投稿者: Mitsuhiro

漢字練習

日本語にとって漢字は不可欠だ。恐らく漢字がなければ貧弱なコミュニケーションしかできない。漢字はもともと古代中国の文字だから、日本語は外国語に支えられていることになる。

字を書こう

これは別に日本語だけの現象ではない。ヨーロッパな言語の多くも、自国語以外が発祥の語彙が多数含まれ、文法までも他言語から取り入れている。日本語の場合はそれが文字という目に見えるものだから分かりやすいというだけだ。ちなみにひらがなもカタカナも漢字の省略から生まれている。

さて、漢字を書けることは日本語話者にとっては重要な課題だが、この能力が少しずつ低下している。その原因の一つが、デジタル化によって漢字を手書きする機会が減ったということがある。複雑な字形の漢字は、つねに形を確認しておかなくては忘れてしまう。そして確認の方法が書いてみることにあるのだ、

例えばいまこのブログはiPhoneでフリック入力している。仮名で入力すると漢字の候補が挙がる。その中から相応しいものを選ぶのだが、この際に漢字の字形はほとんど瞬時に見るばかりで、詳しく確認していない。万一、少し違う文字をそれとなく紛れ込ませていたならば、それを選んでしまう可能性は十分にある。

 こうした生活を繰り返していると漢字が書けなくなっていく。書けないと漢字を使う機会は減るから、次は読めなくなることに繋がる。

私自身の問題として漢字を書く機会を確保しなくてはならないと考えている。それには積極的に手書きの文章を残すことがいい。その中で漢字を極力使うことにしよう。人に言う前に、まず自分の言語世界を守らなくてはならない。

地震

 夕刻に地震があった。茨城県南部で震度5弱だったという。地震に対する耐性ができてしまった私にとってはこの規模ならばあまり焦らない。でも、この感性はおかしいのかもしれない。

 東日本大震災の前は、震度4からは恐怖のスイッチが入り、5以上になると歴史的大事件の雰囲気が横溢した。それがいまは震度5強くらいからようやく恐怖の対象になるという鈍感さだ。

 一つには、町の耐震免震の技術が発達したことがある。震度5弱程度で崩れる建物はない。大きく揺れてもそれを受け止めるシステムができている。

 ただこうした慢心が齎す悲劇を考えねばなるまい。私はライフラインが停止した事態をもう一度考えることにする。この地震も何かの教訓にしなくては。

梅雨の気配

 5月も間もなく終わる。夏日になる日も増えて季節が進む気配が見えてきた。駅前の紫陽花が花をつけだした。たくさんの蕾も開花を待っている。見た目と違って毒を持つというこの花も、見るだけなら季節を感じさせる心遣りの一つだ。高い気温と湿度が感じられると梅雨も間近だと思う。まだ間があるだろう。薫風を楽しみたい。

若葉のグラデーション

 絵心は皆無だが是非描きたいと思うのがいまごろの木々の若葉である。実に繊細で複雑だ。すべてが異なりながら、どれも同じような形をしている。

木の絵を描きたい

 水彩でも油彩でも入門書を立ち読みすると、こうした木々の描き方の指南がある。その通りに真似てみるとなるほどそれらしい絵になりそうだ。ただ、これは木を描いたのではない。木を見て森を見ず、という言葉があるが木さえ見ないで木を描くということになる。

 しかし、本当に見たままの木を描くことはかなり大変なことだ。一つ一つ違う葉の有様をどのように描こう。描きながら刻々と変わる自分の感情をどう制御すればいいのだろうか。

 それでもいつかは自分の目で木を描くことを夢見ている。恐らく、他人が見たら何の絵か分からないものになるかもしれない。ただ、ゴッホの糸杉のように、それがどうであったかより、どう見えたのかの方が大切なのだろう。

 若葉のグラデーションを描くことを目標に加えることにしたい。

作文力

 どんなに拙くても自分の言葉で意見を書く練習は必要だ。AIの時代だからこそ作文力がものをいう。

 じっくりと自分の意見を温めて整理してから文章にするという経験が生活から失われてきている。予め用意された型を組み合わせ、それなりの文書を作ることはできても、型のない新たな局面における文章はなかなか書けない。

