カテゴリー: エッセイ

第2球場が消えている

 渋谷に住んでいた頃、近くの神宮外苑にはよくでかけた。中高生の頃は自転車で周回道路を走ったり、芝生の広場で野球をしている人たちを眺めたりしていた。当時は全く人気がなかったスワローズの神宮球場の試合を新聞社の景品でもらったチケットで観に行くようになって少し付き合いが深まった。学生になって野球部の試合も観戦するようになった。当時から気になっていたのが第2球場の存在だった。

 神宮球場に隣接する第2球場はおそらく練習用に作られたのだろうが、私がこの地に通っていた頃にはすでにゴルフ練習場となっており、不思議な存在だった。時々突然大学野球が行われたりしていた。ただ、その時点で野球以外の使われた方が優先されていたようで、神宮球場で大学野球とプロ野球が同日開催のとき、スワローズの選手は近接する芝生のグラウンドで肩慣らしをしていた。当時の主力打者の広沢選手は球場から明治大学の得点を意味する応援歌が流れるたびに喜んでいたのを思い出す。

 第2球場に入ったことはおそらく2度ある。一つは高校野球の大会で、もう一つは東都大学野球の試合だったと思う。どちらも観客は少なく閑散としていたが試合はかなりレベルの高いものだったと記憶している。ゴルファーが立つ場所が設置された特殊なスタンドが印象的だった。

 この第2球場が現在解体されている。再開発によりラグビー場が建設されるらしい。今の秩父宮ラグビー場は解体されることになっている。神宮外苑の再開発に関してはさまざまな意見があり、特に植栽の変更がもたらす環境問題が注目されている。都心のなかにある緑地であり、戦時には学徒出陣の聖地となったこともあるらしい。自然の保全と、歴史的な記憶の保護は重要な問題だ。第2球場という存在の意味が分かりにくかった施設も実は意味あるものだったはずだ。結局この地を離れることになったため、縁が失くなってしまったが、取り壊されたと聞くと残念でならない。

暮れやすく

 つるべ落としというまでではないが、日没の時間がだんだん早くなっていくことを実感する。仕事に追われて気がつくと窓の外が暗い。そういう季節が戻ってきた。

 暗い方がいいのかもしれない。エンドレスに仕事を続けてしまうことが少しだけ避けられるかもしれないから。あまり抑止力は強くはないが。

雨の朝

 今朝はまとまった雨になっている。そのせいもあって気温は低く久しぶりに普通の朝を迎えた気がしている。

 このところの台風の連続発生は日本の南海上の海水温が高くなっていることと関係があるらしい。気象学的にはかなり高めだと聞く。過去には9月に大きな台風が上陸して被害をもたらしたことが多い。これからどのような天災が訪れるのか危惧される。

 露出する空間についてはシンプルにまた防災の工夫を施すことが必要だ。植木鉢が飛ばない工夫くらいしか私にはできないが。

ストライキはこれから増える

 そごう・西武の売却をめぐりストライキが行われた。労働者側の主張の手段として海外ではよく行われているが日本ではほとんど実施されてこなかった。これからストライキは増えていくのだろうか。

 子どもの頃、鉄道会社のストライキがしばしば起きていた。大抵は時限型だったように思う。ただある年はそれがかなり長時間に及んだようだ。普段は入ることができないレールの上で遊んでいた知らないお兄さんたちの姿を覚えている。仲間に入りたかったが勇気がなかった。

 ストライキすることで経営者の考えを変えることはできるのか。労働者の本気を示すことで何らかの効果はあるのだろう。労働を放棄することで与える損失や社会的信用を経営者がどれだけ重視するのかによるのかもしれない。

癖をつける

 野球を始めた頃、グローブに自分の癖をつけることの大切さ説くコーチがいた。子どもにとってはこわいおじさんなので、言われることは絶対だった。確かに使い込むほどにエラーが減った気がするが、それがグローブのせいかどうかの証明はできない。

 どんなことでも自分なりの癖をつけることは効率化のためには必要だ。癖を習慣と置き換えれば、ルーチンワークのようなものかもしれない。大谷翔平選手も打席に入る前や、マウンドに上がる前の動作がある程度決まっている。同じ目的の動作をするときの行動ははたから見ると不思議なほど形式化しており、まるで儀式のようだ。

 やり方が変更され、なおかつそれを繰り返さなくてはならなくなったとき、つまり新しいルーチンワークが生まれたとき、この儀式を早く組み立てることが必要だ。これがたやすくない。はじめのうちは言葉に出して定着させよう。

