投稿者: Mitsuhiro

気温差

 今日の最高気温は29℃の予報が出ている。昨日より10℃近く高い。こういうときには体調を崩しやすい。

 体感は相対的である。毎日寒ければそれなりに身体が対応してくる。暑さも同様だ。限度はあるが耐性という能力は進化の過程で身につけてきた根源的能力なのだろう。

 ところが変化には極めて弱い。注意せねばならないのは気温の絶対値ではない。

紫陽花の葉

アジサイ

 アジサイの花が曇天の下で輝いて見える。今日はかなり気温が低い。20度に達しないのではないかという予報である。何も考えずにいつもの半そでで出勤してしまって後悔している。

 周辺の地域では梅雨入り宣言が出た。もっとも数日前から雨が多いため、後から入梅の時期が訂正される可能性もある。低温と雨ならばある程度我慢できるが、問題はこの後にくる高温であろう。蒸し暑さを伴う霖雨はさまざまな害がある。心身ともにいい影響はない。

 そういえばアジサイの葉はあまり虫に食われない。それは表面に虫の嫌う成分が分泌しているからだという。カタツムリに食われている印象は間違っている。梅雨空を住みかとするものはたくましさが必要なのかもしれない。困難に立ち向かうためにはしかるべき戦略とたくましさがいるようだ。

EV

 すでに骨董品の域にある車に乗っている私にとって、電気自動車はいつも気になっている。環境問題の解決策というが製造から廃棄まで考えて本当にガソリン駆動よりいいのか知りたい。

 それよりも現状ではあまりに高価であることや、充電設備の不安が購入意欲を妨げる。日産等が発売した軽車両型の電気自動車は何とか手の届く価格になりそうだ。買えるとしたらこれだろう。今のところ充電できるスポットは少ない。これが増えた頃に検討してみよう。

 それまで自分で運転しようという意欲が続いていればだが。

梅雨入り

 いまだに梅雨入りしていない。今週にはいわゆる梅雨入り宣言がでるはずだ。

 古くはさみだれと呼ばれた霖雨は農事にとっては大切なものだった。皐月、五月女、桜などにつくサは農業と関わる神と関係するという説もある。この時期の雨は慈雨であることは間違いない。

 ただ、毎年この時期には大規模な水害が発生しているのも事実だ。昨今は異常気象と呼ばれる。記録的とか、歴史的と言う仰々しい名のついた注意報や警報がたびたび出される。残念ながらその中の幾つかは的中し、甚大な被害をもたらす。

 恩恵と災害と両方をもたらす梅雨の荒々しい天候は、私たちの生活の一部である。なるべく悲しみのないように願うばかりだ。

地元で支える

Nagasaki city

 コロナによる経済停滞がさまざま問題を起こしている。経済的な基盤の弱い企業が少しずつなくなっていき、街の様子が変わりつつある。そうでなくても低成長と人口減少、少子高齢化などの難問がある中で、地元の経済圏を支えることの意味が問われている。

 以前、長崎を訪問した時、地元の起業家から地域経済の危機をうかがったことがある。市内にある多くの企業は県外の支社であり、その収益の多くは県外に流出してしまう。お土産として買われていくものの中にも実は県外で生産されているものもあり、製造過程から地元経済圏への恩恵は少ない。最近は中国企業の進出もあって国外への流出も顕著だ。これはコロナウイルス流行前のことだったので、事情は変わっているかもしれないが本質的な問題は変わっていないだろう。

 その起業家は地元で作り、地元の店で売ることが大切だと繰り返していた。そのために小さな企業を立ち上げ、地元の人を雇い、観光客に本当の地元の商品を届けるのだと言っていた。大切な視点だと痛感した。もっと言えば地元の人でも欲しいと思うものを作らなくてはならない。

 チェーン店のものを買うのにすっかり慣れた私たちは、旅行先でも自分の街でも見慣れたブランドの店を選びがちだ。飲食店でいえばそこそこ安く、味の最低限の保証はあり、値段がいくらであるか見当がつく。そういう店を選びがちだ。しかし、これでは地元に落ちるカネは限定的なものになる。個人の商店が作るちょっとだけ高いがそこにしかないものを評価する考え方がいる。

 収入の増えない日本人にとって少しでも安い店を探すことは仕方がないことだ。しかし、安さを追求するあまり地元の経済を瘦せさせてしまったならば、様々な不利益は結果的にわが身に降りかかることになる。地元の社会は地元で支えるという考え方が見直されなくてはならない。

狐は何て鳴く

何て鳴く?

 What does the fox say? を繰り返す奇妙な歌に合わせて踊るきつねダンスは北海道日本ハムファイターズのイニング間のアトラクションとして行われ話題になっている。ナンセンスだが乗りのいい曲と簡単だが印象的な振り付けで楽しい、ところで本当に狐は何て鳴くんだ?