 ChatGPTの生成する見た目はいいが内容がおかしい文章を冷笑する前に、己の文章力を反省しなくてはならない。コンピューターのように潔く変な文書を書く方がやはり遥かに勝っていると言わざるを得ない。

 私は人に作文を教える立場にあるが、まずは自身の文章を見直さなくてはなるまい。このブログは20分あまりの通勤電車のつり革に捉まりながら書いているので、熟慮がなされていない。これでは真の文章力は上達しないのだろう。

 どうしたら文章の作成力を向上に貢献できるか。それが私の課題の一つである。

お土産倶楽部

 部活動もいろいろあるが、地方の学校にぜひ作ってほしいのが新作民芸品を創作するクラブだ。その地域を表し、なおかつ可愛らしかったり、有益だったりして買い求めたくなる。そういうお土産を創作するクラブだ。

 最終目標として採算が確保できることを前提にしたい。そのためには地域の歴史や経済、流通などの現状を把握する必要がある。地元の商店主や観光行政の責任者にアドバイザーになってもらい、実益が得られる部活動にすべきだ。中学生や、高校生が向いている。

 地域を活性化するのは若い世代だろう。アイデアは彼らが生み出す。大人たちはその実現のためのサポートをすればいい。うまく行けば地域として大きな恩恵がもたらされる可能性もある。田舎であることは不利ではないということを地域として証すべきだ。

未来のインターフェース

 若い世代には信じられないだろうが、ある年代から視力が著しく低下する。次に聴力が来るのだろう。この境地は経験しないとわからないものがある。脳の回転も残念ながら鈍る。これを放置すると認知症になるのだろう。

 これを支援するシステムを完成すれば、大いに社会貢献できるだろう。場合によっては、格別の商機にもなる。だから言いたい。若者よ年寄の言葉を聞け、そこにチャンスが転がっていると。

 これからは高齢化社会になる。高齢者を引退させてはならない。それは若い世代にも不幸をもたらす。そのためには高齢者用のインターフェースを考えるべきだ。爺ちゃん婆ちゃんに現役の消費者になってもらえれば若者たちの活躍の場が確保できる。

 そして実はこの現象は世界のあちこちで起こる。その時にノウハウを輸出すれば次世代のGAFAも夢ではない。日本の若者に期待している。

黄砂と湿気

 今日明日は黄砂が飛来するそうだ。言われてみればなんとなく空が濁っている気がする。さらに今朝は湿度が高い。この空には大量の砂粒と水泡が漂っていることになる。

 あまりいい条件ではないが、こういうときは何か別の視点が取れるチャンスと考えたい。濁った空の下で何ができるだろうか。この気を晴らすものは何か。技術的な話になると手が届かない。生活の工夫ならばできるだろう。あるいは考え方を変えれば新しいアイデアが生まれるかもしれない。

 空が繋がっていることを再認識すれば、励ましにも警告にもなる。高湿を気をつければ今後の猛暑に備えられる。何か考え方を変えていきたい。

ハルジオン

 どこにでも咲いているハルジオンは外来の雑草という分類だ。それにしてはあまり悪者扱いされないのは、小菊に似た花の形と、名前によるのだろう。冬場は全く存在していないかのようで、春夏になると風景の大半を占める。名前に反して生命力は逞しい。

 子どもの頃はこの花を可憐なものの象徴のように考えていた。今はどんな環境でも生き抜くものとして見ている。植物には癒されて励まされ、ときには脅されるのである。

翁さぶ

 古い言葉に「おきなさぶ」というのがある。万葉集には見える言葉で、老人らしく振る舞うという意味だ。古代において翁は盛りを過ぎた高齢者であるとともに何らかの特殊な能力の持ち主であることを予感させる存在であったはずだ。

 人生の両端にあたる嬰児と老人は、この世に生きる者の中ではあの世との境界に位置する存在と考えられたのだろう。だから、老人は必ずしも人生の末端ではなく、ある意味、神の存在に近いものと考えられた可能性もある。

 だから、おきなさぶことは老いぼれを演じるという訳ではない。生きている存在にとってもっとも彼岸に近い存在として尊重されたのだろう。

 高齢者がまるで社会の負担のようにしか考えない論調が横行するが本当にそれでいいのか再考すべきだと考える。