
今日で夏休みは終了だ。できなかったことも多いが、できたこともある。気づいたこともある。それを少しずつ形にしていこう。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro

古典を教えてきて気づくことはいくらでもある。誰でも知っていることに「うつくし」という語の意味の変化がある。高校で学んだことを思い出していただきたい。
『枕草子』に「うつくしきもの」という段がある。清少納言が自身の価値観でうつくしきものを列挙した章段である。そこにあるのは瓜に描いた子どもの顔、鳴き真似すると寄ってくる雀、這い這いしながら近づいてくる幼児が途中でゴミを見つけて大人に見せた姿、など子どもや小さなものへの愛情を示すものである。現代語ではかわいいというべきことばだ。
古典語の美しいは「きよらなり」や「うるはし」が担当する。前者は清純のイメージがあるのに対し、後者は秀麗の感が強い。そしてどうも清らかさのほうが評価は上であったようだ。
これもよく言われることだが日本人は完成された美よりも未熟、未完成の状態の方を好むという。例えば日本でアイドルと呼ばれるジャンルで成功するためには理知的だと思われてはいけない。たとえ世情に通じていても、初心なふりを通す必要がある。海外の同様の立ち位置の存在には完成された歌唱やダンス、語学力が要求されているのと対照的だ。日本人ももっと歌やダンスを鍛えなくてはという人は多いがそのとおりにすれば少なくともアイドルではなくなる。場合によっては売れなくなってしまうかもしれない。
かわいいは国際語になっているという人もいる。どこか子どものようなデザインはかえってユニークなのであり、そこに価値が生じている。もしかしたら「うつくしきもの」を嘉する考えが隠れているのかもしれない。
高校野球がこれほど注目されるのも、宝塚歌劇団はプロの演劇集団なのに、俳優たちは生徒の意識があり卒業があるのも、こうした価値観に関係があるのかもしれない。

最近、このブログで誤字や脱字が増えている。今回はその言い訳をする。我ながらずうずうしい企画だ。
誤字が増えた第一の原因は私の視力の低下にある。老眼が進んでしまったようでスマートフォンの文字がよく見えない。通勤電車の中で手短に入力する関係で見えなくても勘で決めてしまうことが多い。それが誤字の生まれる要因だ。
まだある。いわゆる予測変換という便利な方法は時間短縮のためには役に立つ。ところが私のようなひねくれたことを書く者はコンピューター氏の予想を外れる語を使いがちだ。それをよく見ずに確定すると見事に変な日本語になる。
まだある。私の注意力低下という如何ともし難い現象だ。これが根源にありそうだ。残念だが認めざるを得ない。
私のできることは、気がついたときに直すことだけだ。時々過去の記事を読み直し、誤字や文意不通の箇所を書き直している。だから私のブログは過去記事が平気で変わっている。その方が誠実だろうから。というのが私の言い訳である。
日本の代表的なファッションデザイナーの森英恵さんが逝去されたというニュースがながれた。ファッションにはあまり興味はないがそれでもハナエモリブランドは知っている。蝶のデザインの模様は印象的だった。偉大な先人の功績を讃えたい。
実はわたしにとって森英恵のブランドは、表参道にショップができたことが縁の始まりだった。といっても小学生にとってはやたらと入りにくい服屋で値段が高すぎるのでいつも外からみるばかりだった。もっとも当時の表参道には海外のブランドショップが並んでいていたために、その中では親しみを持てるものであったと記憶している。
新聞記事によれば、森英恵氏がデザイナーになったきっかけは海外で日本の衣服が安価な量販品として扱われていたのをみて心を痛めたことにあるという。すこし前の我が国が中国や東南アジアの製品を見下していたのと同じだ。日本製品に付加価値をもたらしたのはデザインであったという。
印象的な蝶の模様もオペラの蝶々夫人に代表される可憐だが運命に逆らえない弱い存在からの脱却を秘めるものであったかもしれない。日本の伝統美が現代にも通用することを示してくれた。後進のデザイナーの目標にもなっていたと考える。
価値を創出する人がこれからの時代にはとても大切になってくる。服飾品デザインはその象徴であるが、それ以外でもさまざま場面でデザインは大切になってくるのだろう。

もう何日か分からなくなってしまったが暑い日々が続いている。このような夏休みはかってあっただろうか、子どもの頃は真夏日が非常事態のようなあつかいだったように記憶している。
こういう記憶というのは時間とともに誇張されていくものだからあてにはならないが少なくとも32℃はこの世の異変と感じていた。それが最近は普通になっている。
猛暑の冬は大雪になるなどと言われるが果たして最近も通用する話なのだろうか。気象の常識は通用しないように思えてくる。

