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朗読劇

 密を避けることが義務づけられつつある社会情勢の中で、演劇は公演が制限されている。小劇場での感染も報告されており、厳しい状況が続いているのだ。その中で妥協点として考えられるのが朗読劇ではないか。

 向かいあわず接近しない。演劇の大半の要素を切り捨てた朗読劇は、それ自体で味わいがあるものだ。ただし、物足りなさが伴うのも事実である。いま、制約が設けられた状況にあってその欠乏感までもが効果的な表現方法になる可能性が出てきた。

 ソーシャルディスタンスなどという言い方もあるが、要するに触れあえない悲しみ、もどかしさを伴う状況にあるわけである。それが果たせないやるせなさを朗読劇の方法で表現できるかもしれない。

 久しぶりに脚本を書いてみようかという思いになっている。創作にはある意味こうした現状打破のエネルギーが必要なのかもしれない。

詳細にこだわらず関係性を説く

 自分の思っていることを相手に伝えようとするとき、そのほとんどが伝わらないという経験をしばしばしています。それは私の話し方に問題があるのでしょう。それではどうすればいいのか。自分なりに修正を試みます。

 自分では論理を立てて説明しているつもりでも、初めてそれを聞く人にとっては非常に分かりにくいことがあります。自分にとっては一度通った道でも、始めてきた人にとってはどこに連れていかれるのかわからない探検のような雰囲気になります。分かりやすくするためには適度な道案内と、ゴールが見えているようにする可視性が必要なのでしょう。そのためには結論先出、説明後付けの方法がいいのでしょう。

 板書をするときなどは論理の筋道を文字化、図式化することを心がけます。細かい情報に拘ると全体像が見えなくなりますので、全体を見通せるようにします。最初にその地に立った人は、自分の立地点のことばかりを考えてしまいますが、あとになって考えるとその位置はあまり重要でなかったということもあります。大切なのはその地点ではなく、他の事象との相対関係であることが多いものです。まずはそのことを説明するべきです。

 個々の物事を説明するのではなく、互いの関係性をできる限り俯瞰して見せること。それがうまい説明につながるのでしょう。

組み合わせ

 新しいものを作り出すことは容易ではありません。ゼロから作ったという表現には明らかな誇張があります。創造神でもない限り無から有を生み出すことは不可能です。

 私たちが新しいものと感じているのは大抵の場合、既存のものの組み合わせです。今までにない取り合わせ、意外な連係が新しいものとして現れるのでしょう。私たちはもっとミックスとかブレンドとかに興味を持つべきなのです。

 これは有形物のみならず、無形の概念、社会の仕組みなどにも共通します。新しい何かを考えるときには現状の分析と大胆な組み合わせとが肝要なのです。

ごまかされる外来語

 最近の流行語は残念ながらクラスタやオーバーシュートかもしれません。コロナウイルス流行がなければ認知度が高まらなかったはずの外来語です。

 clusterは葡萄の房などを表すのが原義で小集団などの意味もあります。クラスタという長音記号を省略するのは理系出身者の外来語表記に多く見られますので、この語の出自も想像できます。ウイルス騒動が起きる前は偏狭的嗜好を持つ集団、いわゆるオタクの集まりくらいの意味として拡張利用されていた言葉でした。

 overshootは行き過ぎるとか通り過ぎるといった意味らしく、想定していた以上に数値が超過してしまったときに使われています。寡聞にして私はこの機会に初めて知りました。これも電圧や力学上の世界では日常的に使われている言葉らしく、検索するといくらでも用例が出てきます。

ある大臣がツイートしていましたがこれらの語を政治家やメディアが安易に使うのには反対です。クラスタは感染者集団とか感染の可能性が高い集団などといった方がよいし、オーバーシュートは感染者急増の方が分かりやすい。感染爆発という言葉もあります。感染者の飛躍的増加を防ぐために外出自粛をというのなら、感染爆発という言葉で注意喚起した方がいいのではないでしょうか。オーバーシュートがなんだか分からない人や、オーバーシュートくらいならなんとかなると考えた人はたくさんいるはずです。

 外来語がそのまま使われるのは日本語にそれに相当する語が存在しないときなのですが、置き換え可能な語があるのに使わないのは混乱を招きます。指導者たるもの使う言葉にもご注意いただきたいと存じます。

これが本当のclusterです

色のイメージ

 国旗に使われる色にはそれぞれ込められた意味があるといいます。フランスやイタリアなどのように色彩に託されている意味が深いものはそれを知ると強い説得力を示します。

 ただ色彩が惹起する印象が民族によって異なるのも確かです。欧米の一部の民族では緑に嫉妬心を読み取るのだそうです。この感覚は私にはありません。見ているものが同じでも感じることは異なるという事実はいつも意識していなくてはなりません。

