投稿者: Mitsuhiro

分解者

 生物学の世界では生物をほぼ最終的に分解するものを分解者と言うらしい。カビなどの仲間がそれに当たる。しかし、実感としては蟻などの昆虫や、ミミズなどが思い浮かぶ。いわゆるスカベンジャーと言われる動物たちも広義ではこの仲間ではないか。

 通勤途中の道端にセミの亡骸が落ちていた。これからはよく見かけることになる。少し時間をおいて通りかかると蟻がたかっていた。炎天下なのに補食の方が優先されるようだ。普段ならば気持ち悪いとはき捨てるところだが、なぜか生命力の強さを感じて少々感動した。分解者としての位置づけはあくまで人間の視点による。それぞれの生物は自らの種の保存のため日々を生きているのだ。

 人は知恵を手に入れたばかりに生きる意味とか、禍福とかを考えるようになった。毎日それで一喜一憂の繰り返しだ。たしかにそれは幸せなことかもしれない。幸せという概念を獲得したこと自体が奇跡的なことなのだから。

適応

進化できるかな

 人体が環境にどう対応していくのかを考察したものはいくつかある。そのいくつかはファンタジーと言える類であり、ホラーとしか思えないモノもある。

 進化という名で呼んでいいものなのかは分からない。ただ環境に対する対応ということに関して言うなら人体は確実に変化していくだろう。さらに人為的な改変も加わる。外見を一時的に変えるだけではなく、遺伝子を操作して根本的に変えてしまうことはこれから普及していくはずだ。人工的な機能を内蔵することもあるだろう。コンタクトレンズ型ウェアラブルデバイスはもっとも実現しやすいものという。何かの漫画ではないが機械伯爵との対決は嘘ではないのかもしれない。

 ただしこういう話の大前提は人類がヘマをしでかさないことだ。環境汚染で自滅したり、核戦争で未来の可能性を断てば何も起こらない。

雨の朝

 久しぶりに雨の朝だ。気温も高いので蒸し暑いが直射日光よりはましな気がする。隣家の壁にに大きなナメクジが這っていた。普段なら気味が悪いだけなのだがこのところの暑さをどうやってしのいでいたのかと不思議な思いになっている。

 予報ではこのあとまた晴れるらしい。変動が激しい日は要注意だ。

尺を変えてみる

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 日々の瑣事に取り紛れ身動きが取れなくなったように感じるときは、尺を変えてみるという方法がある。この数日、この数か月、この一年では大問題であっても、10年を単位にすれば文字通りの瑣事になってしまうことがある。

 もっと縮尺を変えて世代という単位に広げたり、時代という単位にしたり、もしくは世紀、もっと上げて地質時代の紀を単位にすればもう今日のことなど目にも見えなくなる。これは一種の逃げの手なのであるが、たまにはこういう方法をとるのも面白い。

 夜空を見上げれば多くの星があるが、その多くはかなり昔の光が届いたものだ。過去の輝きを見ているのに過ぎない。尺を変えるというのはそういうことだなのだろう。今見えているものがすべてではない。そう考えることで救われることもある。

簡単に作れるコバエとり

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 コバエが発生すると厄介だ。トラップのようなものも売っているがあまりとれない。困っていたところ、小学生のころ教えてもらったやり方を思い出した。それをもっと簡単に工夫したら結構取れることが分かった。

 小学校でなぜかショウジョウバエの観察をしたことがある。産卵から成虫になるまでの時間が短いので観察に向いていたのだろう。今から考えると何がうれしくてハエを飼っていたのかと思うが、同じようにアリも飼っていたことを思えば、我ながら子供のころの好奇心はどこに消えたのかと思う。

 さて、小学生の時のハエのとり方は口の小さめの瓶に果物のカスなどの餌を入れ、紙で漏斗をつくりかぶせると、コバエは入ることはできるが出ることはできないというものだった。漏斗をどう固定するかが問題なるが確か輪ゴムか何かで留めたのだろう。結構捕ることができた。

 このことを思い出したが、もっと簡単に同じ効果を再現できないかと考えたところ以下の方法にただりついた。ペットボトルのキャップに錐などで2ミリくらいの穴をあける。一つでも二つでもいい。錐を刺すときは外側から行う必要がある。ペットボトルに醤油をほんの少し入れる。穴をあけたボトルのキャップを締め、ハエの出そうなところに置く。

 すると面白いようにハエが入っていく。どうもハエはにおいに敏感らしく、醤油に誘引されていくようだ。さらに穴に潜り込む本能もあるらしい。一度入ったら出るのはかなり難しい。だから結果としてどんどん取れていく。飲み終わったあとのペットボトルとごくわずかな醤油だけで効果がある。もう金を使ってトラップを用意する必要はない。コバエに困っている人がいれば試してほしい。

うなぎ

鰻とりめせ

 今日は土用丑の日であった。この日にうなぎを食べるのは江戸時代の販促戦略であったと言われる。この季節にうなぎを食べるのには栄養学的にも根拠はあるらしい。実はこのうなぎという魚には様々な背景がある。

 万葉集には武奈伎として登場するうなぎは、家持によって滋養豊富な夏の食材として奈良時代から認められていたことを知ることができる。ところがこのうなぎの生態には不明なことが多く、産卵は南洋の深海であり、稚魚は黒潮に乗って日本沿岸に漂着する。さらに大半は河川を遡り、淡水魚として過ごす。産卵期に再び海に戻り深海に次世代を産むというのである。泳ぎが決して上手いとは言えない魚がどうして地球規模の移動をするのか。分からないことが多いらしい。

