カテゴリー: エッセイ

文法という柔らかいもの

 学校で習う文法は金科玉条のようなものと思っていた。学生の頃はそれを覚えることが何よりも大切なことと思い、教員となって教える側に立つと最も頼り甲斐のある物差しと考えるようになった。文章読解と文法の問題を比べると後者の方が何百倍も容易い。そう思っていた。

 ただ、学校文法には様々な疑問点があった。可能動詞の「走れる」は走るとられるが連続した「走られる」とどう違うのか、「本を読まれる」と「本を読める」との違いは何か。可能とか使役とか命名された文法を考えると曖昧さが判断を困難なものにする。文法用語を使うほど分からなくなる気がする。

 こういう感覚的な違和感はいくらでもある。これはとりも直さず文法が実態と、あっていないことを表すのではないか。国語を少し真面目に勉強した者であれば誰もが気づくことなのだが金科玉条の前に誰もが尻込みしてしまう。

 文法というものはどうも自然科学が目指す普遍性とは少し異質なものらしい。もっと柔らかく、可塑的なものらしい。そう考えてこそ見えてくるものがある。

短期決戦という戦略

 短期決戦が今の自分の戦略だ。長期的な戦略を立てても実践できる保証はない。ならば短く刻むしかないのだ。

 衰退していく脳の機能を補うのは情報技術が容易に達成してくれる。人間から見れば無限の記憶力である。これを使えば少々の劣化はカバーできる。大切なのはそれを活かすためのひらめきなのだが、これだけは自分の脳の活力に期待するしかない。

 短期決戦でもやるべきことをやり、積み重ねることで大業は成し遂げられるかもしれない。私には私の戦い方がある。それを信じてやるしかない。

見えない違い

 恐らく目に見える違いはごく一部のことなのだろう。表面的な違いに圧倒されることは多いが、その内面はさほど違わなかったりする。他を威圧しようとするものは、その僅かな違いを誇張して見せるのであろう。

 だから、本当の差異を見抜くことは容易ではない。見た目に踊らされることなく、本質を見なければならないのである。  

取引というけれど

 アメリカ大統領の言動のために取引ということばが最近の流行言葉になっている。取引というと聞こえがいいが昨今の状況を見ると、対等な立場にある相手との取引は少ない。有利な立場を築いた上で、相手に無理難題を吹っ掛けるのが取引なようだ。しかし、このような意味は本来の取引の意味とは異なっているような気がする。

 一見公平に見えて実は全くの不公平という話はいくらでもある。特に優位な立場の者が仕掛ける似非公平主義は巧妙で露見しにくい。さらに、この不平等に異議を唱えると、まるで我儘を通しているかのように攻撃してくるのだから厄介だ。ルールという不公平を巧妙に作り出し、自身の利益を保とうとする。これは残念ながら国際的な常識のようなものになっている。

 おかしいものはおかしいと言える態度は保ちたい。しかし、それも今は難しい。交通事故を起こしたら、自分が悪くても決してそれを認めてはいけないというのはよく聞く。それと同じだ。ただ、これは日本人の通念とは乖離している。

 高度成長期には勝つことを最優先課題とし、相手を傷つけることも厭わないのが美徳とされた。しかし、いま弱者の悲哀を知ってしまった以上、取引に限りない疑問点を持ってしまう。

春分

 春分ということはこれからは昼の長さが長くなっていくことになる。ずいぶん日脚が伸びたことを実感している。桜も刻々と開花に近づき、早咲きの種類はすでに咲きそろいつつある。日照時間は体調にも様々な要因をもたらすのではないか。一般的には気持ちが明るくなると考えられているが、それだけでもなさそうだ。見えなかったものが見えてくるのは別の刺激をももたらす。

 春に節目を感じるのは私たちの文化的な特質だ。どこに切れ目を入れてもいいはずだが、年度が4月始まりという意識はかなり根強い。その予告編ともいうべきものが春分なのだ。

三月の別れ

 3月はいろいろな別れのある月だ。年度が変わるのに合わせて、離職する人がいる。かつてより流動的になった職場では必ず複数の人が別れを告げる。本人のレベルアップのためなので、祝福すべきなのだが仲間との離別は残念でならない。

 ただ、変化があるからこそ成長がある。同じことを繰り返すのはやりやすく、通常は効率的である。ただそれでは現状以上の結果は生まれない。その中には人事の異動も必要なのだろう。

 私は大きな転職を一度経験しただけでいまに至っている。そのときに失ったものも得たものもたくさんあった。人生においてそれが損失であったとは思わない。前職を続けられなかった無念は大きいが、その後に行ったことにも意義は大いにあった。

