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松葉菊

 愛する植物の一つに松葉菊がある。多肉植物の体をなすがサボテン類ではないらしい。原産地は南アフリカというから、完全な外来種である。

 園芸種としては定番の品種であり、花壇の脇役としてよく使われる。ただ、生命力は強く、野生化しているものもよく目にする。アスファルトの隙間に咲く例もあるから立派な雑草でもある。

 花の風情が菊に似ているからこの名がついているが、花期は春から夏で菊花とは別物である。小学校の先生がこの花が好きであったことを思い出す。もっともその先生はそれを芝桜と混同していたようだ。生命力の強さは松葉菊の方が数段上である。先生は踏まれてもみんなで助け合って強く生きるということを教えてくれたから、松葉菊に違いない。

 先生の思い違いを揶揄する気持ちは微塵もない。植物の持つ生命力、さらには過度な庇護を受けなくても子孫を残す潜在的な能力の大切さを小学生に分かりやすく伝えた功績に感服するのである。

民主主義存続の必要十分条件

 昨今の国内、国外の国政上のリーダーの振る舞いを見ると、民主主義はかなり危うい橋の上を渡っていると言える。国民の選ぶ代表が劣っているはずがないという前提はすでに誰も信じない。

 当然ながら誰にとっても完璧なリーダーというのはまず存在しない。誰かにとっては理想的でも、他の人たちにとっては邪悪な存在であることもあり得る。そのバランスをとることが民主主義には不可欠なのだ。

 かつての絶対王制ならば、非権力側に発言権はなく盲従するしかなかった。人権の意識を獲得した現在では、多様な考え方の中で人々が共生する。意見の食い違いがあればその都度修正していくことが求められる。そのためには国民の知識、教養、道徳心などが高水準で保たれる必要がある。民主主義にとって教育の充実は必要十分条件なのだ。

 情報技術が爆進して、個々人が接することが可能な情報量は飛躍的に増えた。しかし、それをどう解釈するか、どう組み合わせれば新しい知見が得られるのかについて考える能力は以前と変わらず、むしろ減退している。民主主義が危機に瀕しているのは、考えないで済むいまの生活のせいなのかもしれない。

雨の季節

 これからしばらく雨が降る日が続きそうだ。東京の梅雨入りの平均日は6月上旬だが、もう梅雨入りしているとも言える。昨今の四季は春秋がかなり削られ、夏と冬がかなりを占める。

 雨の季節も悪いことばかりではない。むしろ落ち着いて思考に専念できる環境にもなる。健康管理さえ怠らなければいろいろな可能性がある季節である。

 私は毎日傘を持って歩いている。小型の折りたたみで大雨や風の強い日には対応できないが、普通の雨なら困らない。傘を毎日開く季節になると傘を忘れないか、壊さないか心配の種が増える。

 

梅雨入り間近

今週の天気予報を見ると曇りベースで雨も結構降るようだ。天気アイコンで見る限り梅雨入りしたかのようである。梅雨入りの平均は関東地方では6月上旬であり、まだ早いのかもしれない。

 梅雨を嫌がる人もいるが、いわゆる皐月は農業にとつては大切な時期である。適度な降雨と気温が大地の恵みをもたらす。昨今のように米価が高騰して社会問題にもなっている時には、豊作を祈らざるを得ない。

 人口減と高齢化は農業にとって不利な条件だ。梅雨になると皐月、五月雨と伝統的な生業に思いが至る。

知らないことがあるという認識こそ

 若さというものが何であるのかは人によって定義が異なる。もちろん身体的な問題は最もわかりやすい基だ。しかしこれには個人差がある。歳を取るたびに何かを失っていくというものでもないらしい。それでもやはり、統計的に考えれば加齢は様々な限界を低くしていくのは確かだ。

 精神面においては年齢のわりには老いない人もいる。何かに向かってあきらめず追求する姿は若さを感じさせるものがある。私が注目するのはその方面の問題だ。つまり、経験を積んでもまだやれることはあるのではないか。知らないことがあってそれを見つけることが必要ではないかと思えることなのだと思う。自分の無知を認め、それを克服しようと努力できることは若さのなせる業であるといえる。

 自身のことを述べるとやはり、近年は知ったつもりになってそれ以上を追求しないか、様々な言い訳をして困難に立ち向かわないことが増えていると思う。どうせできない、誰かには敵わないというのが口癖になっていることがある。それは本当に老いたということになるのだろう。

 だから、無理にでも思い直すことにしている。「今日はできなかった。しかし、明日からは分からない。できるかもしれない」と。こういう悪あがきをするのも最近の習慣だ。百均で売っていた「やれたことノート」にいいことばかりを書き連ねる都合のよい自己暗示の策を取っている。傍からみれば滑稽でもいい。まだ自分に向上の余地があると信じて疑わない。それが若さというものなのだろう。年齢が少ないときはそんなことは意識する必要がなかったが、最近はなんでも知っているという錯覚を自主的に打ち消さなくてはならない。それが若さを保つ秘訣ということになる。

冷房病

 この時期に私には試練がある。職場の冷房が稼働し始めると必ず調子を崩すのである。大部屋を一括で制御するシステムは、座席によって冷気の吹き出し口に近いことがあるが、今年の席はまさに寒冷地であり、まともにいられない。

共有スペースに移動して仕事をすることにしているが、何かと不便である。仕事をサボっているのではないことを主張しなくてはならない。もっとも最近は仕事量の方が多すぎてそんな余裕が全くない。サボりの非難よりは仕事ができないことへの哀れみの方がまさっている。

