今日の予想最高気温は34℃という。いわゆる酷暑まであと少ししかない。子どもの頃、30℃を越える日はそうそうなかったと記憶している。32℃ともなるとこの世の終わりではないかと何となく考えていた。今となっては懐かしい思い出だ。
最近は酷暑日なる範疇ができ、それも定着してきた。6月にしてこの気温なのだから、この先が思いやられる。
日々の思いを言葉にして
カテゴリー: エッセイ
料理は芸術という人もいれば科学という人もいる。確かにその両方の側面を持つものだ。料理の作成過程を見るとそう思う。
料理において材料や調味料の組み合わせはある程度決まっている。それが文化ごとに型のようなものがあるので、郷土料理のようなものが発生する。私の身近では醤油や味醂、さらには昆布や鰹節でとった出汁を使う味付けが定着しているので、そういう味覚を美味しさの基準にしがちだ。この意味では料理は文化の具現化したものだ。
とはいえ作る人により、味付けが微妙に異なり、いわゆる母の味なるものがある。店ごとに味が微妙に違うというのも楽しみの一つだ。その意味では料理は個人だとも言える。
私たちは簡易な既製品的な味付けに慣れてしまい、これらの料理の本質を忘れつつある。一からすべてを作ってきた時代の苦労を取り戻せとはいえないが、せめてどのように作られているのか、そこまでにどのような物語があったのかについては関心を持つべきではないか。
6月も半分が終わった。やるべきことが終わらないまま、過ごしてしまったことになる。どうも来週はかなり暑い日々になるようだ。煮え切らないというより、湿り切らない梅雨が続くことになる。
なんとかしなくてはならないと思うほど、何もつかめなくなると感じる。できなくて当たり前と割り切るようにしたい。他人に迷惑をかけない限り、オウンペースで切り抜けたい。
雨が降ると傘のことが気にかかる。電車に乗って移動することが多い私にとって濡れた傘をどうするかは大きな問題だ。満員電車に乗ることが多いので一層困っている。
傘は持ち方によっては他人を濡らしたり、先が当たってけがをさせるおそれがある。だから、私は折り畳みを利用するが、これだと今度はそれをどのように持つのかが問題になる。いまは傘についている袋を濡れたままでも無理やり入れてしまって、傘を小さく収納している。それでも雫は気になってしまう。
おそらくすでにあると思うが、その袋に入れると速乾する素材のものがあればいいと考える。その都度、水を切ればいいと思われるかもしれないが、都会に住んでいるとそれもなかなか難しい。傘の持ち方の工夫はこれからも考えていきたい。
漢文の授業で「戦国策」にある「虎の威を借る」という件を扱う。虎に捕えられ絶対絶命の狐が、天命によって百獣の王に任ぜられたものと偽ることで危機を逃れるというあの話である。
弱い者が機知によって強者に勝つという話のように思うが原文に当たると話の目的が異なることが分かる。隣国から送り込まれたスパイのような者がこの話を語るのだが、その中では虎は王の比喩であり、狐は実力者である重臣を例えている。そして、重臣が王の権威を蔑ろにして、自らを王の力を持つものと僭称しているというのだ。王と臣下の信頼関係を貶めるための話ということになる。内紛を狙った工作の話は他にもあるから、その一つであることになる。
狐はあくまでも狡猾な立回りをしたまでで、機知を賞賛する気分はなかった。絶対的な王制の時代に王臣の関係を覆すことが推奨されることはないだろう。現代人が狐を賢い者と捉えるのは、既成権力にも知恵を使えば立ち向かえると考えるからだ。反面、権威に対する敬意を失っているとも言える。
現代人が社会で行っているのは狐の知恵なのだろうか。
学生の頃、小説のようなものを書いた。いま考えても愚かな内容だ。日常にあるきっかけで変化が起きる。それまで出来なかったことが急にできるようになり、それゆえに世界観が激変するという内容だ。
ただ、自分だけ変わっても結局何もできない。その無力さに気づくと持っていた能力が失われてしまい、虚しさに苛まれるといった筋である。当時よく読んだ小説の二番煎じだ。味付けを当時の生活に引きつけて書いたので、それなりにいいとは思ったが、もう原稿はどこかに行ってしまった。
同じような内容を今書こうとしたら無駄な注釈をたくさん入れてより理屈っぽいものしかできないだろう。最近、感じるのは妄想ができないことだ。創作にとって大事な一歩目が踏み出せない。
だから、このブログのような短いエッセイしか書けていない。それでも書けるだけまだましと自分を励ましている。突飛推しもないことを書くのはしばしば創作の代替行為である。嘘は書いていないつもりだが、事実でもない。妄想したいができない自分の苦しみの跡なのだ。