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氷饅頭

 亡き父がかき氷のことを氷饅頭と呼んでいた。昭和のある時期、家庭でかき氷を作れる器具が流行し、我が家にもたこ焼き用の鉄板とともによく使われた時期があった。

 かき氷を氷饅頭と呼ぶのは戦前に少年時代を送った人の、主に西日本での共通体験なのだそうだ。削った氷を何と新聞紙に乗せて売っていたというから、おおらかな時代だ、そう言えば福岡市に住んでいた頃、街のたこ焼きやも新聞紙にくるんで渡してくれた。三個で三十円という破格な値段であったが、今考えると新聞紙にそのまま触れた食品を何の抵抗もなく食べていたことになる。高度経済成長が終わった頃の話だ。

 氷饅頭の話に戻る。父はその話になるととても嬉しそうだった。かき氷を目にするたびにあれは氷饅頭だと言った。変な話というと、微笑んでいた。こんなことが何度もあった。恐らく子どもの頃の思い出と結びついているのだろう。

 最近は喫茶店でかき氷を見ても食指は動かない。冷たいだけで何がいいのかと思ってしまう。氷に耐えられる身体ではなくなったのかもしれない。

半夏生

 今日は半夏生である。いわゆる雑節の一つで、農事としては田植えの終わりを示す日であるそうだ。






 東京のスーパーではこの日蛸(たこ)の売り出しがある。もともと関西の風習であった半夏生に蛸を食べるという習慣が、商機に利用されているようだ。稲が蛸の足のように根を張ってほしいという願いは、農家としては切実な願いであったはずだ。今年のように米不足で家政が圧迫されるときはなおさらである。蛸を食うくらいで悩みが解消されるのなら実行すべきである。

 今年の場合、懸念されるのは短い梅雨が齎さなかった水運と、灼熱の日々が食糧にもたらす弊害だ。節水なり何なりの環境配慮は不可欠になるだろう。半夏生という言葉が空しく聞こえる昨今の陽気だが、夏はこれからと覚悟を決めるにはいい日である。

六月尽

 半年が終わったことになる。毎日いろいろなことが起きて一喜一憂しているのに、それを一括りに纏める力をいつの間にか儲けてしまった。

かつて半年の消化は、節目と考えられ、水無月の祓えなどが行われた。今は単なる通過点で、今年のように猛暑が既に始まっているとなるとますます存在感がない。

自然と乖離する生活を続けるうちに何か大切なことを忘れそうである。

戦争経験のない世代にとって

私たちの脳は都合のいいものを優先的に記憶し、そうでないものは無視する機能が備わっているようだ。それは進化の過程で身につけたものであり、これがあるためにどんな悲劇からも回復し、次の段階へ進むことができたのだろう。

もし戦争の悲惨さを実感し、それが次の世代にも伝えたいものと考えられるのならば、かなりの時間を割いてそれを実行しなくてはならない。私たちにはそこまでの覚悟はない。ただ、自分の要求を主張し、それが損なわれると怒るのみだ。

戦争経験のない世代にとって非戦の主張は理念的であり、実感が伴わない。一種の自己主張でしかない。恐らくこの制約が人類の戦争史を不断のものにしてきたのだろう。

結果的に実感の伴わない反戦主義が空虚なものと捉えられ、時の集団ヒステリーに押し切られる。私たちはその時、踏み応えられるのか。平和の鍵はそこにある。

梅雨よ終わるな

 まだ6月が終わっていないのに梅雨明けした地域がある。降水量が著しく少なく、今後の水需要に耐えられるのか心配だ。

 九州地方や四国などの一部で梅雨明けした可能性が高いことが発表された。異例の早さである。関東地方の週間予報でも雨の降る日はありそうだが、梅雨と呼ぶには傘マークが並ばない。恐らく暑い日中と突然の豪雨という日々になるのだろう。気候変動と言われれば打ち消すことは難しい。