 三月の別れにいろいろなことを思い出す。懐かしさ、後悔、自己評価などが次々に想起される。

憎しみの連鎖

 停戦中のガザ地区でイスラエル軍の空爆が始まったという。悲しい憎しみの連鎖はとどまることを知らず、また新たな憎悪を生み出している。アラブの歴史をかじっても、理解することはかなり難しい。複数の民族、宗教が錯綜するこの地域の特性を理解するのは容易ではない。

 中東の複雑な民族感情を解決するのはどうすればいいのか。これまで欧米の列強が口を挟む度にかえって悪影響を及ぼしてきた。むしろ悪の根源と言っても良い過言ではない。それは結局、自国の利益のために行動してきたからだ。いまトランプ政権のアメリカが行っていることも同様である。停戦が目的なのか、アメリカの利益を得るための取り引きなのか、世界中の人が真意を見透かしている。

 中東の歴史について私たちはもっと関心を持っていい。この困難な問題を考えることができれば、さまざまな国際問題を理解する糸口が見えるはずだ。逆に欧米諸国のように自国の利益ために利用することしか考えなければ、困難な状況を一層高い難度にしてしまうことになる。

 中東戦争はいつまでも終わらない。欧米の周辺地域でそれが続けているという事実を見つめ直さなくてはなるまい。隣人の苦しみを知るためにはまず隣人がどういう人なのかを知らなくてはならない。

大学に入る前

 はるか昔のこと、大学合格が決まって入学式までの間は私にとってかなり危険な期間だった。受験勉強しかしていなかった数ヶ月の期間にすっかりと世間知らずとなり、さまざまなものが弱くなった私を標的にしてきた。

 新興宗教の勧誘はさすがに避けることができたが、英会話教室の巧みな勧誘はあと少しで騙されそうになった。大学に入れば受験英語は役に立たない。大切なのは会話力だと力説されるとそうかなと考えてしまうものだ。いまだに英語は苦手だが、会話ができなくても大学では少しも困らなかった。もちろん、同じ教室に英語が堪能な人がいたのは確かだが。

 私の高校の男の同級生の大半は浪人していたから彼らを誘うのも何となく気が引けた。かといって女子の同級生と気軽に遊べるような高校生ではなかったので、結果的に空白のときを送ることになった。

 何をしたのかは実はあまり覚えていない。でも、いまより一日一日が濃い印象だけは残っている。大学に入って暫く経っていろいろな出会いがある。人生に大きな変化が起きたが、その変化を経験するとそれ以前のことが急におぼろげになった気がする。

 卒業というのはそういうものなのだろう。間もなく私も違う意味での学校を卒業することになるが、きっといまの生活の感覚はその後忘れていしまうはずだ。ならばいまの生活のあれこれを味わっておくのも大事なのだろう。

読み上げアプリの間違い

 動画サイトなどでしばしば読み上げアプリを使う例がみられる。その中でかなりの確率で読み間違いがあるのは残念だ。文字入力をするだけで読みの検証を怠っているのだろうが、もしかしたら発信者自身が読み方を知らないのかもしれないと疑っているのだ。

 入力された文章を音読する機能はほとんどのコンピューターで実行可能だ。OSに備わっているものが多い。ただ、それは意味とは無関係に文字を音声化しているので、文脈に応じた読み分けはできない。「いきもの」も「せいぶつ」も「生物」と表記できるが、明らかに使用の場面は異なる。表音と表意のハイブリッドである熟語は意味が分からないと読みが決まらない。

 現段階の読み上げアプリにはその判断ができないらしい。ならばそれを作った人間が読み分けを指示するしかない。それができていないのかもしれないのだ。現在の情報環境では文字を自ら書いたり読んだりする機会が減っている。読み間違いは他者とのコミュニケーションを通じて訂正される。その機会が失われると修正ができないのだ。

 憎悪は「ぞうお」であり、険悪は「けんあく」だ。この使い訳ができなくなっている。もっとも、輸入は本来「ゆにゅう」ではなく「しゅにゅう」だ。詩歌も本当は「しか」だったのが「しいか」と読まなければ間違っているといわれてしまう。傑作なのは捏造が「でつぞう」なのに「ねつぞう」だとされていることで、これこそ捏造そのものだ。読みは不安定なものなのだが、それでも最近の読み上げアプリの読み間違えはひどく、若い世代の国語力をさらに低下させてしまっている気がする。

短期記憶

 短期記憶は読書の際にも大切だ。筋を追って読んでいく際に、ワーキングメモリーはフル活用される。歳をとるとそれが衰えている気がして残念だ。こればかりは諦めずに食い下がるしかない。メモを取りながら読むことが多くなったのはそのためなのかも知れない。