投稿者: Mitsuhiro

価値の再確認

こんないい時計でなくても

 新しいものが好きなのは変わりがない。どう批判されようと高機能や独自のギミックには惹かれる。使うことがないにしてもそういうものを持っているというだけで満足感を覚える。そういう人は多いだろう。私もそうだ。

 しかし、悔しいが何でも揃えてはいられない。経済的にも保管場所も、そして私自身の能力の余裕も。それらがすべて足りなくなっている。

 こういうときは発想の転換をして納得することにしよう。敢えて昔の商品に価値を見出していこうという作戦だ。使い古しているものの価値を再発見するのである。ただ見つけるだけではなく言葉にしていくことが大事だ。魅力的な説明を考える。

 例えば私は一万円に満たないソーラー電波腕時計を使っている。もう10年近くほとんど毎日使っている。目立った機能はない。この機種としてはほぼ最低スペックだ。表面がプラスチックなので細かい傷がつきやすい。これは磨き粉を使うと消えることが分かったので一旦は消したがまた付きはじめている。

 こういう中古の時計を再評価したい。まず壊れないことは何よりもいい。機能が少ないということは壊れる可能性が低いということだ。電池交換もせず動き続けているのは素晴らしい。時刻補正もする。なぜか月に一度か二度しか電波を拾わないが、時刻合わせはそれで十分だ。表面の傷はそれがもたらす使用感がいい雰囲気を醸し出している。自分の成長を見守っているかのようだ。耐えられなくなったら磨き粉で拭けばいい。あっさりと傷は消える。柔らかいのもいいものだ。スマートウオッチのようにメールの着信通知は来ない。バイタルチェックもできない。それは余計なことに気を取られる心配がないということだ。

 こんなふうに考えてみればいま使っている時計も満更でもない気がしてくる。アップルとかグーグルの時計など何になろう。物の価値は見方次第だ。いくらでも変わる。

誰が縛っているのか

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 中国では言論統制がなされているとはよく報じられる。特定のニュースが意図的に報じられないとか、ネット検索ができない用語があるといかいうことだ。しかし、このインターネットが普及し、人々の国際的な往来が活発なグローバル社会においてその程度で統制などできるのか。いつも疑問に思っている。

 習近平国家主席の異例の長期政権の中で、言論統制が進行しているといわれる。しかし、日本を含めて海外に渡航する中国人は多い。また高学歴かつ、高度な技術力をもった人材も多数存在している。かれらが統制や検閲の存在を知らないはずはなく、実際に海外で目にしたことが中国の国内での知識と相違することなどすぐに分かるはずだ。それなのになぜ統制が効いているのだろう。

 為政者による技術的な情報統制には限界がある。処罰を重くしたところでいずれは破綻する。なのにそれがいつまでも進行しているのは、縛っているのが政府ではなく、国民自身だからなのだろう。つまり、自分自身のアンテナをへし折り、聞こえないふりをすることで海外の影響を食い止めているのだろう。その下地は教育にあるのかもしれないし、政府の意向にそって生活をするものが社会的成功をおさめ、反するものの陰惨な結末をいくつも目にし、耳にしているからかもしれない。縛っているのは自分自身なのではないか。

 中国のことを想像で言ったが、これは日本人にも言えることだ。言論の統制などないと思っているが、さまざまな不文律はあると言われている。これが注意深く意識から外される。自由に発言しているかのように見えて、その枠組みのなかで思考し行動する。はみ出すことを自主規制しているのかもしれない。

 言論の統制というものは意外にも簡単に達成できることになる。何が原因で人は口を閉ざすのか。目の前の異常事態を見逃すのか、政府の圧力という単純な判断では本質は見えない。

You can’t miss it.

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 外国人の入国者が急増しているようだ。水際対策を緩和したことで日本はお安くお得な観光地になった。何度も書くが外国人の立場になれば今がチャンスだ。自国のインフレの影響が生活を苦しめる前に日本で憂さ晴らしをしておこう。

 そんなわけで外国人に道案内をする機会も増えるかもしれない。最も最近は英語ができる日本人は増えているので大丈夫だと思うが、私はちょっとおぼつかない。いや大分不安だ。英語は長い間学んできたが、話す方は特にできない。いろいろな人に聞いてみると、会話力は実際に話す機会がないとつかないという。いくら本で学習しても実際に話す機会がなければ習得はできないというのだ。逆に書けなくても文法が分からなくてもとにかく話せるという人はいる。確かに日本語の文法を理解して日本語を話している人などごく少数だ。

 道案内をした後の決まり文句がYou can’t miss it.であることは知っている。そこまで案内ができるだろうか。自分のミスの方が心配になっている。

郵便は遅い

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 かつては郵便に頼っていた時期があった。いろいろな文書が郵送され、それによって事務手続きがなされてきた。しかし、どうもこれからはあてにはならなくなる。デジタル化の中で実物配達の郵便は別の使い方をするべき時が来た。

