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老いを開き直る

 この齢になるとやろうと思ってもうまくできないことがある。一番の問題は視力の減退だ。誰かから脳の活性化や筋力の維持はある程度なら加齢してもできるが、視力だけはどうしようもないと聞いた。スポーツ選手の引退の要因は視力の衰退にあるという。

 確かに視力の低下は大問題だ。単に見えなくなるというだけのことでは済まない。思考や行動の初期判断において出遅れるからすべてに影響を及ぼす。だから思う以上にダメージが大きい。一流選手にとっては引退を促すことになる。

 ただ、三流以下の私にとってはそこまで高いハードルではないのかもしれない。速攻はできないが粘り強く続けて少しでも前進するというのが残された手である。トータルで負けなければいいと開き直ることにしたい。若い世代とは違う意味のチャレンジは続けたい。

自分パビリオン

 自分を表現するパビリオンを造るとしたらどうなるだろうか。予算や工期などは考えないことにしたい。つまり、自分を形として示すにはどうすればいいのかということだ。

 こんな変なことを考えることがたまにある。それほど自分というものが分かっておらず、答が見つからないということなのだ。きれいな建物を建てれば美化しすぎていると思うし、散らかった部屋を再現しても、それは私の一面ではあるがそれだけでもない。醜い面は確かに多い。でも、僅かだが誇れることもないではない。

 自分を表す展示物は何だろう。毎日持ち歩いている文房具や眼鏡の類、このブログを書くときに使っているスマートフォン、くたびれた服や靴、それらは私を表せるだろうか。

 これまで読んだ本、観た舞台や映画のタイトル、それを一覧すれば私が分かってもらえるだろうか。何がどれも物足りないし、違っている気さえする。自分を形で表現するのは思ったより難しい。

 それならいっそ私自身がパビリオンに立ってこれが私ですと連呼したらどうだろうか。自己紹介なら私そのもののはずだ。でも、これもどこか胡散臭い。なぜだろう。

7勝8敗

高校で学んだことを説明してください。

 はるか昔の話になった高校時代。自由な校風といえば聞こえはよいが、少々緩すぎた生活だった。制服を着る義務はなく自由服だったが、なぜかクラスに何名かは制服を着ていた。

 授業も教員の個性により様々で、受験勉強に特化してしているものも、自分の自慢話を長々と聞かせるものも、話は面白いが試験に出ることは少ないので(次のテストには出ないが結局重要な話が多かった、と後から気づいた)生徒受けがわるいものも、親や都民に感謝せよと何度となく言わせるものも実にさまざまだった。

 一番学んだのは上には上がいるというちょっとした挫折と、それでもなんとか続けていれば幾分かの目標は達成できるということだろうか。自分に向いていないことは敢えて後回しにして、やりたいことに注力する方がいいということも知った。これは勉強のことだけでなく、普段の人間関係や部活動などで経験的に知ったことだ。

 学校という場所は思い切り失望し、たくさんの夢を持つきっかけを与えてくれる。7勝8敗でも負け越しではない。

桜の盛りなのに

 桜花は満開を過ぎ、散り始めている。まだ見ごろのときであり、本来ならば心浮き立つ時季だ。しづ心なく花のちるらんという境地なはずだ。

ところが私といえばいろいろな、困難に当たっている。とにかく体調がよろしくない。他人にはそれを察しられないように振る舞っているが、家族には本音を語ってがっかりさせている。もっと強くならなくてはならないとは思いつつ、このような体たらくである。

 桜はいろいろなことを考えさせてくれる。散る花を見ながら自分のこれからを冷静に見つめ直してみようと考えている。

失敗を許容する度量

失敗しても構わないという助言は有効かも知れないが、さほど相手の心には響かない。誰しも失敗はしたくないし、してもいいと言われても困惑するばかりだ。

 大切なのは失敗したときに相手にかける言葉であり、許容しさらに助言する寛容さだ。先に述べた構わないと言う人の中には本当に失敗し、損害が己にも及ぶとなると豹変する。巧言令色には仁は少ない。

 この国が現状打破するためには新しいことにも取り組まなくてはならない。そのためには試行錯誤はつきものだ。それを寛容する度量があるか。挑戦者を生み出すためにはその周囲の人たちも同じく挑戦者でなければならない。

考え方の模倣

何かを修得するということは、それら関連する知識や技能ができるようになるというだけではなく、学び方そのものを学ぶということだ。テスト前の丸暗記で試験を切り抜けても、終わってしまうとすっかり忘てしまうという経験は誰しもあるだろう。学ぶことは真似ぶことという人もいるが、それは師の考え方、生き方の模倣をすることで、表層の形をコピーすることではなさそうだ。

