投稿者: Mitsuhiro

価値観の逆転

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 何がよいか、何が悪いか。何が美しく、何は醜いといった価値観は共時的には絶対的な価値のように見えて通時的には相対的なものに過ぎないことがある。私は古典文学を読んでいて常にそれを感じるのだが、もっとわかりやすいのが美術史を学ぶことでわかるようだ。

 たとえば現在、新宿のSOMPO美術館で開催中のスイス・プチパレ美術館展の展示をみるといい。印象派からエコール・ド・パリに至る作品をほぼ美術史的時系列にそって並べた展示であり、とても分かりやすい。印象派前史を知る必要があるが、印象派が色彩の独特の使い方を開発し、絵画の革新をしたかと思ったら、点描画に進んだ画家やフォーヴィスムやキュビスムに展開した画家もいれば、エコール・ド・パリと総称される個性的な画家もいた。それぞれが独自の価値観を持ち、それが年代とともに変遷していく。

 それまでは駄作と言われていたものが、あるきっかけで価値のあるものとされるという現象は美術史にはしばしばみられるようだ。おそらくそれは美術だけの問題ではない。私たちが常識として持っている価値観は実はかなり流動的なものであり、決して絶対的普遍的なものではないということだ。このことは常に思い返さねばなるまい。

 美意識というもっとも根源的なものと思われるものでさえも時代的な変化がある。美女の定義を21世紀風にしてみれば、おそらくほかの多くの時代の先人に否定されるだろう。それほど価値観は変転するものであり、それを踏まえて私たちは生きる必要があると考える。

使う分だけ作るエネルギー

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 資源のない国にとってエネルギー問題は死活問題である。発電に限って言えばほとんどを火力で行っている。2020年度のエネルギー供給では、化石燃料による火力発電が76.3%を占め、その原料は石油が6.3%、石炭が31.0%、LNG(液化天然ガス)が39.0%だった。原子力発電は東日本大震災以来停止している発電所が多い。再生可能エネルギーとして、水力、風力、太陽光、水素、地熱などのエネルギー源もあるが、いずれもコスト、効率などの問題点を抱えており、普及していない。

 これらのすべてに共通するのは使用するエネルギーを大規模な発電施設に依存し、そこから送電したものを消費するという考え方だ。ここを変えていかなくてはならないと考える。もちろん最低限のインフラとして公共施設は安定した大規模エネルギー施設からの供給を受けるべきだろう。しかし、その一方で個人や企業が自分の消費するエネルギーの半分以上は自前で生産できるシステムを作るべきではないだろうか。

 太陽光パネルや風車による発電はイメージしやすい。しかし、現状では効率が悪く、設置や廃棄にかかる費用やカーボンニュートラルの方面に関して問題があるという。技術者の皆さんにはこの点に注目し、小規模発電でもいいので安全に確実な製品を開発してほしい。かつては屋根の上に太陽光温水器をつけている家庭がかなり見られた。太陽光パネルもある程度利用されている。それぞれには問題もあるようで改良はしなくてはなるまい。集合住宅でも同様の工夫はできないだろうか。鉄道などは各駅や線路わきに太陽、風力などの発電施設を作ることはできそうだ。高層ビルも屋上や壁面に発電システムを組み込むことはできるのではないか。

 基本的な概念は使う分だけ作るというエネルギーに対する考え方を変えることである。作れる以上のエネルギー消費はしないという精神にもつながる。このイノベーションこそ、日本を世界を変えるものとなるだろう。

ひかえめに

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 かなりひかえめに蝉が鳴き始めた。今年は蝉が少ないと思ってしまうが、真実は蝉の鳴く季節の前に真夏の暑さが来てしまったということだ。

 蝉が鳴くと生命の高まりを感じることもあるが、騒がしくもある。しかし、あるべき風景に蝉が鳴かないと何かおかしいと感じてしまうから不思議なものだ。ニイニイゼミは年々少なくなっている気がするし、アブラゼミやミンミンとともにクマゼミも増えてきたと言われている。そのどれもがいまのところほとんど鳴いていない。

