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反実仮想の思考法

最近よく聞く言葉に「世界線」がある。文脈上は別世界の意味があるパラレルワールドのようなものがあることを想定し、もし今いる世界とは別の世界に生きていたとしたらという考え方らしい。実際には起こり得ないが仮に想定してみるという思考法である。

The another world

性質は全く異なるが伝統的な他界観である来世と少し似た発想だ。来世が時間的には縦に繋がるのに対し、パラレルワールドは横にある。その違いはあるのだが、現世との繋がりの中で異世界の存在を想定するのは同じことだ。

世界線を移動することができない以上、異世界の存在はなんらかの救いとなるわけではないように思える。今味わっている苦難は別世界では大きな恩恵になっているのかもしれない。でもその別世界には移動できない。

世界線という考え方を一種のメタ認知と考えることもできる。現状を見渡し、敢えてそれに捉われずに自由に発想する。そこから得られる慰めと現実の受け入れ、そして場合によっては現状打破の端緒の発見がこの考えの魅力だ。そうならば別の世界線を夢想することには意味があることになる。

目的は何だったのか

 日々の暮らしに追われているうちに初心を忘れてしまうのは世の常なのかもしれない。私の場合、研究者になろうという考えがあったわけではなかったのだが、好きな学問を続けられるならばと思ってその道に入り、周囲の人々の影響で研究職もどきに就いた。それが、途中でダメになって今の職に移ったのだが、せめて文学の楽しさを若い世代に伝えたいという思いで始めたはずだ。それがどうも今は数字で測れる成績の向上ばかりを気にして初心を忘れつつある。

 残り僅かになった教員生活を進学実績を向上させることに貢献することで終わることはそれなりに意味がある。でも、もう一人の自分が言う。それでいいのかと。そのために教員になったのかと。

 私は二つの目的を同時にかなえることに挑まなくてはならない。数字で測れる成績向上と、測れない教養というものの伝授を同時に達成することだ。教養の方は私自身が十分にあるのではないから、教えるのは学ぶことの楽しさであり、特に文学を学ぶことの意味についてである。単に試験科目としての国語で高い偏差値を取るのだけが目的なのではない。自分とは異なる誰かの考え方を学ぶことの意味を知ること、それは一つのベクトル上に並ぶのではなく、人それぞれの考え方があり、それぞれに意味があるのだということ。そのうえで自分が生きるための選択はせねばならず、先人の意見に学び、模倣しながらも、最終的には自分なりの生き方を創造しなくてはならないということを伝えなくてはならないのだ。

 日々の生活に追われ、自分の力の衰退に気を取られ嘆いているうちに、本当にやりたかったことを忘れつつある。まだ本当の衰微に到達する前にやるべきことをやっておかねばならない。そのためには若者がやるような無鉄砲な挑戦をこの歳でも試みる必要があるのだ。自分がここまでの人生を歩んできた最初の目的は何だったのか、再考するときになっている。

身体を鍛えておけ

 最近感じるのは脳も体力が必要ということだ。とても矛盾した言い方だが、私たちは体と頭を知らないうちに別のものとして扱う傾向にある。首から下の人間と揶揄する人たちは、本当の知識人ではない。脳もまた体の一部である。それどころか最も身体性の強い機関であるのだ。

 だから、体力がないと能力(脳力)も落ちる。これは最近私が日々痛感することだ。認知症という身体現象以前に、考えることそれ自体が体力のたまものであることをある程度歳を重ねると痛感することになる。

 私が若い世代に言いたいことは勉強はもちろん大切だが、身体も鍛えなくては脳の力を発揮できないということだ。その意味で現代人は大丈夫なのか少々心配なのである。今はいいが将来体力が衰えたとき、できなくなるのは階段を上ることだけではない。考えることそれ自体が衰退すると人生のすべての質が下がってしまうのである。