 養殖として知られるうなぎの卵からの育成はできないらしく、沿岸地域で稚魚を獲ることにかかっているという。乱獲と気候変動など複数の要因が重なり、ニホンウナギは絶滅危惧種とされている。ここまで述べてきて分かるようにニホンウナギという名称には自己矛盾があり、決して日本だけの魚ではない。

 養殖されるうなぎの最近は輸入されるものが多い。養魚段階で問題のある餌や薬物の使用もあると言われ、食の安全性は確保できていない。何か昔と味が違うと感じるのはそのせいかも知れない。もっともこれには科学的根拠はない。

 今年のような異常な暑さにあってはうなぎ料理は救いのような気がする。平賀源内の知恵の後に訪れたこの魚の境遇の劇的変化は、希少種となってやがては消えていく結末に至るのだろうか。暑気あたり気味の頭脳では上手くまとめることはできない。

読むのを見せる

その本おもしろい?

 読書をしない子どもたちが増えている。読解力がとんでもないことになっている。そういった話は世上に溢れている。そして、現実にもそういう人に出会うことが多い。何とかならないかという話をされることもある。

 国語のテストである程度の点数を取るための技術ならばある。しかし、それは生きるための読書力かと言えばあやしい。難関大合格者の中に国語は要領ですよとコメントするのを読んだことがある人も多いはずだ。そういう人の大半は読書を作業と捉え、学び取る力に欠けているように感じられる。筆者に対する敬意も、批判する精神も薄弱だ。

 普段から読書をし、他者の意見を受容し、ときに吟味して批判する人になるためには、やはり子どものころの読書習慣が影響する。子どもに本を読ませるにはどうすればいいのだろう。これも長年の課題の一つだ。

 もちろん課題図書として課すというのは一つの手だろう。しかし、自主的に本に親しむ環境を大人が提供することの方がより大切である。提案したいのはまず大人が読書する姿を見せることだろう。率先垂範はこの話題にも当てはまる。できれば読んだ本の話を聞かせるのがいいが、ただ読んでいる姿を見せることだけでも効果がある。

 電車に乗るとほとんどの大人はスマホを見つめ、そのうちの大半はゲームをしている。次にソーシャルメディアを読む人がいてほぼそれで終わりだ。スマホで読書もできるが、できれば紙面の本で読むのがいい。子どもはそれを見ている。

 

爺ちゃん先生

 

先生はいませんか

 教員不足が一部で深刻化しているという。本来、教壇に立つ予定はなかった管理職の教員が臨時で代講したり、複数クラスを合同にして急場を凌いでいるらしい。教員が不足することはかなり前から予測されていた。それなのにこの事態に陥っているのは行政の失策が大きく関与している。

 資源のない我が国は人材こそ最大の資源だと言われ、教育には最大限の支援をするべきだとはよく言われることなのに、実際にはそうなっていない。東大を始めとする難関大学に合格させることのみを目的とする一部の教育と、そのほかの悪しき平等主義の教育しかない。結果としてまったく平等ではない格差教育が行われている。

 魅力のない教育の世界に敢えて身を投じようとする優秀な人材は少ない。他に楽でやり甲斐があり、高給が保証されている仕事の方を選ぶ。当たり前だろう。その結果、少子化なのに教員不足という異常事態に陥っているのだ。

 高齢の教員を再登板させて何とか切り抜けている現状もある。これも一案ではある。かつてほど老け込むのは早くはない。定年をあげて働ける人は続けていただくのは確実な方法だ。経験も役立つはずだ。お爺さんお婆さん先生にご活躍いただこう。

 でも、究極の解決法は若い教員の人材を増やすことだ。労働条件を改善するとともにある程度の高い賃金を約束しよう。中途採用も積極的に行うべきだ。私はこうした議論が一向に深まらないのは大問題だと考えている。

かき氷

 かき氷というものを最近食べていない。かつてはかなり楽しみな夏のおやつだった。母が家庭用の削氷器を購入してからの数年は家庭でも作った。シロップの着色料などまったく気にせずほとんどメロンの味のしないカラフルな氷菓子を楽しんだ。

 今でも街角にかき氷の看板や幟を見ることがある。喫茶店などでも選べる。しかし、なぜかそういったものには関心が向かない。年齢のせいだろうか。

 ある程度離れていて、何かをきっかけに興味が再燃することがある。また、あの冷たい体験に復帰しようか。思案中である。

読解力の測定

時間をかけずに読め?

 読解力の低下はここ数年我が国の教育界が危惧するものである。しかし、この読解力にもいろいろあって、速読力に左右されるものとより深い読みを要求するものとがあるように感じる。後者の方面に対する手当が十分てはないことを注意したい。

 例えば共通テストの国語は明らかに問題が多すぎる。ここで求められているのは深い読みではなく、いわば情報処理能力だ。要領よさと手際の良さが主に測定されているといってよい。しかし、こうした能力はAIなどにもっとも代替されやすい分野だ。これを国語科で試す必要はないのではないか。

 共通テストに限って言えば、時間を増やすか問題数を減らすかのどちらかをまず行うべきだ。次により深い読解を求める設問を考えていくのがよい。その結果、平均点が下がっても意味があるはずだ。

 センター試験時代から国語の情報処理能力測定志向は疑問であった。共通テストになり文学的な文章が減るとか、契約書のような実用文書を読むようになるとかいろいろな懸念事項があった。それらはいまのところ大きな変化はなかったものの、時間の割に問題が多すぎるという難点は強まってしまった。

 国民の読解力を底上げしたいのならこのような出題は止めたほうがいい。時間をかけて考えるより、とにかく速読とそのためのテクニックへの関心ばかりが高まるだけなのだから。