投稿者: Mitsuhiro

高温

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 天気予報によるとこれからしばらくは最高気温が30℃を超える。なかには36℃を予想している日もある。梅雨時の多湿もあり体調管理が課題だ。

 降水確率を見るとこれも低い。梅雨が明けたかのような天気記号が並んでいる。おそらくこの後に大雨の揺り戻しがあるのだろうが、1か月早く真夏になってしまうかの予報になっている。これでは身体が持たない。最近少し太り気味で疲れやすくなっていることもある。健康に気をつけながら少しずつ鍛錬をしていこう。

 基本的には夏は嫌いではない。ただ、極端な暑さはそのなかにさまざまな滅びの予兆が感じられるので不安になる。このように感じる人は多いのではないだろうか。盛者必衰を感じるのは私の場合、この季節なのである。

参院選

 参議院議員選挙が公示され選挙戦が始まった。相変わらず多数の政党が乱立して分かりにくい。中にはなぜこの場に参加する必要があるのか理解できない政党もある。しかし、この選挙を無視することはできない。

 多くの人が気にしているのは平和と経済の諸問題であろう。ウクライナ侵略があってから武力で現状を変えることの可能性が再認識されている。日本は敵対する陣営に属する大国と、制御が難しい独裁者の国に囲まれており、地政学的には危険である。それでは軍拡して対抗すべきかという議論にはなるまい。かつての戦争体験が生きている限りは反戦を貫くべきだ。人権を蔑ろにする悪行だ。

 ロシアの現状を伺うに戦争は何もいいことはない。経済を疲弊させ、恨みを長年に渡って残す。いろいろな意味でコスパが悪すぎる。

 まずは戦争に参加させないために政党選びをするべきだろう。非武装中立の夢はどうも無理筋のようだ。かと言って核武装も困る。バランスを適切に説明してくれる指導者がいる党を探したい。

 さしあたってそれよりも注目されているのは経済対策だ。国際的にも顕著な低成長ぶりは、給与が一向に上がらないことに現れている。これは現政権までの流れの失敗と言わざるを得ない。安定性を重視するあまりにその場しのぎの対策を継続してしまった。

 自民党への批判はよく耳にするが対案は示されているのだろうか。減税や消費税率の軽減といった話はあるが、その効果はどうなのだろう。下げたあとの世界はどうなるのか。そのあたりの中長期的な説明がない。だから野党の演説も素直に聞けない。

 政治家は理想を示し、それを実現するのが仕事のはずだ。その理想が伝わってこず、何をしてくれたのかも分かりにくい。失言とスキャンダルばかりが報じられる。これでは選挙に行かない人も増える。

 人まかせにできなくなっているのも事実だ。確実にダウンサイジングする我が国の舵取りに有権者は関心を持たなくてはならない。サービスはよくないがよく考えて選挙に行きたいと考えている。

伴走

 パラアスリートを支える伴走者の存在は私にとっていい刺激になっている。伴走者は競技者より優越的な立場なのだろうかという問いをしてみる。

 視覚障害などでガイドを必要とする競技者にとって伴走者は大切な存在だ。ただ間違ってはいけないのは伴走する人が競技者を牽引しているのではない。あくまで傍らにいて方向を伝えているのにすぎない。それが声によってなされているのか、何らかの身体的合図によるのかは分からない。とにかく引っ張っているのではないということだ。

 素朴な疑問として伴走者が走れなければそもそも走れないのではないかということがある。競技の成功は伴走者の走力次第なのではないかと。これはある程度は正解かもしれない。しかし、前述したように伴走者は牽引するのではない。アスリートと同等の力があればいいのだ。

 一流のパラアスリートの伴走をするためには自分も同様に鍛えなくてはならない。ともに練習し同等の走力を発揮できるようにしておく必要がある。これは大事な視点である。

 教育の世界でも教員は牽引者ではなく伴走者であるべきだという考えがある。ともに走るようにともに学ぶ。時には生徒側の走力、つまり学力が急進することもある。その時のために日ごろからトレーニングは欠かせない。思わぬ時にダッシュしてもついてもついていけるように。

中学生レベル

 書店に行くと中学生レベルでやり直すことを歌った学習書というのがある。いろいろな種類があるということはある程度需要があることになる。実は中学生レベルというのは馬鹿にはできない。