 色の分節についても共通していると思いこんではいけないようです。日本の古代では青の指す範囲はいまより広いようですし、虹が何色かという国際比較にも興味深い結果が出ています。通時的にも共時的にも色彩の区分は様々です。細かいことを言えば色覚の個人差も考える必要があります。同じ世界を見ているというのは幻想なのかもしれません。

 色分けは日本語では分類そのものを表す言葉でもあります。その色分けが極めて個人的な判断によるものである事を再認識しておきたいのです。

言葉にする

 思っていることを言葉にできない。大半の不幸の原因はこの点に発します。表現力が上がれはいくつかの問題を解決できるはずです。

 好きだという気持ちや嫌悪感はもちろん、そのいずれにも属さない感情は大抵の場合、それを説明することはない。しかし、場合によっては他者に分かってほしいこともあります。そんなときに必要なのが表現力です。

 表現の方法はいろいろあります。表情や身ぶり手ぶりももちろん大切な表現方法です。しかし、言葉にすることがもっとも分かりやすい。それができないために悩みは大きくなるのです。

 私たちは思っていることを言葉にする力を身につけなくてはいけない。そしてそれを話せるもしくは読ませる相手が必要ということになります。

説明できること

 何が正解なのかは分からないけれども、それが正しいであろうと他者のほとんどに説得できることが大切になっていると考えます。

 決まった答えはないというと、何でも答えになるかのように受け取られ、ならば考える必要はないとまで考えてしまう。しかし、答えはないのではなくてやはりあるのです。それが何であるのかいまのところは決められないというだけです。

 決まった答えがない問いに対しては、自分がこれこそは正解だと考える答えを考え、それに同意してくれる人を増やすことができるのかが肝要となります。そのスキルこそこれからの社会で必要な能力です。

 読解力の低下がピサの試験で明らかになりましたが、人に自説を説得する能力は読解力と表裏の関係にあります。危機感をもって教育にあたる必要を感じています。

その人にしか見えないもの

 その人にしか見えないものがあることを私たちはなかなか気がつきません。何かのきっかけでそれが分かったときに深い感動を覚えることがあります。

 例えば絵画や写真を見ることはそのきっかけになります。同じ場所を見ても見えているものがまったく違うということを画家の創り出す作品は端的に教えてくれます。色合いや大きさ、中心にあるものなど、こういう風に見ていたのかと感じさせられます。写真は客観的な現実の切り取りのような体を装いながら、実はカメラマンの視点が強く反映されています。どの瞬間を現像するかの選択は撮影者の創意が形になったものなのです。さらに加工が加わればより複雑なオリジナリティの表現になります。

 対象がどう見えているのかを確かめることを一つの目的とすれば、芸術鑑賞の楽しみが増えます。そして、芸術作品に関わらずすべての現象が同様にいろいろな方法で捉えられているということを意識しておかなくてはならないのでしょう。

形から変えてみる

 形から変えてみることも大事です。膠着状態を破るきっかけの一つにはなります。

 現状の打破がなかなかできないときには内容よりも外見を変えてみるという手もあるのではないでしょうか。外見が変わればそれに伴う環境に多少の変化をもたらすことができます。付け焼き刃でもしばらくは効果があります。そのうちに中身が追いついてくるかもしれない。それを待てばいいのでしょう。

 長らく使った衣装を着替えることは勇気が要ります。これまで培ったイメージを捨てることになるかもしれない。それでも次の段階を目指すためには、場合によっては評価を一変させる手段が必要になるのです。

感情に訴える

 情に訴える方法にはよい点も悪い点もありますが、少なくともその効果的な方法だけは知っておく必要があります。理詰めではなかなか事態が進まないことが多いからです。

 私たちは何かを伝えたいときに、論理的に構成されたメッセージを送ることを目指します。それができないと独りよがりで理解不能なものになり賛同者が得られない。最低限の論理的な型に乗っ取って話を作ります。

 しかし、論理性だけでは人は感動できない。その中に感情を動かす何らかの要素が必要になります。人が何に感動するのかは個人的な差異があり、特定できません。同じものをみても抱く思いは異なるからです。それでもある程度の共通性はあり、多数の人に共有される感覚があることも事実です。

 感情に訴えるメッセージを送るためには他人の感覚の傾向を日常的に観察しておく必要があります。他人は何に感動するのかを知ることが大事なのです。その意味で人間観察は大事なのでしょう。メディアで取り上げられている感情のツボをまねするだけでは得られない何かがあることを発見しなければなりません。