今日の最高気温は29℃の予報が出ている。昨日より10℃近く高い。こういうときには体調を崩しやすい。
体感は相対的である。毎日寒ければそれなりに身体が対応してくる。暑さも同様だ。限度はあるが耐性という能力は進化の過程で身につけてきた根源的能力なのだろう。
ところが変化には極めて弱い。注意せねばならないのは気温の絶対値ではない。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro

アジサイの花が曇天の下で輝いて見える。今日はかなり気温が低い。20度に達しないのではないかという予報である。何も考えずにいつもの半そでで出勤してしまって後悔している。
周辺の地域では梅雨入り宣言が出た。もっとも数日前から雨が多いため、後から入梅の時期が訂正される可能性もある。低温と雨ならばある程度我慢できるが、問題はこの後にくる高温であろう。蒸し暑さを伴う霖雨はさまざまな害がある。心身ともにいい影響はない。
そういえばアジサイの葉はあまり虫に食われない。それは表面に虫の嫌う成分が分泌しているからだという。カタツムリに食われている印象は間違っている。梅雨空を住みかとするものはたくましさが必要なのかもしれない。困難に立ち向かうためにはしかるべき戦略とたくましさがいるようだ。

コロナによる経済停滞がさまざま問題を起こしている。経済的な基盤の弱い企業が少しずつなくなっていき、街の様子が変わりつつある。そうでなくても低成長と人口減少、少子高齢化などの難問がある中で、地元の経済圏を支えることの意味が問われている。
以前、長崎を訪問した時、地元の起業家から地域経済の危機をうかがったことがある。市内にある多くの企業は県外の支社であり、その収益の多くは県外に流出してしまう。お土産として買われていくものの中にも実は県外で生産されているものもあり、製造過程から地元経済圏への恩恵は少ない。最近は中国企業の進出もあって国外への流出も顕著だ。これはコロナウイルス流行前のことだったので、事情は変わっているかもしれないが本質的な問題は変わっていないだろう。
その起業家は地元で作り、地元の店で売ることが大切だと繰り返していた。そのために小さな企業を立ち上げ、地元の人を雇い、観光客に本当の地元の商品を届けるのだと言っていた。大切な視点だと痛感した。もっと言えば地元の人でも欲しいと思うものを作らなくてはならない。
チェーン店のものを買うのにすっかり慣れた私たちは、旅行先でも自分の街でも見慣れたブランドの店を選びがちだ。飲食店でいえばそこそこ安く、味の最低限の保証はあり、値段がいくらであるか見当がつく。そういう店を選びがちだ。しかし、これでは地元に落ちるカネは限定的なものになる。個人の商店が作るちょっとだけ高いがそこにしかないものを評価する考え方がいる。
収入の増えない日本人にとって少しでも安い店を探すことは仕方がないことだ。しかし、安さを追求するあまり地元の経済を瘦せさせてしまったならば、様々な不利益は結果的にわが身に降りかかることになる。地元の社会は地元で支えるという考え方が見直されなくてはならない。

What does the fox say? を繰り返す奇妙な歌に合わせて踊るきつねダンスは北海道日本ハムファイターズのイニング間のアトラクションとして行われ話題になっている。ナンセンスだが乗りのいい曲と簡単だが印象的な振り付けで楽しい、ところで本当に狐は何て鳴くんだ?
日本人はほとんどの人はこの問いに困らない。コンコンと鳴くと子ども頃に教えられるからだ。イソップ物語では悪役が多いが、童話の世界では可愛らしいキャクターにもなる。伝統的には憑依する霊的動物であり、稲荷社には霊獣として祀られる。調理の世界ではきつね色は常套だ。でも本当にキツネを見たことのある人はどのくらいいるのだろう。
万葉集に、「さし鍋に湯沸かせ子ども櫟津の桧橋より来む狐に浴むさむ」という歌がある。恐らく宴席でそこら中にあるものをなるべく多く詠み込んで歌うという芸として披露されたものだ。湯をなぜ狐に浴びせるのかは分からない。この歌来む(こむ)に狐の鳴き声まで詠み込まれているという説もある。どうだろう。
姿を見たことがないのだから、まして鳴き声を知るわけがない。調べてみるとコンではなくコンコンコンが単位のようだ。人の声のように鳴くこともある。もっと複雑なのだ。
ファイターズのお姉さんたちが踊る歌の中でもキツネはさまざまに鳴いている。これは嘘ではないらしい。
ジェンダーレス水着なるものが発表された。性別に関係なく着られるデザインであり、肌の露出度は少ない。生物学上の性と心のそれが一致していない人にとっては朗報だろう。
こどもの頃からなぜ水泳となると男女の格好が大きく異なるのか不思議だった。私の場合性的不一致はないので違和感は習慣に吸収されてしまった。多くの人は同じだろう。てもよく考えてみればなぜ男子は上半身裸なのだろうか。それが改めて疑問になることがある。

おそらく多くの日本人は逆の考え方をする。女子には乳房を隠さなくてはならないという決まりがあるから上半身にも水着をつけるのだ。男子にはそれがないからつけないと。さらにはデリケートな部分を保護するために身につけるのだと。
それらはすべて正しいように思える。第一トップレスの女性がいたらとんでもないことになると考えてしまう。でもよく考えてみると男の上半身もそれほど頑丈とは思えない。また、女性が上半身裸の民族も世界には多数あるようだ。日本でも近代以前は普通に混浴がなされていたという。わずかに残る海女の記録でも上半身の着用はない。
性別によって何をどのように身につけるのかは文化的な問題なのだということになる。日本は近代化によって欧州文化を取り入れ、性差の文化も取り入れたために水着の価値観もそれに倣うことになったのだ。
新たに性的マイノリティーの存在が世間に認知され、人権に配慮すべきであるという考えが定着すると、別の文化が生まれる可能性がある。ジェンダーレス水着の試作品の写真を見てつくづくそう思う。結局何を身につけるか、身につけてはならないのかは文化的問題である。生物学上の問題を人間が変えることは難しいが、文化ならば少しは工夫できる。