 日本郵便のサイトによると、郵便法が改正されたことにより、普通郵便の土曜日の配達が廃止されている。また、いままで翌日配達の地域だったところも原則として1日追加で配達される。月~水の消印が押されると、その地域は2日後の配達が見込める。しかし、木曜消印だと到着は4日後の月曜日だ。金曜消印も月曜なので3日後、土曜に受け付けられた場合は火曜配達で3日後になる。日曜受付は2日後に戻る。さらに、もともと翌々日配達だった地域は月、火に引き受けてもらえれば3日後に配達されるが、水曜だと5日後、木、金曜ならば4日後、土日ならば3日後になる。土日は郵便局も開かないので現実的には月から金の中で投函日を選ばなくてはならない。ポストの収集時間にも気を付けるべきだ。

 以上から考えるにこれからは普通便で早く届けたいなら月曜に出せということだ。土日にかかる場合はそれだけ配達日が遅くなる。まだ返事がないとかと相手を非難する前に、自分がいつ投函したのかを気にしなくてはならない。配達日を気にしないなら速達やゆうパック、レターパックなど付加的料金を惜しんではいけないことになる。申し訳なのか速達料金が290円から260円に値下げされている。

 デジタル化の旗振りたちは、だからもう電子にしましょうと声をそろえる。しかし、そう簡単にはできないものもあるのだ。私は仕事で手紙を出すことが多いが、週初めに仕事を終わらせて郵送するか郵便料金をケチらないことを心がけるしかない。相手からの返事も気長に待つとする。

 

技巧か真心か

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 一概には言えないが何かを表現するときに技巧は大切だが、それに走りすぎると難解になる。分かりにくいのが悪いわけではないが、得てして技におぼれて本質を失うことがあるように思えてならない。あるときそれに気づいて基本に戻る。この繰り返しが起きているように思える。

 和歌の世界でも最初は神に何かを祈願するものであり、単純で類型的なものだったはずだ。その蓄積の中でさまざまな技巧ができた。おそらく最初のうちは修辞とは思わず、習慣的に繰り返してきたはずだ。あるときその方法が表現するためになんらかの効果をもっていると気づく人が出る。すると今度はその技法を意識して使い始める。洗練されて実に効果的な方法と考えられるようになる。

 その技法が広く使われるようになると、鮮度を失ったかのように考えられて陳腐化する。またあれかと考えられるようになるともう刺激はなくなる。さらなる技巧を追求してより複雑な表現技巧が生まれていく。そしてそこに新たな命名がなされ、新しい何かが生まれたかのように考えられている。

 高度な技法はその種明かしをしてもらわないと理解できないものになっていく。この表現には古歌のあの雰囲気が裏に隠されているのだ、などという知識なしにはもう分らない。知っている人には意味の複合の効果まであり、表現世界が拡張したかのように感じられるかもしれない。しかし、予備知識なしでは味わえない作品は、すでに表現世界の範囲を超えてきている。

 高度で難解な作品ばかりが類型的に作られるようになると、基本に帰りたくなる。素直でわかりやすい表現世界だ。やっぱりこれがいいということになる局面が来る。分かりやすい。でもこれが続くと飽き足らなくなり、再びまた技法の誘惑にはまっていく。こうした繰り返しは詩歌だけではなく、さまざまな表現世界で起きている。

 私は何がいいのかは分かっていない。ただ、何かを伝えるとき素直に思いを伝えればいいのか、それともそれを技法に乗せて効果的に伝えるべきなのか、こうした迷いは歴史の中で繰り返されているという事実だけは押さえておきたい。これは時代の風潮でもあるが、一人の表現者のなかでの成長の段階でも起きている。

日本のエンタメ

海外から日本のエンターテイメントを観に来る方もいるはずだ。日本人にはちょっと高いがあなたならお安く観られるだろう。

 伝統芸能の能や歌舞伎は見ていただきたいが分かりにくいかも知れない。ならば、数多く開催されている演劇やミュージカルはどうだろう。チケットが取りにくいものもあるので事前にエージェントに相談することをお勧めする。

 スポーツもいい。野球はあの大谷もプレーした日本のプロ野球をお勧めしたい。まだ対戦カードは確定していないが、東京か大阪か福岡の球団だから観光ついでにいい。アメリカより地味かもしれないが試合は面白い。サッカーやラグビーもある。そうだ羽生君は引退したがフィギュアスケートもある。

 音楽もいい。一流のクラシック演奏があちこちで聴ける。海外のアーティストが日本には数多く来日している。お目当てはアイドルですか。それなら、チケットの取り方をエージェントによく相談するといい。

 いろいろなエンターテイメントがあなたの来日を待っている。お越しください。

報復

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 ウクライナの戦争の状況は刻々と伝えられている。ただ、真実の姿は現地に行ってみないとわからない。現地でも分からないかもしれない。なぜこんなにも長期化しているのだろう。

 かつてロシアといえば冷戦時代の双璧の一つであり、大量の核兵器保有、莫大な天然資源を保有する国として圧倒的な強さがあると感じていた。共産党政権が崩壊すると、ソビエトを形成していたさまざまな国が分離し、その一つにウクライナもあった。分離した国の中にはロシア民族から文化的に遠いと思われる国家もあるが、ウクライナはその中ではロシア民族に近いと勝手に考えていた。