 スポーツ選手が引退を意識するのは視力の衰えによるものという意見がある。視力の老化はトレーニングでは防ぎにくく、経験による補完が効かなくなるとトップレベルでは戦えないのだという。アスリートの限界は視力にあるが、一般人は脳の力の維持によるものが大きい。それを維持するためにも若いころの身体的な鍛錬が必要だ。そして日々の活動でも身体に関心を持って適度な運動を続けることだろう。唯脳論者ではないが、やはり人生の質を守るためには脳の保全が欠かせない。そのためにももっと身体を鍛えておけ、と後進には伝えたい。

月やあらむ

 時々思い出す古歌に

月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして

 がある。伊勢物語では業平と思しき人物が后がねの女性に恋してしまった悲恋の話の中に印象的に登場する。

 そういう上つ方の話はそれとして、この歌にある月も春も循環するものなのに、おのれは着実に年老いていく様を歌ったのものとして捉え直すと、この歌のもたらす感慨は計り知れない。地球の寿命と、人間一個人の人生とは桁違いに異なるので、その差異に感嘆せざるを得ないのである。

 それでも私たちは人生の中に何らかの節目を作ろうとする。そうすることによって、人生が単調なものではなく、一定の意味を持つものとして理解できるようになるのである。尺度が変わると人生の見方は大きく変わる。

 そのくらいヒトにとつて重要なものは、自分が生きている生活の期間というものなのだろう。日本人の場合、それが80年程度という微妙な期間がさまざまな意味を持つ。

 古歌の趣きにかえって、自分だけが時間の流れの中で疎外感を感じているという世界観に思いを馳せよう。そこに広がる華やかな世界はそれとして、その中で人間のエリート達がいかにも振る舞うのか。そういったことを関心の片隅におきながら考えてみよう。

ルーティンの気楽さ

 ルーティンに入るとかえって楽だと感じることがある。連休明けで元の時間が戻ると相変わらず忙しく息つく暇もないという感じだが、その方が楽だと感じる自分がいる。よいことか分からないがやるべきことが決まっているということはある意味楽である。

 ただ、やりがいを感じられない仕事を続けると徒労感しか生まれない。やり切れたことの達成感はあるが、それ以上を得るのは難しい。私はかつて自分でやるべきことを決めて、成果を後で問われるという仕事をしていた。その頃の感触が残っているので、今のような毎日やるべきことが与えられ、成果がその都度評価されるという(世の中では当たり前の)やり方に馴染めなかった。

 それも長年繰り返すうちに徐々になれてきてしまった。いちいち次に何をやるかを悩まなくていいのは気楽なのだ。たとえ毎日の業務が多忙であっても。

 そこでまた迷いが始まる。これでいいのだろうか、進む道を人任せにして、明日を迷う作業を忘れても構わないのか。私の心の中では大きな「否」の声が聞こえる。ただ、ならばどうするという問いに関して、私の一部が黙り込んでしまうのだ。

 ルーティンワークの気楽さを抜け出して困惑と試行錯誤の道に入ることを勇気を持たなくてはならない。そういう「から」決意をこれからも繰り返すことになりそうだ。

現在進行形で考える

 考えていることを「過去形」で語らないことは私の世代にとってはかなりの重要事であると考える。私の考えていることはあくまで「現在進行形」であり、すでに規定された何かではないのだ。そんな当たり前のことが、私の世代ではすべてを過去形で話すような傾向がある。そういう圧力に押されているというのが正しいのだろうか。

 これはこれまでの常識ではこうであった。といった言い方がしばしばみられる。物事の基準が目まぐるしく変化する「ように見える」現状においては、過去の出来事の価値が不明瞭になりやすい。それは古典文学を研究しているときに知る、古典尊重主義とは真逆であり、大変興味深いものだ。古き良き時代に理想をおいてそれに近づくことを美とするこの価値観を私はよしとはしない。むしろかなり問題を抱えた思考法と思う。ただ、それによって与えられてきた思考的安定感は評価すべきものだ。どうなるか分からない未来に神経をすり減らすより、過去の時代に規範を置く方が精神的には健康であるといえる。

 過去の価値観を妄信してはいけない。時代的な要因が複雑にあり、過去の時代に理想を見出すのは実はかなり難しい。昔はよかったと思う気持ちは理解しやすいが、実は昔の方が様々な制約に取り囲まれ不自由で非人道的であったりする。過去の美化は人間の自然な心理動向かもしれないが、それが合理的かどうかは考え直す必要がある。

