛辞を送り、できない子にはさらに言葉をかける。できなくても続けさせ、明日はできるようになるという。

 彼らの方法には学ぶべきことが多い。ボールを蹴るのはあくまで子どもたちだ。それを蹴らせることにコーチの存在価値がある。

再現試合

 今日は単なる空想である。オリンピックが無観客試合となったのは残念だった。そこでコロナ禍収束後のイベントとしてこんなのはどうだろう。

 VRの技術を発達させることが条件だが、東京オリンピックの映像をVR化してしかも実際に競技が行われた会場で投影する。あたかも本当の競技を再現したかのような錯覚が得られる。それだけでも観戦できなかった無念さを癒やすことができるかもしれない。ほんの少しだが。

 そして、本当の競技もするといい。同じように優勝できる人もいるかも知れないが多くは新しい勝者が誕生するだろう。それも面白い。私達はスポーツを見ることで、しかも同じ時空を共有することで感動を得る。実は勝敗は二の次だ。懸命に勝利に向かって戦う人と心身の同化が一瞬でもできればいいのだ。

 東京オリンピックではそれができなかった。メディアを介して疑似的に行うことはできても現場にいなかったということは大きい。せめて東京オリンピックを再現することができればいい。もしそれを複数おこなえば、運営費補填にも僅かな貢献ができるのではなかろうか。

変わり続ける性質

 日本の文化は閉鎖的だと表現する人がいる。恐らく正解であり、間違いだ。結果的には大きな間違いだ。

 日本にはユニークな文化現象が数多く見られるという。独自、唯一無二というのは言いすぎかもしれない。どの地域にもそういった特徴がある。ただ、かなりユニークであるのは確かだ。その意味では閉鎖的な一面があるかのように思える。

 気をつけなくてはならないのは日本文化の特徴としてあらゆる局面で融合という過程に持ち込んでしまうことがある。有形の文物もそうだか、思想や制度にもそういう面がある。敵対的排除というのが少なく、取り込んでしまうのだ。

 変わっていくことがこの国の特徴だと評する人は多い。不易流行などという人もいるが、流行の占める範囲がかなり多いといえる。変わらない何かがあるという幻想がようやく国民性を支えている。

 だから、決して保守的ではない。また、意図的に革新を求めているのとも違う。百年後の「日本人」はいまとは姿かたちも考え方もまったく違うかもしれない。でも、相変わらず日本人論を展開しているだろう。百年前の先輩がいまの我々に対して考えたかもしれない予想と同じように。