外食のデジタル化でもっとも顧客にとって顕著なのは注文の仕方である。かつてからそういう店はあったが急速に増えているのがタブレットを客に操作させる方法だ。初めてそういう店に入ったときには大いに驚いたが、いまはかなりの頻度で出会う。
その手の店の中にもいわゆる紙のメニューを置いている所と全く置いていない所とがある。置いていない店はウエイトレスは席の案内くらいしかしない。後はタブレットでお願いしますと言って去っていく。もっと進んだ?店はタブレットさえ置いていない。自分のスマホかなにかでそれを読み取って店のWEBにアクセスし、そこから注文してくれというのだ。こうなるともうテーブルの上にはQRコードが印刷された紙切れ一枚しかない。
デジタル化はもちろん重要だ。特に人手不足かつ収益性の低い外食産業においては必要だろう。ただ、なにかが切り捨てられた気がする。それは熟練されたサービスであり、安心感であり、安らぎのようなものだろう。もちろんうまい料理が食べられればいいのであり、それが安ければなおいい。そのための手段として接客のデジタル化は不可欠なのだろう。それが嫌ならば、接客に長けた社員を多数雇用する店を選ぶべきだ。残念ながら、そういう店はどんどんなくなっていくし、あってもかなりお高い店となる。サービスはタダではないのだ。
では、これからの外食産業はどうなっていくのか。まず、安価を維持するために徹底的な合理化を進めていく路線がある。これは今の主流だ。セントラルキッチンようなところで調理された半製品を冷凍や真空包装で各店舗に届け、調理場では最低限の光熱費で最終調理をする。特別な技能はいらないので、安価な報酬で調理師を雇えばよい。ウエイター・ウエイトレスは高校生か、高齢者を雇用してすぐに交代させる。必要最低限しか雇わない。バイトの単価が上がらない前に解雇する短期契約でつなぐ。接客はほとんど機械化しているので、そこそこ愛想がよければいい。片づけ、食器洗いは最低限にして多くは機械化する。いまでもその気はあるが、自動洗浄のレベルではよくても、心情的にはもう少し洗ってほしいという食器が来ることがある。しかし、この種の店では今後もそれは改善されず、質的向上はまずないだろう。
もう一つの路線はやたらと高級化していくことだ。安価なチェーン店と同じことをしていてはとても勝てない。そこで店員はいずれも志の高い正社員をそろえ、最高級の接客をする。食器の質、洗浄の度合いなども洗練される。もちろん料理はその都度、シェフが作る。季節によって少しずつ味が異なるのは、シェフのさじ加減がかわるからだ。顧客はとても幸せな気分になれる。チェーン店で同じ名前のメニューを頼むと一桁安い値段で食べられることはわかっていても。
極端に書いたが、格差が広がる日本社会の未来として十分にありうることだ。外食産業はそれが分かりやすいが、こうした違いは各所に現れるだろう。IT化は人々を全体的に豊かにするという人もいるが、少なくとも過渡期においては格差を助長することになる。
私たちは振り回されないことが肝心だ。便利なものは使い、便利でも気分に合わない者はあえて使わないという判断をしていかなくてはならない。デジタル化が世の中を素晴らしいものにするという単純な論理に乗らないことだ。

相変わらず猛暑が続くが、今日は意を決めてジョギングをしてみた。とっても近くの公園の周回コースを回っただけである。ここは近くに自動販売機もあるし、ほかのランナーもいるから安心だ。少し柔らかめの舗装にしてあるのもいい。
暑いから走れないというものもあるが、それ以前に体重が増えすぎたのかもしれない。体が重かった。時々また走ってみようと思う。運動不足はいろいろな点でよろしくない。