 何が言いたいのかといえば私のような現役終端世代は過去を語るのではなく、現在進行形でものごと語り、経験則を強みとしながら、あくまでも現在に訴えかけるような文法で話しかけ、語り掛けるべきだということなのである。現役である以上はキャリアにかかわらず、現状に対処しなくてはならない。その際に経験の古さに遠慮は不要であるし、現在の状況に対峙することに躊躇してはならない。そういう気持ちを持ち続けたいと思う。

まだ諦めない

 若い世代と比べて、いろいろな局面で機動力が落ちていることは痛感している。瞬発力に関しては残念ながら全く及ばない。でも、負けていないこともあることは確かだ。その一つが力の抜き方が分かっていることである。

 がむしゃらに突破するにはエネルギーが足りないが、適度に力を抜いて、あるいは満点を目指すことなくある程度諦めて物事に向かうことは年の功で獲得したものだ。これは意外に大切で、実戦的な戦略である。その結果、かつてはうまくいかなかったことができるようになったことが幾つもある。

 ただ、陥りやすいのはことが始まる以前の諦め、敵前逃亡である。これは残念ながら意識していなくても起きてしまう。まだ諦めないという強い意志を定期的にもしくは習慣的に確認しなくてはならない。最近の流行り言葉は、確かに大変だ。しかし、まだ諦めない。できるかもしれないという独り言だ。かなり哀調を帯びてはいるが、そういう言葉を繰り返していきたい。

昔の話はしない

若い人たちと話すとき、つい今の世代は恵まれている自分はこんなに苦労したという話をしたくなる。でも、止めておくことにしている。昔は昔の苦労はあったが現在の条件こそ異なれ大変なことには変わりない。比較することに意味はない。

ある時期まで、若い世代の苦労話というのが軽薄に聞こえて仕方なかった。何を甘いことを言っているんだと思った。この感覚は世代ごとに繰り返されるようで、昭和後半の私の経験は、先輩たちにはかなり甘いものに見えたことだろう。戦争の経験のない世代は同じ日本人とは思えないほど価値観が違ったはずだ。

 その先輩たちも、明治の人々からは幸せ者と思われていたはずだ。時代は巡り、世の中が発達しても、それぞれの時代に苦労はあり、悩みがあったはずなのだ。

 だから、現代の若者の感じている苦難を軽く見積もるのは止そう。彼らの生活の背景となっている時代というものは、登場人物を明るくも暗くも照らし出す。自分だけ過去の世界に逃避してあれこれ批判しても新次元は見えてこないだろう。

出来ないこと

 人生をポジティブに過ごすことの大切さは誰にでも理解できるだろう。だから、できれば弱気は晒したくはない。何があっても我関せずが理想である。

 でも、そんなことは出来はしない。我々はいちいち傷つき、いちいち反省する。それが建設的なことのように考え、毎日を切り抜けていく。

 でも、出来ないことは出来ないと潔く認めることも大事なのかもしれない。いい加減なことを重ねていてもやがて化けの皮が剥がれるよりは、できませんでしたと認めて次のことを考えた方がいい気がする。

蒸し暑さの中で

今日は少し気温が下がったというが湿度が高く、体感的にはむしろ暑さを感じた。エルニーニョは終息して昨年のような猛暑にはならないという長期予報も出たが全く安心できない。暑さによる気力の減退、それに伴う間違い、失敗が続出しないか心配になっている。

 失敗したら、それを教訓にやり直せばいい。人にはそういうが自身のこととなると臆病になってしまう。特に最近はちょっとしたことで体調や心理面での調子を崩しやすいから気をつけている。さしあたり、なんとかなると言い聞かせる自己暗示法が奏功している。あとは読書や音楽への現実逃避の手段もよく使う。

 天候は誰にも変えられない。配られたカードで何とか切り抜けるしかない。大負けしなければ勝利したも同然、少しの後退なら必ずまた取り返す。いまはそんな強がりが自分を支えている。