小さな子どもがエノコログサを何本も摘んで束にして持っていた。猫じゃらしにするのだという。そんなにたくさんの猫を相手にできるのだろうか。微笑ましい姿ではあった。

植物名はエノコログサであり、実は犬の方なのだ。犬ころからの変化という。猫じゃらしとして確かに使えそうだが、先祖は犬の方を連想した。
この植物は粟の近縁であり、その気になれば食べることもできるらしい。食料危機のために調理法を知っておいた方がいいのかもしれない。そのときは犬猫にはかまっていられないだろう。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
かなり前に京都で五山送り火を見た。前日に銀閣寺の裏手の山を登ると、送り火のための準備が進んでいたことを思い出す。16日の夜、ビルの屋上から見たいくつかの送り火は厳かで印象に残った。
送り火はこの世に訪れた祖霊を冥界に送り返すためにともされるらしい。大文字のような大規模なものではなくても、かつては軒先で焚火する光景を見かけた。
学生時代、先祖祭りの行事をいくつか見たが、その多くに祭りの終了を印象づける所作があった。片付けることも含めて祭祀になっているのだ。祖霊には期間が終われば確実にお帰りいただかなくてはならない。送り火もそのためのものなのだろう。
祖霊を返し、再び褻の時間に戻ることは新たな日常の再開を意味する。祖霊祭りは、実はこの世に残された者たちの再生のための手段なのかもしれない。
景気の話であまりいいことはない。正確にはうまくいく人と、いかない人に分かれつつある。問題は後者の方が多そうだということだ。
個人的には多少つつましく生きる方がいい。今の生活は何でも手に入りそうな気配は見せるが実際には手が届かないということが多い。だから無理して買い求めて貧しくなっていく。これは現代社会が仕掛けた巧妙な罠なのだろう。
子供の頃を思い出してみると、必ずしも満たされていなかったのにも関わらず、何かがなしとげられたときの喜びはとても大きかった。そして何かが足りないときは自分で代替品を作った。それもブリコラージュで大体は済んだ。見た目は悪くても本人にとっては素晴らしい宝物になっていた。
へたに安価な既製品が手に入るようになってその努力をしなくなったのは残念な展開だ。ただ、一度金を出せば買えることを知った者は、すべての幸福の素を財力に求めようとしてしまう。そして、いま経済の不調が多くの人々を貧しくし、貧しいのにかつての財力第一主義から抜け出せない。

貧すれば鈍する現状から脱するにはどうすればいいのだろう。古人は貧の中に楽を見出すことを勧めている。物質ではなく、精神的な楽しみを見出そうとするのである。足るを知る者は富むとはよく言ったものだ。これからの生き方は足るを知ることを目指すことにしたい。
何かをするときにその意味を深く考えるということは大切だ。意味を考えずにやることはときに大きな失敗を招くばかりか、周囲に多大な損害を与える。それは分かっているが実際には考えずに行動することの方がはるかに多い。
意味を考えていたら行動に移せない。出遅れれば制せられる。そこで受ける損失を恐れて考えずに行動してしまう。中には習慣化して行動を半ば自動化していることも多い。訳を考えずに行動することは仕事をこなすスキルともみなされている。
でもやはり、時々立ち止まることが必要なのだ。無批判に他人の言われるがままに過ごせば、いつか悪意のあるものに操られるかもしれない。そのような前例は歴史の中でいくつもある。沈思熟考のときを設ける必要がある。

個人の富士山のイメージは絵に描くと分かる。山頂部に水平な部分があって、台形のような形と考えている人は多いだろう。しかし、実物はかなり違う。
例えば山梨県側から見た富士山はより急峻で野性味を帯びている。山頂部も傾いており、溶岩を流した跡が残っている感がある。現にその形跡である青木ヶ原樹海が溶岩流の広域さを推量する証となっている。
私たちが富士山に対して漠然としたイメージをもっているが、それは現実の富士山とは程遠い。人生という単位、もしくは人類史というスケールでも収まりがつかないほどの長大な時間をかけて造形されたものは複雑であり、言語でも映像でも捉えることはできない。ごく一面をしかも省略したり誇張したりしてようやく表現できるのだ。
私たちの目にするもののすべてが実はすべて物事の一面に過ぎないことを考えるべきなのだ。