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ワーキングメモリー不足

この話は何度も書いてきたが懲りずにまた記す。私たちが何かを考え、行動するときにはさまざまな記憶力が必要になる。複雑なものでなくても要る。例えば、先ほど見た光景を文章に書き表そうとすれば、短期的な記憶とともに成文化するための長期的な記憶、知識というものが活用される。これが衰えると実に厄介だ。

数年前ならなんでもなかったことにやたらと時間がかかる。短期記憶が足りなくなって、行動をリセットすることが増えているのだ。対策としていつでもメモを取るのだが、仕事のことなどはそうしても日時のこととなるとつい記憶の衰えを無視してしまう。その結果、家族に迷惑をかけているのは申し訳ないというしかない。

 これは底知れない自己嫌悪を伴うから精神衛生上よろしくない。別に手抜きしているのではなく、自然に抜けてしまうのだ。

 そこで私は一段階予防線を、引き上げることにした。些細なことでもメモを取る。それを恥ずかしいことと思わないということだ。上衣のポケットには常にダブルリングメモとポールペンを持つ。更に測量野帳やらA6ノートやらいろいろ持ってそれらに転写しまくっている。凡そ非効率的だが、こうしないといまの脳は覚えてくれない。老兵にはそれなりの戦い方があるのだ。

気温急降下

 このところ春を通り越して初夏のような日差しがあったが、今日から気温が急降下するらしい。三寒四温とは言うがかなり極端である。東京では多くの外国人観光客を見かけるが、今日の気温を体験した人には明日以降がかなり厳しいものに感じるかもしれない。暑さも寒さも雨も雪もある日本の自然を体感するにはいい機会かもしれないが。

 問題は体調の維持だ。今年は早くから対策薬を飲んでいたのに今日は花粉症の症状が出ている。さらに寒さで風邪など引いたら大変だ。インフルエンザもコロナも相変わらず流行っているらしい。これらを防ぐ大前提が免疫力の維持らしい。その免疫力を下げるのがストレスというから、とても厄介だ。ストレスに関してはもうほとんど配偶者のようなものでいつもそばにいるのだから。

 そのようないろいろ克服しなくてはならないことがあるのに、仕事は相変わらず山積している。しかも三月である。こうなったらもうドラマチックな展開を楽しむしかない。翻弄される自分を俯瞰して楽しもう。意外といい見世物になっているかもしれない。

鶏口牛後

 鶏口牛後の故事は歴史的にはうまくいかなかったのだが、その心意気は知るべきだろう。今朝読んだ記事に自分の実力以上の学校に滑り込み合格をした場合、そのまま進んでその学校の劣等生として過ごすのと、一つ下のランクの学校に進学してトップ層に入るのとどちらがいいかというのがあった。その記事の結論は後者を選ぶべきというものだった。

 この話は単純ではない。記事では統計調査の結果も挙げていたが、あくまで確率の問題だ。学習のきっかけが周囲の雰囲気によるか、他者との関係性において自尊心を保てるのかという問題になるだろう。これは個人の気質も関係するから一律に語れない。

 ただ、大樹の陰に寄り添う気持ちしかなければ進歩は望めないのは確かだ。結局は自分の目的意識を保てるかどうかで、環境要因以外の何かに基づく向上心を持つことが大事なのだろう。その際、口になれという気持ちは持っていなくてはなるまい。

 私自身はいつも滑り込みの人生を送ってきたので、劣等生として始める耐性はそれなりにはあったのだろう。途中でやりたいことが見つかれば浮上することはできる。後輩諸君に言えることがあるとすれば、鶏でも牛でもいいからしたたかに過ごして自分の目標を探すべきだということだ。

ひっくり返す

 悪条件は克服しなくてはならない。そう考えるのは自分の中にまだ可能性を信じていたことだ。そして、その状態であるということはまだ戦えるということになる。

 言うは易し。そういう気持ちになれないことの方が多い。劣勢に立つとあらゆる言い訳と、敗退後の惨めな状態を考える。恐らくこれも大切な知恵であろう。予めワクチンを打つのだ。でも、これだけでは事態を切り抜けられない。

 苦境は事態を改善するための手段だと考えられたらかなりの前進だ。改善策はまだなくてもいまの状態を過程として見なせば次がある。解決策は自分で考えるだけではなく、他人の言動の中にある可能性も考えられる。だから、短慮を避け時機に備えるのだ。

 事態をひっくり返すことを諦めてはならない。そう時々自分に言い聞かせることにしている。

 

文学的視点の復権を

効率化が大切だという人の多くは、実は人間生活を答えのある法則性の中だけで捉えている。なんでも数値化でき、その中で演算をするから効率などという数字を持ち出す。そもそも世の中の多くは定量化できず、不規則で予測不可能だ。そのような方面を注意深く無視して、数えられる現象だけを取り上げて計算する。効率化の多くが自然から乖離しており、それゆえにその矛盾に人々は苦しむ。

こうしたことに気づくためには、やはり文学のような他者の心情や行動を考えるものの考え方が必要だ。実際の社会は決して法則的ではない。外れ値だらけの現実をそのまま受け入れる感性も必要なのだ。