 中学校で学ぶことは教養の基礎に当たる。基礎と言っても多岐にわたり、ある程度の深みもある。これらを満遍なく学習しておけばかなりの知識人といえるだろう。

 でも、実際にはすべての分野を高い水準で学ぶことは容易ではない。偏りややり残しが出てしまう。中学生の皆さんには成績は気にしなくてもいいのでとにかくすべての科目に意味があることを伝えたい。必ず後で役に立つものであると言いたい。

外国人観光客に見てほしい

Welcome

 コロナウイルスシフトが弾力的になってきて少しずつかつての日常が戻りつつある。海外の人のために申し添えると日本ではまだほぼ全員がマスクをつけている。政府は距離が保てれば外しても構わないと言っているのにも関わらず。

 海外の観光客もこれから増えていくはずだ。大量のお土産を買って帰る姿は復活するのだろうか。円安が進む中で狙い時であることは確かだ。

 韓国は前政権が日本との対立によつてアイデンティティを確立していた構造上、民間レベルでも不買運動などがあったという。日本はどうか。一部の人の理不尽なヘイトはあるが、実はかなり少数である。大半は韓国の文化に寛容であり、羨望すら抱いている。年齢層ごとに対象は異なるが、韓国文化に日本人は日常的に接している。日本のテレビ番組表を調べてほしい。韓国ドラマがまったく放送されない日を見つけるのは困難だ。中高生に好きなアイドルを聞いてほしい。きっと韓国人の名前が出てくる。

 異文化に対する寛容さと受容と消化は日本の文化的特質だ。差別という考えも他国に比べると少ないのではないだろうか。もっともこれは数や程度の問題ではない。どのような段階でも人権が蹂躙される機会は注意深く取り除く必要がある。

 その上で、海外の人に日本を知っていただき、一人でも理解者を増やすのは得策だ。海外の人々には日本旅行を検討してほしい。買い物も良いがぜひ真実の日本人の姿をご覧いただきたい。あなたの国で言われているほど好戦的な国民ではない。むしろ穏やかであり、国際感覚には欠けているが悪意はない人たちばかりだ。

 隣国の大韓民国を始め、心の距離が遠くなってしまった国や地域の皆さんが来日して真実の姿を知っていただくことが何にもまさる友好の手段ではないと考えているのである。

子供にパソコンを持ち運ばせると

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 教育の世界でパソコンやタブレットの使用機会が増えている。一人一台の端末を持たせるというGIGAスクール構想もあり、これから先も普及してくはずだ。しかし、パソコンやタブレットを子供に持ち運ばせることに関して私は賛成しない。重く、壊す機会を増やすだけなのになぜ通学カバンに入れる必要があるのだろう。私の職場でもパソコンの修理は頻繁に行われている。

 スマートフォンでさえ、子供はよく壊す。オークネットの調査では年代が低いほど修理の必要な不具合を発生しているいう。使用の頻度が若い層の方が高いので当たり前だが、それに加えてデジタル機器に対する扱いがぞんざいであることや、ICTが貴重なものであり、様々な生活に深く関与する機器であるという自覚が少ないということもある。

 まして持たされたパソコンやタブレットをおしいただいて持ち運ぶという考え方があるはずがない。多くの子供にとって無理やり持たされた教科書同様、重たくて厄介なものの一つに過ぎない。それを毎日カバンに入れて持ち運べということの方が間違っているのではないか。

 ICTを使いこなす人材がいらないというわけではない。通学途中にパソコン類はいらないだろう。教育の中で活用するというのなら学校にいる間だけコンピュータが使えればいい。ならば投資すべきは生徒が一人一人使えるパソコンの収納ロッカーと充電設備だろう。学校からは持ち帰らない。宿題は紙ベースで行うというのが実は一番いいのかもしれない。少なくとも義務教育まではそれでいいのではないか。

 日本のメーカーは機能を絞った学校用端末を作って世界に売り出だすべきだ。教材やハードのメンテナンスも含めた教育サービスを売ることで、この業界の復活ができる。そのためにはただ子供に端末を持たせればいいとしている現状を分析して、現実に合ったものに変えていくのがいい。

ガチャ

 格差社会を表す言葉の中でも特に悲しい表現に親ガチャというのがある。子にとって親は選べない。誰の子として産まれるかで人生に大きな差が出るということだ。

 これを運命論として片付けてはならないだろう。その家に生まれたのが定めであり、神の思し召しでもある。それを受け入れた上で分に応じて生きるしかない。これは近代が克服した社会観であったはずだ。