 日本人はほとんどの人はこの問いに困らない。コンコンと鳴くと子ども頃に教えられるからだ。イソップ物語では悪役が多いが、童話の世界では可愛らしいキャクターにもなる。伝統的には憑依する霊的動物であり、稲荷社には霊獣として祀られる。調理の世界ではきつね色は常套だ。でも本当にキツネを見たことのある人はどのくらいいるのだろう。

 万葉集に、「さし鍋に湯沸かせ子ども櫟津の桧橋より来む狐に浴むさむ」という歌がある。恐らく宴席でそこら中にあるものをなるべく多く詠み込んで歌うという芸として披露されたものだ。湯をなぜ狐に浴びせるのかは分からない。この歌来む(こむ)に狐の鳴き声まで詠み込まれているという説もある。どうだろう。

 姿を見たことがないのだから、まして鳴き声を知るわけがない。調べてみるとコンではなくコンコンコンが単位のようだ。人の声のように鳴くこともある。もっと複雑なのだ。

 ファイターズのお姉さんたちが踊る歌の中でもキツネはさまざまに鳴いている。これは嘘ではないらしい。

 

水着

 ジェンダーレス水着なるものが発表された。性別に関係なく着られるデザインであり、肌の露出度は少ない。生物学上の性と心のそれが一致していない人にとっては朗報だろう。

 こどもの頃からなぜ水泳となると男女の格好が大きく異なるのか不思議だった。私の場合性的不一致はないので違和感は習慣に吸収されてしまった。多くの人は同じだろう。てもよく考えてみればなぜ男子は上半身裸なのだろうか。それが改めて疑問になることがある。

水着

 おそらく多くの日本人は逆の考え方をする。女子には乳房を隠さなくてはならないという決まりがあるから上半身にも水着をつけるのだ。男子にはそれがないからつけないと。さらにはデリケートな部分を保護するために身につけるのだと。

 それらはすべて正しいように思える。第一トップレスの女性がいたらとんでもないことになると考えてしまう。でもよく考えてみると男の上半身もそれほど頑丈とは思えない。また、女性が上半身裸の民族も世界には多数あるようだ。日本でも近代以前は普通に混浴がなされていたという。わずかに残る海女の記録でも上半身の着用はない。

 性別によって何をどのように身につけるのかは文化的な問題なのだということになる。日本は近代化によって欧州文化を取り入れ、性差の文化も取り入れたために水着の価値観もそれに倣うことになったのだ。

 新たに性的マイノリティーの存在が世間に認知され、人権に配慮すべきであるという考えが定着すると、別の文化が生まれる可能性がある。ジェンダーレス水着の試作品の写真を見てつくづくそう思う。結局何を身につけるか、身につけてはならないのかは文化的問題である。生物学上の問題を人間が変えることは難しいが、文化ならば少しは工夫できる。

こうなる可能性もある

夏合宿

 このところ中止を余儀なくされていた部活動の夏合宿が復活するかもしれない。感染対策への配慮は必要だが、禁止からスタートではなくなったのは前進だ。

 いろいな事情で以前お世話になっていた宿ではない場所になりそうなのは残念だ。同じ日の同じ場所に10年以上通っていたために、自他の定点観測のようなものになっていた。それが崩れてしまう。

 生徒諸君にとっての合宿は多くの場合楽しい思い出だろう。教員にとっては24時間営業の連続で結構疲れる。かと言って自分の感情をあらわにもできない。苦行の一つだ。

 それでも生徒諸君が嬉しそうにしているとついそんなことは忘れてしまう。教員のもつ弱点である。

給与を上げて

 少しずつ物価が上がっている。日銀総裁は価格上昇が許容できる段階になったというふうに取れる発言をして釈明することになった。サラリーが上がらなければ物価高は経済停滞を引き起こす。高所からものをいう人には個々の事情は捨象する。だから、野党議員にスーパーで買い物してみてはなどと言われてもびくともしない。

 物価が上がる条件は給与も上げることが条件だ。経営者にはこの点を考えてほしい。経済が回らなければ結局自らの首を締める。人的投資は即効性のある行動であると言いたい。

若い人の歌

 若い人の歌を年甲斐もなく覚えようとしている。back numberというバンドの水平線という曲は懐かしいメロディラインなので親しみやすい。

 おそらく若者の挫折に向き合い、それを癒やす歌と言えるのだろう。自分の失敗が誰かにとっては美しいものであり、その逆もまた然り。禍福は社会の中で循環するものなのだということだろうか。

 そんな理屈をこねること自体、若くない証かもしれない。いい歌なので歌えるようになりたい。キーが高すぎるのが難だが。