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思ってもみない

「思ってもない」という表現はその後に期待していなかった幸運が続くのが普通だ。ただ、これを不幸の形容に使う例にせつした。誤用といえばそれまでだが、そのくらい想定外のことが起きているということだろう。

ルーティンの気楽さ

 ルーティンに入るとかえって楽だと感じることがある。連休明けで元の時間が戻ると相変わらず忙しく息つく暇もないという感じだが、その方が楽だと感じる自分がいる。よいことか分からないがやるべきことが決まっているということはある意味楽である。

 ただ、やりがいを感じられない仕事を続けると徒労感しか生まれない。やり切れたことの達成感はあるが、それ以上を得るのは難しい。私はかつて自分でやるべきことを決めて、成果を後で問われるという仕事をしていた。その頃の感触が残っているので、今のような毎日やるべきことが与えられ、成果がその都度評価されるという(世の中では当たり前の)やり方に馴染めなかった。

 それも長年繰り返すうちに徐々になれてきてしまった。いちいち次に何をやるかを悩まなくていいのは気楽なのだ。たとえ毎日の業務が多忙であっても。

 そこでまた迷いが始まる。これでいいのだろうか、進む道を人任せにして、明日を迷う作業を忘れても構わないのか。私の心の中では大きな「否」の声が聞こえる。ただ、ならばどうするという問いに関して、私の一部が黙り込んでしまうのだ。

 ルーティンワークの気楽さを抜け出して困惑と試行錯誤の道に入ることを勇気を持たなくてはならない。そういう「から」決意をこれからも繰り返すことになりそうだ。

100均に並ぶ「日本製」

 本体価格が100円のものが並ぶ量販店、いわゆる「100均」でこのところ顕著な変化が起きている。かつてはそのほとんどがMade in Chinaだったのだが、少しずつそれ以外のものが増えつつあるのだ。もちろん「日本製」も増えている。

 人件費の問題でどうしても中国製品は安価になる傾向が長く続いた。だから、安価なものとなると中国製ということになっていたのがこれまでだ。かつては粗悪品が多く、価格をとるか品質をとるかで、割り切りが求められた。最近は中国製品の質も向上し、かつてのような粗悪品は少しずつ姿を消している。というよりより良い品質の中国製品が、劣悪な中国製品に打ち勝っているということだ。日本製品はその意味では眼中にないという扱いを受けてきた。

 日本人の賃金は国際的には異例と言えるほど、上がらずむしろ逓減傾向にあるという。ものに対してカネをつぎ込むことができない国民は、質より安さを選ぶようになってきた。その結果、人件費が安く、技術の吸収力も優れている中国に市場を奪われ続けてきた。いま身につけている衣料のほとんどが中国製であり、家電やそのほかの製品の中に中国製は圧倒的に多い。中国依存が問題視されるとベトナムやインドネシア、バングラディシュなどの新たな生産国が増えてきた。

 そのなかにあって、特に最近「日本製」も少しずつ増えているように感じる。国内生産したものを国内で消費して経済を回すことはある意味理想的ではある。ただ、日本製の経済的勝利とはどうも言えないようだ。他国のコストも少しずつ上がり、対して日本円の価値は相対的に下がってしまったので、安価に生産できるようになったということである。その差が少なくなると、最近の日本人が妄信する日本製は優れているというバイアスが働き、海外製品より売れるようになる。つまり、貿易上の事情により、日本製を復活せざるを得ない現状にあるといえるのではないか。

 100均の日本製品であることの表記はかつては「国産」か小さな文字で「Made in Japan」であったが、最近は目立つ配色で「日本製」とある。日本製品であるというブランド力を利用しようとする戦略であることは明らかだ。書くいう私も「日本製」を選びがちなのだが、生産者への対価として正当なものが支払われているのか少々気になっている。

激しい雨

 明日から連休で仕事が終わらないのに、強制的に退勤させられたあと、外はかなり強い雨が時折り通り過ぎていた。激しい雨は一部で交通機関に影響を及ぼしているようだ。

明日から何をしようか。そんなことを考えさせない雨の中で、そうだ最近読めていいない本でも読むか。短い話でも書いてみるか等といろいろ思いついては、そのまま流していつの間にかうやむやになっている。

 昨年のこの時期もそんなことを考えながら何も出来なかった。特別なことはせずに過ごそうと考えている。

昔の話はしない

若い人たちと話すとき、つい今の世代は恵まれている自分はこんなに苦労したという話をしたくなる。でも、止めておくことにしている。昔は昔の苦労はあったが現在の条件こそ異なれ大変なことには変わりない。比較することに意味はない。

ある時期まで、若い世代の苦労話というのが軽薄に聞こえて仕方なかった。何を甘いことを言っているんだと思った。この感覚は世代ごとに繰り返されるようで、昭和後半の私の経験は、先輩たちにはかなり甘いものに見えたことだろう。戦争の経験のない世代は同じ日本人とは思えないほど価値観が違ったはずだ。