 ところがどうも最近の風潮では運の悪さという結論に持っていこうとする風潮があるように思えてならない。諦めがそこには溢れている。苦境にある子どもがそれを言うのならば同情の余地がある。しかし、そうでない人はこの考えはいちはやく捨てなくてはならない。格差は多くは社会システムの問題で起きている。それを放置している政治家と、彼らを選んだ国民を問題にしなくてはなるまい。

 格差を自分の問題と認識できなくなったとき、その禍は必ず自らに至る。相対的貧困率の高いと言われる現実に向き合わなくてはならないだろう。

ゼロトラスト

 ネットワークの世界でゼロトラストという考え方が広まっている。何も信用せずその都度確認するというものだ。人は信じられないとはメロスの敵のような考えだが現実はこちらの方が正しいようだ。

 ゲートを強固にすれば機密は守られるというのがネットワークセキュリティの基本であった。ところが、意外にも壁は容易に乗り越えられ、侵入した部外者が鍵自体を置き換えてしまう。現実世界では難しいことがネットワーク上ではできてしまうらしい。

 そこで出てくるのがゼロトラストの考えだ。垣根の内のやり取りでも決して信用せず、その都度、どこから誰がアクセスしたのかを確認する。面倒な手続きだが、情報を盗まれたり書き換えられたりするよりはましということになる。確認も機械化すれば実際の労力は増えない。

 それにしても何も信じないという考え方自体は人間の限界を如実に表している。というより人間らしい一面であり、システムがようやく追いついてきたと言う方が正しい。残念なことだ。

食べ物の評価

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 レストランの評判は気になる。しかし、味の良し悪しの評価は個人によって大きく異なる。絶対的なものではないことを忘れてはならない。

 さまざまなレビューがネット上にはあふれている。だれでも評価できるようになった最近の方法は一見優れているかのように見えるが、実はかなり偏見に満ちている。本来個人差が大きい味覚に関する分野を統合して数値化することの意味が感じられない。どんなに多くの人がうまいと思うものでも、ある人には耐えられないものである可能性がある。その逆もある。

 よく行くレストランの評価を見てみたことがあるが、かなりの高評価で絶賛している人もいた。その反面、今まで味わったことがないほどまずいという評価もある。食味の評価はそういうものなのだ。私自身は良くも悪くもない無難な味だと思っている。ネットに書き込むのはそういうことが言いたいかなり特別な人なのである。特別な人の評価はそのほかの人のそれとは異なる。しかし数値にはその評価があたかも現実そのもののように提示されてしまう。

店の売り上げにも評価が影響するため、いわゆるサクラやアンチ的な書き込みをする人も多数いるという。ますます信用できない。そういうものだと思ってこの手の情報は使うべきだ。これは多くの人はわかっているはずなのに、だまされてしまう。思ったよりメディアリテラシーは身につくものではない。かくいう私もその一人であり、反省のために文字化してみた。

インターネットエクスプローラー終了

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 Internet Explorerのサポートが終了したという。インターネット利用時からずっとお世話になってきたブラウザだけに一つの時代が終わった感がある。この際、ブラウザとは何かを考えてみるべきかもしれない。

 実際にはすでにIEは使っていなかった。仕事では主にChromeを使い、自宅ではMicrosoftの勧めるEdgeというブラウザを使っている。iPhoneではSafariをそのまま使っている。過去にはNetscapeのNavigatorというソフトを愛用していた。考えてみればどれもアメリカ製だ。

 インターネットというメディアそのものがアメリカ仕様のもので成り立っている。私は文章を書いたり表計算をしたりするときはMicrosoftのオフィスを使っているのでほとんどの作業がアメリカ仕様で行われていることになる。それはそれで仕方のないのことなのだが、何か違和感を覚えることも確かだ。かつてワープロは松や一太郎を使い、表計算は楓というソフト使っていた。それらは一太郎を除き、結局なくなくなっている。日本人が考え運営しているソフトは現在ほとんど使っていない。なにかとても残念な気がする。

 こうしたものはしょせん道具であり、それで何をするのかが大切なのであるが、道具に思考や行動が左右されるということは当然あることなのである。日本語にあったソフトがもう少し生き残ってもよかったのではないか。今から見直されていいのではないかと考えてしまう。MicrosoftやGoogle、Appleなどの大企業の都合により次々に変わっていくのは仕方がないことなのだろうか。日本のエンジニア、プログラマーの皆さんには日本語にあったソフトの開発をぜひくじけずに続けていただきたい。