 黒海をめぐる紛争はかなり古くからあり、ロシアの不凍港獲得のための歴史の一つとして学生のころから教えられてきた。特にクリミア半島をめぐる紛争は現代の大問題であり、実効支配するロシアに対してウクライナは国際世論のもとで戦っている。今回の大橋の爆破事件はその象徴であるといえる。

 橋の破壊に対してロシア側は報復の爆撃を行ったという。報復とはなんだろう。何に対しての報復なのかすでに分からなくなっている。爆弾を投下する、ミサイルを撃つ口実として使われているのに過ぎない。ウクライナがここまで持ちこたえているのも長い抗戦の歴史があり、負けない方法を身に着けているからだろう。EUなどからの支援も取り付けている。その意味ではもはや地域紛争ではなく、世界大戦の代理戦をしている趣さえある。

 この戦争が世界の人々に多大なる影響を及ぼしていることは事実だ。穀倉地帯の供給をとめ、天然資源の確保が難しくなっている。それが直接、間接に世界経済を悪化させてきている。コロナのパンデミックの余波で様々な問題が発生している中で、さらなる悪影響を及ぼしていると言える。もっと深刻なのが人々の平和の理想をくじくことだ。結局戦うしかないと考え始める人が増えれば未来には絶望しかない。

 報復などしている時ではない。この争いを早く終わらせる叡智を世界は求めている。

立場逆転

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 外国人の入国制限が緩和されて再び海外からの観光客が増えることになる。日本を訪れる人はきっと驚くだろう。物価が安いと。思わず衝動買いに走る人もいるかもしれない。いや、買い物をする目的で日本に来る人も増えるはずだ。

 アメリカなどで起きているインフレは生活に深刻な影響を及ぼしているという。さらにドルの価値が上がり、円がやすくなる傾向は継続中である。海外に旅行する余裕がある人は日本に来れば金持ちになったかのような錯覚を持つことができる。いろいろなものが安い。品質もそう悪くはないはずだ。6.86ドル(約1000円)でおなか一杯になりますよ。大衆食堂ならばだが。

 食料、衣料だけではなく不動産を物色する外国人も増えているという。つまり、なにもかもが割安感があり、外国人の所有欲を刺激するのだ。これはかつて日本人が海外で様々なものを買収したことの裏返しではないか。残念ながら今は買う側には回りにくい。買われるばかりだ。いまはそういう局面にあるのかもしれないが、いつまでもこの状態は続けられない。

 次なる手を考えよう。若い同胞たち。

母親役

 人のことは分かるが自分のことは分からないということはよくある。私の場合、自分の年齢についてかなりごまかしている。本当は体のあちらこちらにガタが来ているのに、それほど変わっていないかのようにふるまい、実際に自分の年齢に関する自覚が足りないことがある。

 そんな甘い認識が時々破られる。例えば自分と同い年という人の姿を見たとき、その老け具合に驚くのだ。自分はそうではあるまいなどと思っても、むしろその人の方が健康的であったりする。若いころアイドル的な存在だった女優が、老け顔になり母親役などをやっているのをみたときはショックは大きい。確か自分より若かったはずなのに立派なおばさんではないか。などと思うが自分はその上のおじさんであることを棚に上げてしまう。

 容貌が衰えるのは仕方がない。加齢とはそういうものも含む。ただ、若いころの美意識とは異なる別の美しさがあることにようやく気付いてきている。

近江鉄道無料の1日

近江鉄道

 10月16日、琵琶湖東岸を走る近江鉄道が1日運賃を無料にすると発表して話題になっている。他聞に漏れず赤字経営の地方鉄道である。まさに出血覚悟のサービスであるが、目的は乗車体験者を一人でも増やすことにあるらしい。

 地方で生活をするとすぐにわかるが、鉄道はあるとありがたいがめったに乗らない。車があるので駅までわざわざ行くのは面倒であり、一時間に数本しかない便を待つことができないのだ。乗らないから経営は苦しくなり、さらに便数が減る。悪循環である。独自経営ができずに第三セクターとなって命脈をようやく保っている路線が大半だ。

 1日無料とは大胆だが、損して得取れの商人の心意気が感じられる。とにかく、鉄道の存在の知名度を上げ、乗車経験から客に戻ってきてほしいということなのだろう。継続的な効果があるか否かはなかなか実証的できないが、やる意味はある。

 鉄道やバスは路線を新設するのは非常にたくさんの手続きがいる。失ってしまうと取り戻すのはかなり難しい。維持するのにも莫大な資金がいる。あまり効率的な商売ではないのかもしれない。ただ、地域の利便性を確保することは計り知れない利益がある。交通会社のみに任せず、受益者が様々な形で支援ができる方法を考えなくてはならない。銚子鉄道のように鉄道業務以外で収益を狙う方法もある。大都市圏ではなく、しかも観光資源に乏しい地域の鉄道は苦しい。しかし、廃線になると多大なる不利益が出るという鉄道はいくつもある。


 それぞれの鉄道がどのように生き残るのかを考えることはこれからの日本の在り方を考えるうえで非常に参考になる。また、我々は部外者ではなくあくまでステークホルダーとして参加すべきなのだ。