
帰りの電車が停電のため止まってしまった。停電が理由というのは個人的に初めてだ。
原因は分からないがこのところこのような案件が増えてきている印象がある。基本的な技術やメンテナンスの能力が低下しているのではないか。この件だけで決めつけるのは無意味だが、心配である。
高度な技術にはいざというときに使えなくなるという可能性もある。それを見越して物事を計画しなければならないということだろう。第2第3の手段を確認しておかねばなるまい。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
自転車の運転について取り締まりを強化したというニュースに接した。基本的には賛成であるが実態とあっていないところもあるのが問題である。
歩道を駆け抜ける自転車は非常に危険だ。音もなく近づき、人の間をすり抜けて行く。一歩間違えば大事故だ。実際、自転車と人の事故は多く、死傷事故になることもあるという。
では車道を走れというがこれも無理がある。車道は排水のためなのか両端か低くなっており、自転車が走る部分は斜面化している。また路上駐車があれば中よりに入らなくてはならない。かなり危険だ。
理想的には自転車専用レーンを造るべきだろう。これから造る道には義務付けるといった方策がほしい。道幅の制約があるのですべてには施せないが。始めることが大切だと考える。

万葉集にも秋の七種として数えられているオミナエシは、秋の風景の基本的な色合いを見せる。原風景の中にある野草だ。
ところが私のすみかの周囲からはほとんど見えない。黄色い花はあるがその多くが外来種だ。中にはブタクサのような厄介なものも含まれている。オミナエシは繁殖において劣勢らしく私の生活圏から消えつつあるということだ。
オミナエシには女郎花という漢字が当てられる。ここでいう女郎はお嬢様というくらいの意味だろう。万葉時代から優美な女性の姿にたとえられている。そう思うと愛おしくも感じる。
外来種による植生の変化には人間の歴史が大きく関与している。今見る風景も今後はどうなるか分からない。オミナエシの咲く風景が古典の風景であることは伝えていかなくてはならないことなのだろう。

株式投資では下がり相場でこそ買いを発動すべきだという。下がったものはいずれ上がる。安く買って高く売るチャンスだというのだ。まったくその通りだと思うが世の中が不景気に向かう中で株を買うのは勇気がいる。余裕資金があるものがさらに利益を得るというのは何とも皮肉なものだ。
株の話は門外漢なのでここまでにして、メンタルの下降局面でも同じことが言える。落ち込んだときこそ次なる好調の準備だと考えるべきだ。飛び上がるためには一旦かがまなければならない。いまはその状態なのだと割り切ることが大切だ。
このブログを続けてお読みいただいてくださっている方はお気づきのはずだが、文章の多くは自分を励ますために書いている。現実は厳しいがなんとか乗り越えられると文字にすることで予祝のように自分に暗示をかけようとしているのだ。
私と同じように不器用な人のためにももしかしたら役に立てるかもしれない。下がったときこそ次の飛躍の機会が近いと考えよう。

昨日、上空をオナガの群れが通り過ぎるのを見た。名の通り長い尾羽根をなびかせて飛行する姿は優雅ささえ感じた。
この鳥はとまっているときの見た目も美しい。印象的な青と黒は絶妙の配色だ。おそらく身近にいる野鳥の中でも美しさは最高級に属するだろう。上に借りてきた写真をつけたが、実物を見るともっと驚きがある。
ただ、その鳴き声はいただけない。恐竜の子孫の証のように騒がしい。この方面では最下級と私は思う。それでもこの鳥が来るとつい目で追いかけてしまう。群れで行動することが多いようで、1羽見つけると後から何羽もついてくる。
日本では限られた地域にしかいないという。街中で見つけられるのになぜ場所を選ぶのかも分からない。いろいろ謎の多い鳥でもある。

現代日本の価値観に可愛さというものがある。これは世界に通用する一種の美意識とも言えるかもしれない。
無骨な機械を作ってきた職人たちもなぜか完成した機械に名前をつける。それも可愛らしい人の名前だ。名付けすることで高性能なマシンが親しみやすいものになる。こんなことを繰り返してきた。
デザインにも可愛らしさを強調する。暖かい原色の多い配色や、大きな目をつけるといったことはいろいろな製品に見られるものだ。これは趣味という領域を超えた文化のようなものかもしれない。皆さんの身近にもカワイイ品物はきっとあるはずだ。
可愛さは幼児性を伴うのでやめたほうがいいという考えもある。しかし、可愛いデザインが狙っているのは実は別にあるのは明らかだ。これは使いやすさを高めるための機能的目的で施されている。高性能なマシンでも使いにくければ意味がない。まずは心理的な親和性が大事なのである。この戦略は利用しない道はあるまい。
可愛らしさの基準は人によって異なる。だから、誰もがアニメのキャラのようにする必要はない。どこかに取っつきやすい柔らかなデザインを施すのが、日本のものづくりの重要な方策ではないか。