 その先輩たちも、明治の人々からは幸せ者と思われていたはずだ。時代は巡り、世の中が発達しても、それぞれの時代に苦労はあり、悩みがあったはずなのだ。

 だから、現代の若者の感じている苦難を軽く見積もるのは止そう。彼らの生活の背景となっている時代というものは、登場人物を明るくも暗くも照らし出す。自分だけ過去の世界に逃避してあれこれ批判しても新次元は見えてこないだろう。

出来ないこと

 人生をポジティブに過ごすことの大切さは誰にでも理解できるだろう。だから、できれば弱気は晒したくはない。何があっても我関せずが理想である。

 でも、そんなことは出来はしない。我々はいちいち傷つき、いちいち反省する。それが建設的なことのように考え、毎日を切り抜けていく。

 でも、出来ないことは出来ないと潔く認めることも大事なのかもしれない。いい加減なことを重ねていてもやがて化けの皮が剥がれるよりは、できませんでしたと認めて次のことを考えた方がいい気がする。

命名

 最近の命名は男女ともに2音節か3音節らしい。私の世代では女性は3音節、男性は4音節が多数派だった。日本人の名前は短くなっている。

親がつける名前について本人は拒むことが出来ない。いわゆるキラキラネームが人生の行く末に影響を及ぼしたとしても、本人はそれを克服するしかない。名前は所詮記号の一種であり、という一見正論に見える論理を展開してやり過ごすしかない。

でも、名前のもたらす影響は意外に深いのかもしれない。つよしと名付けられれば、心身根性のなにかは分からないが強靭であらねばならないと考えるのだろう。実態はどうであれ、心がけとして、強くありたいという気持ちが内包される。

最近の名前は意味よりも音声の方に興味関心があるようだ。漢字を取り合わせて外来語を表現するのはユニークだが、無理があるものもある。譲治や賢人はそれだけで英語のようだが、舞久や実希を男子の名として使うのは抵抗がある。日本語は外来語に寛容な言語であるから、人命に関してもさまざまな可能性があるのだ。

江戸時代の人の名前を奇妙に感じるように、未来の日本語話者は21世紀の人の名前をクラシックとして感じることになるのだろう。彼らはどんな名前になっているのかと想像すると少し楽しい。

蒸し暑さの中で

今日は少し気温が下がったというが湿度が高く、体感的にはむしろ暑さを感じた。エルニーニョは終息して昨年のような猛暑にはならないという長期予報も出たが全く安心できない。暑さによる気力の減退、それに伴う間違い、失敗が続出しないか心配になっている。

 失敗したら、それを教訓にやり直せばいい。人にはそういうが自身のこととなると臆病になってしまう。特に最近はちょっとしたことで体調や心理面での調子を崩しやすいから気をつけている。さしあたり、なんとかなると言い聞かせる自己暗示法が奏功している。あとは読書や音楽への現実逃避の手段もよく使う。

 天候は誰にも変えられない。配られたカードで何とか切り抜けるしかない。大負けしなければ勝利したも同然、少しの後退なら必ずまた取り返す。いまはそんな強がりが自分を支えている。

公園の意味

 公園と呼ばれる空間は共有地として機能している。有料の場所もあるが、多くは無料でその維持費は自治体の支出、つまりは税金である。この空間の意味は大きい。

 土地が私有制になるとどうしても格差を生み出す。面積もそうだが、その土地の価値がいろいろな側面から決められ、地価となって表現される。土地を所有しているだけで一種のステータスとなり、それが財産として引き継がれる。もちろん相続には税がかかるが、所有が富のもとでとなることは揺るぎない。

 持たざるものも出入を許されるのが公園だ。当然、モラルやルールは守らなくてはならず、勝手に居座ることはできない。ただ、法令を遵守している限りは追放されることはない。このような余裕を残しておくことは都市生活を送る上ではかなり大切だと思う。

 公園の成立には様々な経緯があり、中にはかなり政治的な事情もあるようだ。それでも私有空間に一定の猶予を設けることはとても大切だと思う。

効率化は早く帰ることとは違うようだ

Excelの関数を少しずつ覚えたおかげでできることが広がった。かつては手作業でやっていたことの大半は関数の知識だけでもなんとかなる。プログラムを施せばもっとできることが増えるのだろうが、いまのところ人の作ったもののマイナーチェンジが関の山だ。ただ、これらを使って仕事の時間が減ったかといえば答えは否である。

 私の仕事は対面的なものなので、結局人と付き合う時間は確保しなくてはならない。コンピュータ任せにした仕事で浮いた分を、個人とのコミュニケーションに費やすから、仕事時間はあまり変わらない。対人時間を増やした分だけ仕事のやり甲斐は向上した。単純作業に費やす時間は減らした方がいい。

 働き方改革政策の影響で退勤時間は厳しく制限されるようになった。時間内に終わらせる為に自動化はやはり欠かせない。そして、その分直接対象者と話し合う時間を設けるべきだろう。私の職場の話なのだが、これは我が国の復活のためにも不可欠だと考える。