 恐らく若い世代の人たちに梅雨の情緒を理解してもらうことは難しい。霖雨が何をもたらしてきたのか。もうデータ上の出来事になっているのかもしれない。

 雨の季節は憂鬱なものだったはずだ。それがこうなると惜しく感じられてしまう。

梅雨はどこに

連日真夏日で一体梅雨はどこに行ったのかと思う。それほど柔ではないと思っていた我が老体もあちこちに不具合が出ている。それをいかに他人に悟られず、平気を装うか。この点の技術も蓄えている。

梅雨寒なる季語を懐かしく思うこの頃だ。予報を見るとしばらくは高音傾向である。来週は雨が降るようだが、気温が下がらなければ不快指数が上がるだけだ。

とにかくいまは耐えること。暑熱順化にかけるしかない。

料理は

 料理は芸術という人もいれば科学という人もいる。確かにその両方の側面を持つものだ。料理の作成過程を見るとそう思う。

 料理において材料や調味料の組み合わせはある程度決まっている。それが文化ごとに型のようなものがあるので、郷土料理のようなものが発生する。私の身近では醤油や味醂、さらには昆布や鰹節でとった出汁を使う味付けが定着しているので、そういう味覚を美味しさの基準にしがちだ。この意味では料理は文化の具現化したものだ。

 とはいえ作る人により、味付けが微妙に異なり、いわゆる母の味なるものがある。店ごとに味が微妙に違うというのも楽しみの一つだ。その意味では料理は個人だとも言える。

 私たちは簡易な既製品的な味付けに慣れてしまい、これらの料理の本質を忘れつつある。一からすべてを作ってきた時代の苦労を取り戻せとはいえないが、せめてどのように作られているのか、そこまでにどのような物語があったのかについては関心を持つべきではないか。

濡れた傘の持ち方

 雨が降ると傘のことが気にかかる。電車に乗って移動することが多い私にとって濡れた傘をどうするかは大きな問題だ。満員電車に乗ることが多いので一層困っている。

 傘は持ち方によっては他人を濡らしたり、先が当たってけがをさせるおそれがある。だから、私は折り畳みを利用するが、これだと今度はそれをどのように持つのかが問題になる。いまは傘についている袋を濡れたままでも無理やり入れてしまって、傘を小さく収納している。それでも雫は気になってしまう。

 おそらくすでにあると思うが、その袋に入れると速乾する素材のものがあればいいと考える。その都度、水を切ればいいと思われるかもしれないが、都会に住んでいるとそれもなかなか難しい。傘の持ち方の工夫はこれからも考えていきたい。

納豆巻

 私がコンビニで購入する品目の上位に納豆巻きがある。納豆自体がかなり癖のある食品で日本人でも苦手という人が多いが私にとっては好物である。発酵食品は健康によいとかいう能書きの前に純粋に好きなのだから、理屈はいらない。

 ちなみにコンビニの納豆巻きの包装は実に巧妙にできている。海苔が飯に接触せず、フイルム一枚で断絶されている。いよいよ食す時となって、それを触れ合わせる。海苔の乾燥した食感と、飯のしっとりとした感覚がここで初めて融合する。実に巧い組み合わせである。

 納豆の味を見出した先祖に感謝、また絶妙な納豆巻きの包装の発明者にも敬意を表する。

クールビズ開始宣言

 今日はかなり気温が上がった。明日も高温傾向だという。職場ではクールビズ解禁となったが、私のような年齢の者がクールに着こなすのは難しく、結果的に暑苦しく過ごすことになる。

 今年は思い切って、クールではないが上着を着ない生活を明日から始めようと思う。思い切り次第だ。他人からの評価は元から期待できないので、自己満足もしくは自己承認の問題である。

 やるべき仕事をこなすことの方が、見た目の問題より優先する。見た目はクールではないが、誰にも知られずクールに仕事をこなす。そんな自分を目指すことにする。