おそらく無駄なことをしていると思われるかもしれない。ただ、自分にはこれがあっているようだ。笑われても続けるしかない。
コンビニで売っているリング式の小さなメモ帳にやるべきことを書き出すことにした。いわゆるトゥードゥーリストである。これを持ち歩く。職場についたらスタンド様のものに立てかける。プライベートな用件は自分しか分からない略語や記号で書く。解読される可能性もあるが、おそらくそこまで私に興味がある人はいないだろう。
百均で買った手帳には少し長期の予定を書いている。使うのは月間予定のページだ。
デジタルにも入れる。予定はグーグルカレンダーやタスクに入力する。分量があるものや長期的に残したいものはOneNoteに入れる。これだけで結構なルーティンだ。
さらにルーズリーフ式のノートに要点を書く。これは会議メモも兼用のいわゆるバレットジャーナルである。
このように予定を管理するだけでいろいろなことをしている。無駄なことをしているがこうすることで私の場合はようやく納得できるのだ。

シニア世代に欠かせないものとして日光浴があるらしい。脳の機能低下は加齢の現象の一つとして仕方がないことだが、その予防、もしくは緩慢化のための方策として日光を浴びるということがあるそうなのだ。
私はいまは通勤のために朝に日光を浴びる生活をしている。でも、すぐに電車に乗ってしまうので、実際に日光浴をしている時間は限られている。職場に着いてしまえば照明の中で生活している。
退職した後はどうなるのだろう。しばらくはバイトをして食いつなぐつもりだが、それもできなくなれば悠々自適と言う名の中途半端な生活が始まる。先輩はサンデー毎日だと笑っていたが、笑えるうちはまだいい。私の場合は仕事をしない人生は耐えられないだろう。金になるか否かは別にして何かをやり続けたい。この辺はおそらく醜態を晒すことになること必定である。
さて、その中で日光を浴びる生活はいつまで続けられるのだろう。自分の身体は特に丈夫でもないし。年齢相応の諸問題を抱えている。だから、いつかは立てなくなるだろう。問題は脳の老化だ。脳は感情の制御に関与するので厄介だ。いつまで正気を保てるのか。実はこれが一番の問題である。
私には長寿願望はない。ただ、晩年に他人に迷惑をかけたくないという思いは強い。自分の親のことを考えると、医師とは無関係に他者に迷惑をかけてしまうのが人間の性らしい。それをなんとか最小限にしたい。そのためにも日光浴はしていこうと考えている。

新しいものが好きなのは変わりがない。どう批判されようと高機能や独自のギミックには惹かれる。使うことがないにしてもそういうものを持っているというだけで満足感を覚える。そういう人は多いだろう。私もそうだ。
しかし、悔しいが何でも揃えてはいられない。経済的にも保管場所も、そして私自身の能力の余裕も。それらがすべて足りなくなっている。
こういうときは発想の転換をして納得することにしよう。敢えて昔の商品に価値を見出していこうという作戦だ。使い古しているものの価値を再発見するのである。ただ見つけるだけではなく言葉にしていくことが大事だ。魅力的な説明を考える。
例えば私は一万円に満たないソーラー電波腕時計を使っている。もう10年近くほとんど毎日使っている。目立った機能はない。この機種としてはほぼ最低スペックだ。表面がプラスチックなので細かい傷がつきやすい。これは磨き粉を使うと消えることが分かったので一旦は消したがまた付きはじめている。
こういう中古の時計を再評価したい。まず壊れないことは何よりもいい。機能が少ないということは壊れる可能性が低いということだ。電池交換もせず動き続けているのは素晴らしい。時刻補正もする。なぜか月に一度か二度しか電波を拾わないが、時刻合わせはそれで十分だ。表面の傷はそれがもたらす使用感がいい雰囲気を醸し出している。自分の成長を見守っているかのようだ。耐えられなくなったら磨き粉で拭けばいい。あっさりと傷は消える。柔らかいのもいいものだ。スマートウオッチのようにメールの着信通知は来ない。バイタルチェックもできない。それは余計なことに気を取られる心配がないということだ。
こんなふうに考えてみればいま使っている時計も満更でもない気がしてくる。アップルとかグーグルの時計など何になろう。物の価値は見方次第だ。いくらでも変わる。