 昨今の風潮はこの大切な流れを忘れているように思える。なんでも方程式に当てはめようとする態度は人生の機微を無視してしまう。こんなことをいうと感情論であり無意味だというが、はたしてそうなのだろうか。不規則な毎日に無理矢理物差しを設定し、測れないものはなかったことにするという考え方自体が無意味だと反論できる。

 学校教育における文学的文章の軽視は現代社会で誕生したエリートたちの犯した大きな間違いだろう。少し後の時代の人々が21世紀始めの社会を批判することになる。あの頃は科学だけで何とかなると信じていた時代だったと。文学的な視点が軽視された不幸な時代だったと。

何とか切り抜ける力

 効率よく最短距離でが推奨されるご時世だが、どうも私には親和性がない。失敗を繰り返し、たまたまうまくいって何とか切り抜けるというスタイルの方が私にとってはやりやすい。

 こういう考え方は効率性への逆行と考えられがちだが、果たしてそうなのか。あるいは寄り道の上、出口を見つけた経験こそが大切なのではないか。何もかも上手くいかない状況の中で、必死に出口を模索できたことが何よりも貴重な出来事だったのではないか。

 物事を効率的に行うことに関して人工知能に勝つ見込みは少ない。かのシステムは過去のデータベースを引用して、今日の問題に提言をしてくるのだから、そうそう勝ち目は無さそうだ。

 ただ、不確実で法則性が見いだしにくい状況の中で何とか答えを見つけ出すのは人間の得意分野である。状況に対応してその場で解決策を見出すのは進化の過程で、獲得したスキルでである。これを大切にしなくてはならない。失敗することは避けられない。それでも続け、やり通すのは人間に残された最後の最強の能力なのであろう。

失望の果て

 失望の果てにたどり着くかものがある。どうしてもやりたかったのにできなかったことを数えれば果てしない。

 ただ、限りない幸運がないのと同様、どうしようもない不幸も長くは続かない。すべてはかつ消えかつ生まれる。

 慌てるのは今だけにしよう。やがてときは移りゆく。変わりゆく未来に身を委ねるしかない。

 この記事は下書きに残しながら出すのを忘れていたものである。

初めてのことのように

 細かいことを気にするなという言葉がある。確かにそれは処世訓としては的を射ている。ただ歳を重ねるとその金言は時に害悪になる。細かいことを気にするべきだろう。

 小異を捨てて大同につけというのは大抵の場合正解だ。些細な違いに気を取られて本質を失うのは愚かである。でも高齢者にとってはこの言葉は毒にもなる。歳を重ねると物事の分節化がかなり概括的になる。過去の経験知からこれはこのようなものだろうと決めつけてしまう。おおよそそれは間違いではないから、ますますその傾向は強くなる。でもよく考えみよう。同じことは二度と起こらない。そしてたとえ似ていたとしても背景の要素がまるで変わっている。

 だから、私の最近の金言はこれまであったことを初めてと考えよということだ。私のいまの経験を大切にして過去の経験知を敢えて後ろに回せということなのである。これには相当のかっこ悪さがある。でも、要領よく無難に切り抜ける代わりに何も得られないよりは、失敗があってもリアルタイムに現状と向き合える方がよほどましなように思えるのだ。

 おそらく、こんなことを言ったら、それは余裕がある者の意見であり、本当に困窮したらそんなことを言っている暇などないと一喝されそうだ。その点には異論はない。ただ、何もせずに暮らすよりは、何かをした方がいいのかもしれないいう形に人生を捉え直したい。真新しい明日を生きるために。

今日に至ることができた幸せを喜ぶ

人生にもさまざまな区切れがある。いま私にとってはそれを体験している。体調、気力、その他さまざまな面に不如意なことが増えた。でも、加齢を嘆いていても何もならない。寧ろいましか感じられないことを愚直に表現していこうと思う。この時の思いはその時にしか分からないものだろうから。

 今年を何とか無事に過ごせたことをよしとしよう。そして来年がもっといい年になることを、予祝してしまおうと思う。

 好き勝手なことを時流に阿ることなく記しているブログを読んでくださる方々に深く感謝する。さち多からんことを。来年もよろしくお願いします。

今より不便だったころ

 今より不便だったことを思い出すことができるのか。それが現代を生きる鍵になるのかもしれない。

 いまは何でも効率的なことが求められる。少しでも無駄のないように徹底的に計算される。そうせざるを得ない現実があるから躊躇がない。

 でも、今に至る前の時代は必ずあり、その時代を生きていたはずなのに、すっかりと過去の思い出を忘れている。これは老化とか人生の問題とは違うようだ。加齢がもたらす記憶系の不思議な振る舞いである。

 いま私は時代の先端にいて、その流れに乗っていることになる。当然さまざまな矛盾を抱え、場合によっては崩壊し始めている要素もあるのだが、いちいち検証することはない。過去の経緯を思い出さないことに加えて、少し後のことも考えない癖がついている。それが恐らくいま求められている効率的に生きることなのだろう。何かが違うとしか言いようがないが。

 試みに10年前とか30年前のことを思い出してみる。インターネットが普及する以前のことを考えてみる。そのときに感じていた何かを忘れてはいないだろうか。いまを見つめ直すためにはこういう脳内作業も必要だと思う。