 昨日は近隣の市で出された洪水に関する避難勧告の警報音に驚かされた。被害は出ていないようだが、今後も豪雨が降る可能性はあるということなので気をつけねばなるまい。

ゲームを作る

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 ゲームを楽しんでいる人が多いのは今に始まったことではない。私も以前それに多くの時間を費やしたことがある。気休めや現実逃避にはよい。問題なのは無意識のうちに他人が決めたルールのもとで泳がされていることだ。ゲーム好きの人の中にはその感覚がなくなっている人がいるように思えてならない。

 これは比喩的に現代人の行動の大半に当てはまる。高度に完成されたシステムをプレイヤーとして操作するだけで、そこに自らの創意や工夫はない。そもそも自分ができることはほとんどないか、できても成就する可能性は低いと考えている。だから、そういうことができるとは思っていない。

 他人本位の世界の中で自分の位置をこんなものだと位置づける。それには本当は何の根拠もない。しかしゲームの世界ではたとえばその成果が得点となって可視化される。自分の位置はどこにあるのかが疑似的に示される。それはある意味、快感であり、屈辱にもなる。いずれにしても自分の立ち位置が分かる気がするのは実際には曖昧な現実社会の靄を晴らしてくれる。

 そもそも私たちがこの世に生まれたとき、既存の社会というシステムの中で生きることが決められている。だから、きまったルールに従って生活を営むのは仕方がないのかもしれない。ただ、ゲームをする人はその宿命的な枠組みをあえてさらに狭めて自分の精神を閉じ込めているのではないだろうか。むしろ自ら小枠にはまる選択をすること自体に生きがいを見出しているのかもしれない。

 私たちに必要なのはゲームで遊ぶことだけではなく、ゲームを作ることではないかと考える。作家の森博嗣氏のエッセイに、子供ころおもちゃは自分で作って楽しんだという話があったのを覚えている。ないものは作るという環境が創作的な人生を導いたと拝察した。比喩的に言えば既存の社会の中で、既存のルールでプレイするだけではなく、時にはルールを考えて新たな遊びを考えることが私たちに求められているのではないか。

 何をやっても徒労感と無力感、相対的な敗者としてしか自分を考えられない現代人にとって、こうした考え方は幸福の追求という観点からも大切なのではないだろうか。

雨が洗う

 住まいの近くはこのところ雨続きだ。強い雨ではないが、いつまでも止まない。地域によっては水害も出ていると聞く。

 通学途中の駅の土手に葛が群生しているところがある。この季節になると日々勢いを増して斜面を遡る。次々に広がる葉は、それぞれ大きくなって陽光を奪い合う。 

 いまその太陽は雨雲の上だ。それでも少しでもよい位置取りを目指すかのように緑が埋めていく。それを雨が濡らし洗っていく。来週はまた暑くなるという。

恩師

 大学時代の恩師が突然訪ねていらっしゃることになった。そこで酒食を用意して歓待しようとする。こんなに夜遅くどういうことなのだろう。

 なかなかいらっしゃらないことを心配しているうちに、布団がないことに気づいた。どうすればいいのだろう。出かけている母に電話で聞いてみることにした。しばらく帰れないから、番号案内に電話して貸布団屋を探せばよいとの答えを得た。そうかその手があったのか。分かったと理解した。それにしてもなぜ帰って来ないのかと尋ねようとしてはたと思考が止まった。

 先生はもう何年も前に逝去されていた。実家の母はすでに外出などできる状態ではない。なにかおかしい。

 これが夢であることに気づいて時計をみると丑三つ時だ。実に古典的夢オチである。なぜこんな夢を見たのだろうか。ここ数日の疲労感と体調異変やもしかしたら気圧の急降下が影響したのかもしれない。

