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万博とカラーテレビ

 大阪で関西万博が始まった。大阪での万博といえば1970年の大阪万博が思い出される。私自身はまだ子供であり、親にも経済的な余裕がなかったのだろうか、連れて行ってはもらえなかった。父は仕事で訪れたらしくソ連館の記念メダルを土産として買って帰った(はずだ)。どうもこのあたりのいきさつはよく分からない。

 1970年の時点では多くの家庭がモノクロのテレビを所有していた。カラーは高価であったし、放送そのものも完全にカラー化していなかったので切り替える家庭は少なかったのだろう。ただ、万博の中継を見るためにカラーテレビを買おうという動きはあった。我が家にもそんな話題が出ていたはずだが、おそらくすぐにはできなかったのだろう。ウルトラマンもウルトラセブンもモノクロテレビで見ていたことになる。再放送をカラーテレビで見たため記憶が更新されてしまってその当時の印象は分からない。

 1972年の札幌オリンピックの頃にカラーテレビが我が家にやってきたのではないかと考えらえる。でも、覚えているのはダイヤルを回して色調整をしてみるというもので、今から考えるとかなりぼやけた感じのものだった。しかし、それでもリアルさが増して驚いたことをわずかに覚えている。高度経済成長期に入って、モノの価格があがり、人々の生活が派手になり、公害などの社会問題が取りざたされた。それらをカラーテレビで見ていたことになるが、子どもの自分にはよく分からないことばかりだった。

 今回の万博でもさまざまな新技術が紹介されているらしい。また、これを機に民間に普及するものもあるのかもしれない。かつてのような勢いのない日本にSociety5.0は来るのか。行事の成否はもちろん、今後の生活について考えさせられている。

天気の激変

 このところの天気はかなり大雑把だ先日は雷雨であったが今日は晴れて初夏の陽気、明日は雨で気温も下がるという。寒気と暖気のぶつかり合いが影響しているのだろうか。それと関係するのか分からないが、かなり体調がおかしく昨日は市販の風邪薬を飲んだ。暑さ寒さも彼岸までなどというような昔の言い伝えは現代には通じないようだ。10℃近い日格差、晴雨の繰り返し、気圧の変化など様々なものが私を苦しめる。

 思うに少しずつ気温が変化するのは対応できるが、変化が激しいとどうしようもない。最高、最低気温よりもそこにどのように至るのかで身体へのダメージは変わる気がする。四季という概念が崩れ、とても長い夏と短い秋と少し長い冬、そしてまた春がものすごい速度で過ぎてしまう。最近はそんな感覚がしている。古今和歌集の四季の部立ては明らかに春秋が長い。それがどんどん痩せている。伝統的な季節感はいずれ消滅してしまうのではないか不安である。

 世界情勢が不安要因で満ちている昨今、せめて天災だけは勘弁願いたい。そう思っても異常気象は続くことになりそうだ。克服できることを信じたい。

7勝8敗

高校で学んだことを説明してください。

 はるか昔の話になった高校時代。自由な校風といえば聞こえはよいが、少々緩すぎた生活だった。制服を着る義務はなく自由服だったが、なぜかクラスに何名かは制服を着ていた。

 授業も教員の個性により様々で、受験勉強に特化してしているものも、自分の自慢話を長々と聞かせるものも、話は面白いが試験に出ることは少ないので(次のテストには出ないが結局重要な話が多かった、と後から気づいた)生徒受けがわるいものも、親や都民に感謝せよと何度となく言わせるものも実にさまざまだった。

 一番学んだのは上には上がいるというちょっとした挫折と、それでもなんとか続けていれば幾分かの目標は達成できるということだろうか。自分に向いていないことは敢えて後回しにして、やりたいことに注力する方がいいということも知った。これは勉強のことだけでなく、普段の人間関係や部活動などで経験的に知ったことだ。

 学校という場所は思い切り失望し、たくさんの夢を持つきっかけを与えてくれる。7勝8敗でも負け越しではない。

値上げの春

明日から値上がりする商品がある。アルコール飲料の値上げは痛いが、これは私にとっては自戒にもなるからまだいい。困るのはトイレットペーパーやティッシュなどの生活必需品の値上げだ。生活必需品の値上げは生活を直撃する。チーズなどの乳製品やソーセージなどの加工食品も値上げが決まっている。

資本主義社会では値上げとともに賃上げが連動しなければうまくいかなくなる。それがうまくできていないから経済は停滞する。少子高齢化は確かに大きな不安材料だが、それ以上に金回りをしない仕組みになっていることに問題がある。海外への投資は結構だが、その金が国内に循環しなければ意味がない。富裕層には日本で金を使うことをお勧めする。さもなくば近い将来、多大な損失が出るだろう。

 アメリカが関税をかけることでしか未来を展望できなくなっているのも困ったことだ。資本主義が制度疲労を起こしているというのは間違っていないだろう。この影響もこの後やってくる。国内経済を軽視するこれまでの政策は見直しを迫られている。

自分の目で見ること

 自分が見られる世界は限られている。だから、見渡せる範囲のことを世界と思うのかもしれない。この見渡す範囲は情報機器の発達によって広がったかのように思える。インターネットによる情報の伝達は画面上だけではなく、しばらくすれば五感にわたる様々な感覚をも伝えることが可能になるかもしれない。