 若い頃は短期記憶の能力が優れているので、とにかく暗記ということができる人が多い。ただ、この方法だと記憶の限界とともに雲散霧消する。そうさせないためには知識を習得する意味を考え、関連する要素との関係性を把握することだろう。詳細は忘れても仕組みが分かっていれば再現することができる可能性がある。

 料理に例えれば、ある料理のレシピを覚えるのではなく、調理の仕方や調味料どうしの相性などを覚えることになる。それが分かれば他の料理も作れる。絵画なら筆の持ち方、デッサンの仕方などの基本を学べばいろいろな絵が描けるようになるはずだ。また画家の生き方を知れば多少の画法の差より大切な何かを知れる可能性がある。

 大事なのは表面的な模倣に終わらせないように指導することかも知れない。型から学べとはよくいう話だが、型の中にはそれを形成する心のあり方が含まれていることを忘れてはならない。

パンデミック以降

新型コロナウイルス感染症のパンデミックによって生じた変化にどのように適応しましたか ?

 私はコロナウイルス対策に恐らく2回蝕まれた。1度目は病院でコロナウイルスは陰性と診断されたがそのときのほうが症状は重かった。2度目は明らかに感染したと思われるものだ。当時流行語になっていたエッセンシャルワーカーの一員である私は、自宅勤務などの選択はできず、ソーシャルディスタンシングも実現不可能だったから、当然の結果だった。

 病状としてはかなり厳しい数日間と隔離処置対象となった数日間で、体力よりも精神の方が侵食された気がする。コロナウイルスの真の破壊力は社会との隔絶の理由を無批判で実効化してしまうことだった。

 周囲の仲間たちが交代で病魔に犯される状況で、私が得たのは現状を深く考えず、最終的な利益を考えることだったのかも知れない。何歩か後退することは仕方がない。最終的に少しでも前進できたならそれでよいのだという割り切りだ。パンデミックには抗いがたいが、波を乗り越えた後に生存できていればそれでよく、できれば数ミリでも前進していれば成功だと割り切ることができたことかもしれない。

 完璧主義な人には理解し難いであろうが、緊急時に現状維持はすでに勝利である。場合によっては少々の後退でも勝利の範疇に入る。そういう考えを持てたのがコロナ禍で得た教訓なのかもしれない。

暑さのせいに

 気温が上がり、汗ばむほどの陽気になった。暑さでいろいろ滞りそうだった。もう少し経てば何でもない温度であっても身体が慣れるまでには時間が必要なようだ。仕事が、うまくできなかった日は気分転換に限る。次はうまくいくと勝手に決めて今日は暑さのせいにする。

立ち回る

 うまく立ち回る人を目の当たりにしたとき、尊敬するときと軽蔑するときがある。すでに立ち回るという日本語には幾分の批判精神が含まれている。だから、私の立場も自ずと知れてしまう。

 いわゆるコンピテンシーについて述べようとすると、どうしても羨望もしくは嫉妬の気持ちが見え隠れしてしまう。気質に比べてコンピテンシーには後天的要素があるとされるが、それでも生まれつきの側面の方が大きく作用するように思えてならない。立ち回る力はなかなか鍛えることが難しい。

 私のように年季がいったものは特にそうだが、要領よくやれと言われてもやれるようにしかできない。何でできないのかとき言われても説明不可能だ。できないからできないというしかない。

 無駄な抵抗をさせていただけるならば、それでも私のやり方はありではないかと言いたいのだ。不器用な人にしか見えない風景を見ることができることは、世の中全体の福祉としては益となるはずだ。負け惜しみ的な言い訳だが。

 ならば、私の立ち回り方は、できない人間が見ている風景を皆さんにお伝えして、できる人の暴走を抑えることにあるのかも知れない。貴方の見ていない世界がある。そんなに世界は単純ではありませんよと、余計なおせっかいを言うことが、私の役目なのかもしれない。

残念ながら

 このブログを書くために使ってきたスマートフォンが最近不調で困っている。投稿したつもりの記事が結局アップロードされず、記事が渋滞してかなりあとになってようやくそれに気づくといったことがしばしば起きている。年季がきているのだろう。最近のアプリに対応しきれていないことも原因だ。

 ただ、最近の私はこの賞味期限切れのものに対する同情心がある。有効期限が過ぎたからと言って、すぐに廃棄してしまう心性にはどうしても馴染めない。道具は使い続けていくうちに愛着が湧く。古い道具でしか表現しきれない芸術的な瞬間を演じるのは、演じている貴方を見渡してみるのか。こういう選択を敢えてしておきたい。