サントリー美術館で開催中の「歌枕 あなたの知らない心の風景」という展覧会を見てきた。歌枕は和歌の世界でいう名所のことであるが、よく知られているように実際にその地に訪れることはなくてもその風景を歌の中に詠みこんでしまうというものである。そこから歌を素材とした絵画が生まれ、さらには様々な工芸品が生まれた。
桜といえば吉野、紅葉といえば竜田というように歌枕には固定的なイメージがある。吉野にも紅葉はあるし、夏の茂みもある。しかし、そういうことは捨てられて桜の山として注目される。歌枕としての地名は場所の名前ではなく、当時の美的観念からその地に見出されてきたイメージのまとまりを意味する。もちろん核となる風景はあるのだが、そこに集まってきた印象の積み重ねが形式化して歌の素材として定着すると歌枕になっていく。
この展示では歌枕を絵画化した屏風や絵巻物が多く並べられている。これらの作品は一度和歌の素材として実景から濃縮されたイメージが、一度和歌として利用され、今度はその作品の世界から風景が想像されて、視覚の世界に再現されたものといえる。いってみれば風景の美的エッセンスが何度か濾しとられているようなものであろう。
だから歌枕の絵は実景とはかけ離れていても当たり前なのだ。それは美意識によって切り取られたものであり、それがさらに観念的に再構成されて屏風絵のようなものに再び視覚化されていく。その繰り返しの中で洗練度はさらに増していった。わが国の近世絵画に厳密な意味での写実がはないのだと思う。そこには理想的な美のエッセンスを描こうとする営みがあった。
でもこれが西洋絵画に多大なる影響を与えたのは周知のとおりだ。実物の映像を複製するのではなく、自分が見たまま感じたままの映像を具現化することの重要性への気づきが近代絵画の発展に貢献したのであろう。
よく言われていることだが、こうしたものの捉え方が和歌やその派生形である俳句を核として生まれ成長してきたことはもっと注目すべきだろう。短詩形に思いを詰め込むために何を捨象して、何を取り出すのか。その中で醸成されてきたさまざまな約束事のなかで押しつぶされないようにどのような工夫をしてきたかといったことは日本の文化を考える上での大きなヒントになる。さらに現況を打破するための哲学ともなりうるかもしれない。

私たちにはより良いものを使いたいという願望がある。便利な機能がついているものはそれを使いたい。それは自然なことだ。しかし、その便利という考えを熟慮する必要がある。それは本当に必要なのか。便利なように見えて実は不便なのではないか。
例えば新しい家電を購入するときに、様々な高機能付きの製品を選びたくなる。1万円高くてもその方がいい。店員もそれを勧めるし、情報誌にもそのように書いてある。数年使えば1万円の投資は回収できると考える。しかし、もしその機能を全く使わずにその製品を使い続けるのだとしたら無駄になる。
こういう論法は今までにもいろいろな人から聞いた。なるほどそういうこともある。ただ、大切な問題は少し違うところにあるのではないか。高機能が保証されていればそれだけ安心感はあるし、可能性という満足感を購入したとすれば使わなくても投資価値があったともいえる。無駄とは言えない。
問題はその高機能性に甘んじて、自分で工夫することを怠ってしまうことにあるのではないかと考える。機能がなければその分、自分で工夫をしなくてはならない。生産性が下がるかもしれないが、その中で何ができるかを考える。結果として別のやり方が生まれ、下がると考えれていた生産性はかえって向上する可能性もある。こういう努力をしなくなることの方が技術依存の問題点だと考える。
今ある条件のなかで何ができるのかを考えることが大切であり、それが結局は既成の状況を超越するためのきっかけになる。与えられた幸福よりも自らそれを模索し獲得することの方が意味があるはずだ。
スマートフォンでほとんどの記事は書いているのだが、やはりキーボードがあると効率が全く違う。文字をたくさん入力するときはやはり物理的なキーボードが欲しい。私が小型パソコンを持ち歩くのはそのためでもある。ただいかんせん重い。軽量のPCもいくらでもあるがそういうものは値もはるものだ。私はその一つの解決策としてキーボードだけを携帯して、Bluetoothでスマートフォンに接続している。
私が使っているのはLogicoolのK380というものでもともとはタブレットの入力用として用意したものだ。しかし、そのタブレットが骨董品となってキーボードの方は使わなくなっていた。それをスマートフォン用の入力機器として使ってみたら非常に便利であることが分かった。
このキーボードは電池で駆動し、3つのBluetoothを受信できる。キーバードの配列も標準的であり、Windows,iOS、androidのどれにも対応できるようにキーが作られている。重さは423グラムであり、私が普段持ち歩いているポーチに入る。これがあればスマートフォンに入力するのが非常に楽になる。
キーが丸いのは特徴的だが特に打ちにくいということはない。打鍵音がほとんどないので周囲が静かなところでも気にならないのもいい。キーボードだけを持ち歩いてあとはスマホというスタイルでもいいと感じている。4000円弱でスマホをPC化するという言い方は大げさだが私の使用レベルではこれで十分な仕事ができる。