 でも、やはりどんなにその技術が発展しても、自分が関係することができる世界はやはり限られている。機器の力を借りて分かったかのようなつもりになれても、それを実感として掴めるのかといえばやはり少し違うのかもしれない。私たちはこのことを忘れがちだ。

 人工知能の発展とともに私たちが直面している世界の捉え方はまた変化していく可能性がある。自分が目の前にあるものを本当に自分の神経とか感性といったもので感受することをやめてしまうのではないかという懸念である。自分の受け取り方は間違っているとか、ほかの受け取り方と比較して劣っているのではないかと考え出すと、もう自分でものを見ることもしなくなる。すると目の前にあるものでも自分では見なくなってしまう。そういうことはもうすでに起きている。

 本当に大切なのは何かを子どもたちにちゃんと考えさせたい。私の課題の一つがそれである。

残念ながら

 このブログを書くために使ってきたスマートフォンが最近不調で困っている。投稿したつもりの記事が結局アップロードされず、記事が渋滞してかなりあとになってようやくそれに気づくといったことがしばしば起きている。年季がきているのだろう。最近のアプリに対応しきれていないことも原因だ。

 ただ、最近の私はこの賞味期限切れのものに対する同情心がある。有効期限が過ぎたからと言って、すぐに廃棄してしまう心性にはどうしても馴染めない。道具は使い続けていくうちに愛着が湧く。古い道具でしか表現しきれない芸術的な瞬間を演じるのは、演じている貴方を見渡してみるのか。こういう選択を敢えてしておきたい。

大学に入る前

 はるか昔のこと、大学合格が決まって入学式までの間は私にとってかなり危険な期間だった。受験勉強しかしていなかった数ヶ月の期間にすっかりと世間知らずとなり、さまざまなものが弱くなった私を標的にしてきた。

 新興宗教の勧誘はさすがに避けることができたが、英会話教室の巧みな勧誘はあと少しで騙されそうになった。大学に入れば受験英語は役に立たない。大切なのは会話力だと力説されるとそうかなと考えてしまうものだ。いまだに英語は苦手だが、会話ができなくても大学では少しも困らなかった。もちろん、同じ教室に英語が堪能な人がいたのは確かだが。

 私の高校の男の同級生の大半は浪人していたから彼らを誘うのも何となく気が引けた。かといって女子の同級生と気軽に遊べるような高校生ではなかったので、結果的に空白のときを送ることになった。

 何をしたのかは実はあまり覚えていない。でも、いまより一日一日が濃い印象だけは残っている。大学に入って暫く経っていろいろな出会いがある。人生に大きな変化が起きたが、その変化を経験するとそれ以前のことが急におぼろげになった気がする。

 卒業というのはそういうものなのだろう。間もなく私も違う意味での学校を卒業することになるが、きっといまの生活の感覚はその後忘れていしまうはずだ。ならばいまの生活のあれこれを味わっておくのも大事なのだろう。

降雪予報

 今日の降雪予報はかなり高いらしい。関東の雪予報は難しい。僅かな差で雨に変わり、そうでなければ積雪になる。

 積雪と言っても数cmに過ぎないのだが、この程度の雪でも東京を麻痺させるには十分なのだ。雪の備えのない街にとって降雪は脅威でしかない。雪国の人は呆れるというが、私のように両方の地域に長く暮らした者にとっては、どちらの言い分も分かってしまう。

 北陸に住んでいたとき、雷鳴とともに降りしきる雪に驚いた。みるみるうちに積雪が増え、すべてを埋めつくすかのように見えた雪を懐かしく思う。そんな経験を持っているのにもかかわらず、関東暮らしが長くなるとすっかり油断している。

 年に数回しかない降雪のときに、臆することなく乗り切れるのか。経験も大事だが、油断せず目の前の状況に対応することが必要だろう。

寒さ慣れ

 寒い日々が続ているうちに身体が順応してきたのかもしれない。寒冷順化というそうだ。かつては少しでも寒いと震えが止まらなかったのに、それほどでもなくなっている気がする。

 もっともこれは今の気温が続いていることが前提であり、さらに寒くなればやはり過去と同じようになるだろうし、逆に暖かい日が数日挟まると順化の恩恵はなくなってしまいそうだ。体感とは相対的なものであり、気温ではなく気温差が感覚に大きな影響を及ぼす。

 気温だけはなく、感覚的なことの大半は変化によって感じ取るもののようだ。演劇や映画の世界では悲劇の前に必ず穏やかな場面を置く、観客はそこからの落差に感動し、時に涙を流す。緊張と緩和の組み合わせが要だというが、これも人の感覚の特性をとらえたものなのだろう。

ソーラー時計に不安な季節

 私の腕時計は太陽電池で動いている。スマートフォンと同期するいわゆるスマートウォッチでもある。ソーラー発電によるスマートウォッチはさほどない。機能は限られているが、バッテリー切れを気にせず使えるのはありがたい。

 ただソーラー腕時計を使うものにとって今は忍耐の季節でもある。日光を十分に当てられず、だんだんと充電量が減ってしまっているのだ。関東に住む私にとって日光は冬でも十分にある。ただ、上着や外套を着ると時計が袖の下に隠れてしまい。時計に光が届かないのである。私の時計は残りの電力が表示されるのだが、見るたびに情けない状態になっている。

 ソーラー電池用の発電ための電灯があるそうだが、本末転倒な機械には躊躇する。でも、上着が取れる季節までは時々袖をまくり上げて光を当てる日々が続きそうだ。