暑過ぎても寒過ぎてもうまくいかない。人は危うい狭間で生きている。

反実仮想の思考法

最近よく聞く言葉に「世界線」がある。文脈上は別世界の意味があるパラレルワールドのようなものがあることを想定し、もし今いる世界とは別の世界に生きていたとしたらという考え方らしい。実際には起こり得ないが仮に想定してみるという思考法である。

The another world

性質は全く異なるが伝統的な他界観である来世と少し似た発想だ。来世が時間的には縦に繋がるのに対し、パラレルワールドは横にある。その違いはあるのだが、現世との繋がりの中で異世界の存在を想定するのは同じことだ。

世界線を移動することができない以上、異世界の存在はなんらかの救いとなるわけではないように思える。今味わっている苦難は別世界では大きな恩恵になっているのかもしれない。でもその別世界には移動できない。

世界線という考え方を一種のメタ認知と考えることもできる。現状を見渡し、敢えてそれに捉われずに自由に発想する。そこから得られる慰めと現実の受け入れ、そして場合によっては現状打破の端緒の発見がこの考えの魅力だ。そうならば別の世界線を夢想することには意味があることになる。

目的は何だったのか

 日々の暮らしに追われているうちに初心を忘れてしまうのは世の常なのかもしれない。私の場合、研究者になろうという考えがあったわけではなかったのだが、好きな学問を続けられるならばと思ってその道に入り、周囲の人々の影響で研究職もどきに就いた。それが、途中でダメになって今の職に移ったのだが、せめて文学の楽しさを若い世代に伝えたいという思いで始めたはずだ。それがどうも今は数字で測れる成績の向上ばかりを気にして初心を忘れつつある。

 残り僅かになった教員生活を進学実績を向上させることに貢献することで終わることはそれなりに意味がある。でも、もう一人の自分が言う。それでいいのかと。そのために教員になったのかと。

 私は二つの目的を同時にかなえることに挑まなくてはならない。数字で測れる成績向上と、測れない教養というものの伝授を同時に達成することだ。教養の方は私自身が十分にあるのではないから、教えるのは学ぶことの楽しさであり、特に文学を学ぶことの意味についてである。単に試験科目としての国語で高い偏差値を取るのだけが目的なのではない。自分とは異なる誰かの考え方を学ぶことの意味を知ること、それは一つのベクトル上に並ぶのではなく、人それぞれの考え方があり、それぞれに意味があるのだということ。そのうえで自分が生きるための選択はせねばならず、先人の意見に学び、模倣しながらも、最終的には自分なりの生き方を創造しなくてはならないということを伝えなくてはならないのだ。

 日々の生活に追われ、自分の力の衰退に気を取られ嘆いているうちに、本当にやりたかったことを忘れつつある。まだ本当の衰微に到達する前にやるべきことをやっておかねばならない。そのためには若者がやるような無鉄砲な挑戦をこの歳でも試みる必要があるのだ。自分がここまでの人生を歩んできた最初の目的は何だったのか、再考するときになっている。

身体を鍛えておけ

 最近感じるのは脳も体力が必要ということだ。とても矛盾した言い方だが、私たちは体と頭を知らないうちに別のものとして扱う傾向にある。首から下の人間と揶揄する人たちは、本当の知識人ではない。脳もまた体の一部である。それどころか最も身体性の強い機関であるのだ。

 だから、体力がないと能力(脳力)も落ちる。これは最近私が日々痛感することだ。認知症という身体現象以前に、考えることそれ自体が体力のたまものであることをある程度歳を重ねると痛感することになる。

 私が若い世代に言いたいことは勉強はもちろん大切だが、身体も鍛えなくては脳の力を発揮できないということだ。その意味で現代人は大丈夫なのか少々心配なのである。今はいいが将来体力が衰えたとき、できなくなるのは階段を上ることだけではない。考えることそれ自体が衰退すると人生のすべての質が下がってしまうのである。

 スポーツ選手が引退を意識するのは視力の衰えによるものという意見がある。視力の老化はトレーニングでは防ぎにくく、経験による補完が効かなくなるとトップレベルでは戦えないのだという。アスリートの限界は視力にあるが、一般人は脳の力の維持によるものが大きい。それを維持するためにも若いころの身体的な鍛錬が必要だ。そして日々の活動でも身体に関心を持って適度な運動を続けることだろう。唯脳論者ではないが、やはり人生の質を守るためには脳の保全が欠かせない。そのためにももっと身体を鍛えておけ、と後進には伝えたい。

カニかま

 擬似食品としては高い市民権を得ているカニかまは安くて美味しい庶民の味方である。主原料はスケソウダラなどの白身魚でそれにカニのエキスで味付けしている。

 調べてみると海外でもかなり消費されているらしく、フランスはサンドイッチなどの具材として普通に使われているそうだ。アメリカ発の巻き鮨、カリフォルニアロールにも欠かせない。中国やタイなどのアジア諸国でも使用されている。

 そういえばソイミートなどもその類であり、目的はさまざまだが代替食品は今後増えていきそうだ。気になるのは加工食品が抱える安全性への懸念である。これを克服できれば、食糧問題の解決の助けにはなりそうだ。

 日本にはがんもどきや湯葉などの精進料理の伝統がある。多くは昔、中国から輸入された製法が元になっていると言われる。それが日本でアレンジされるとさまざまな可能性が生まれる。魚肉すら使わないカニかまもあるというから驚きだ。