 そういう科学的解釈とともに、何らかの不安が映像化したものとも考えられる。恩師に世話になっていた頃はもっとも輝いていた時代だという思いがある。懐古を通り越した回帰願望が出てしまった可能性がある。

 正気に戻って考えることは、有為転変の中で過去にとらわれることは免れることはできないという通念の確認だ。ただ、過去には戻れない。戻れたとしてもそこにすばらしい何かがある訳ではない。今を生きるしかないし、それこそが生きるということなのだ。

 夢の中とはいえ、恩師と少しお話できたのはよかった。そして今もなお教え導いてくださっていることに感謝申し上げたい。

大雨

戻り梅雨

 今日帰国した人がいたら日本は梅雨の末期であると考えるはずだ。例年この時期は豪雨になりやすい。その意味ではもとの季節に戻ったのだろうか。

 記録的短時間大雨情報というのが出されるようになった。警戒レベルのメモリが変わり避難勧告の上のレベルができたという。そのくらい最近の雨の降り方はおかしいということだろう。

 旅をすると河川の周囲にはさまざまな集落があり、豊かで美しい佇まいを見せている。しかし、これが増水時にはどうなるのだろう。今まで見た風景の全てが無事であることを祈る。

 自然災害は避けられないが、せめて被害が少ないことを祈る。

体調管理

太陽とうまく付き合いたい

 昨夜、突然めまいがして体調が崩れた。いろいろ調べてみると熱中症らしい。自室にいたのにも関わらずなんとも情けない。

 自室にはエアコンはないが隣室から涼風は届いており、サーキュレーターも回していた。この季節は日中に壁が吸収した熱が放射されるようで室温が下がりにくい。連日の猛暑で体力が落ちていること、年齢的な問題なども影響しているのかもしれない。

 この季節は例年以上に体調管理が難しい。何とか切り抜けなくては。

蝉しぐれはまだ

 約一か月早く来た猛暑の日々だが、ここまでのところ何かが違うと感じていた。それはあの騒がしい蝉の声が聞こえないということだ。数日前の新聞でも報じられていたが、同じような違和感を持っている人は多いはずだ。

 セミが鳴かない理由は簡単に言うと季節の進行の速さについていけていないということらしい。蝉が成長する前に気温が上がってしまったというわけである。昨日の朝、私の住まい近くでは多くの羽蟻が発生した。ようやく昆虫の世界が季節に対応し始めたのかもしれない。

 セミのいない夏が終わり、まもなくセミの鳴く夏が来る。まだ暑い日が続くのかもしれない。いろいろな意味で調子を外しそうだ。変な季節を楽しむしかあるまい。

夏の宿題

計画は立てないよりはまし

 教員には夏休みがあるという人もいるが意外に夏は忙しい。合宿の引率が入ると24時間営業のn倍の労働があるし、部活動顧問としても時間外労働が課せられる。決して休めるわけではない。

 とは言っても、日常の多忙さからは軽減されるので夏はインプットの機会として活用することにしている。仕事関係の本5冊とそれ以外5冊は読みたい。この中にはテスト問題を作る素材探しは含めない。地域との関わりを考えて、何らかのイベントに参加したい。とりあえずは客として行くだけでいいが、その後はボランティア参加できるものを目指す。

 一向に上手くならないギターやウクレレの曲を3曲は仕上げたい。仕上げるというのは人前で聞かせられるレベルにするということだ。

 このブログのアクセスを10倍にしたい。芸能ネタ等を使わずに、今のような随筆で人さまのお役に立つものを書くにはどうすればいいか。考えていきたい。10倍というとものすごい感じかするが、かける前の数が微少なのでそれほど増える訳ではない。

 といったことを私の夏の宿題とする。宿題はたいてい終わらないものだ。終わらないときは何とかしなくてはならないものだ。これは教員が言ってはならないことだった。