 新入りの鉄道車掌が声を出し、指差しで安全点検をするのを見ると微笑ましくも頼もしくも思う。まずはあの方法を模倣しよう。

経験という財産

 私たちが何かを考えたり、行動したりするとき、その裏にこれまで経験した事柄が必ず裏打ちされている。経験の種類が多ければそれが豊かなものになるし、なければぎこちないものになる。私たちは色々な意味で経験を蓄積するべきなのだ。

 経験がなくても知識は増えていく。見たことがないものでも見たつもりになれるし、いったことがない場所についても語ることは可能だ。それらを組み合わせればかなり現実的なものになるし、他に応用もできる。現代人の知識というものの大半はこうした経験に基づかないか、その補強が弱いものだ。これができるからこそ、未知の領域を探求できる。

 でも、やはり根本的な経験のない知識は危ういと思う。平和について語るとき戦争を経験していない私の世代の考えることはやはりどこか薄っぺらい。死を語るときはもっとそうだ。ただ、戦争は経験してはならないし、死は経験すらできない。でも、他人の死について経験することはできる。その経験の積み重ねで自分の死を考えることができるのだ。その意味でも経験を積むことは不可欠だ。

 なんでも検索すれば答えが出たり、検索すら放棄して生成型AIにプロンプトを投げかければそれなりの答えが得られる時代に、やはり経験は欠かせない。何が本当で何が間違っているのか。正解であっても最適解であるのかを判断するのは自分の経験から得られるものしかない。

 ならば、教育の世界では何を求めるべきなのか。正解を採点するだけではない。それに至る思考の段階で、どれだけ経験が利用されたのかを確認し、足りないときはそれを補強する機会を提供するべきなのではないだろうか。

秋の気配

 いまだ酷暑が続いているが、さすがに朝晩は涼しさを感じる。絶対的な気温はまだ高いがが、暑さに慣れた身には快適さまで覚えるほどだ。

 8月の最後の日の朝は無数の虫の音で彩られている。種類が異なるコオロギごそれぞれのフレーズをリフレインしているのだ。音の立体感が風景の広さを感じさせる。

 騒がしい蝉の鳴き声に変わって草の中から響く虫の音に変わっていることも季節の移ろいを感じさせるものである。

地産地消の再構築を

 福島第一原発の処理水の海洋放出をめぐって中国が日本の水産物の全面禁輸に乗り出したことがニュースになっている。日本側としては放出した処理水の放射性物質が極めて希薄なものであり、健康への懸念がないということを繰り返し説明するしかあるまい。こうした高度な科学的知見に関しては一般人にとってはブラックボックスになっている。海外の人にはもちろんだが、まず日本人に事実説明を行うべきだろう。

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 中国の対日環境については政府の意向が大きくかかわっている。おそらく核汚染が世界的な大問題であるということを繰り返し報じているに違いない。為政者がそのようなことをするのは国内の政策が行き詰っているとき、国民の関心を他にそらすための常套手段である。一般人としては言われたことを信じるほかはない。科学的な情報に関するリテラシーがなければいわれるがままである。それは程度の差こそあれ日本も変わらない。中国の場合はとにかく格差が激しいため、世界的な科学者もいれば何も知らない庶民も多い。それが日本の何倍もいる。情報統制がどれほどなされているのかは分からないが、とにかく説明を試みるほかあるまい。

海産物の中国への輸出が消滅することは大きな痛手になるが、実は日本にとっては大きなチャンスでもある。この際、日本国内で消費できる販路を確立し地産地消を実現しておく必要がある。日本人がまず海産物を消費できるようにすれば、世界的にも食の安全を保障できるし、何よりも食料や肥料などの生産サイクルを堅固なものにできるのである。今回の国際問題はその契機として活用するべきだろう。

引き出すために

 私の仕事の本質は人に何かをする気持ちにさせることである。TeacherではなくFacilitatorである。もちろんゴール設定をした上での展開なのでビジネスでいうそれとは違う。

 引き出すために何をするのか。きっかけ作りに関してもっと研究をしたい。経験上、あまり意図的なものは乗ってこない。むしろ無意識の内にやってみせたことがキューになることの方が多い。ならばプロとしてはあたかも偶然かのように学習者のやる気を引き出すしかあるまい。

 その一つはやはり率先垂範の考えだろう。やってみろという前にやってみせる。その苦労も達成感もそのまま見せることが、自分もやってみたい、自分ならもっと上手くできるということに繋がる。

 失敗が責めないことも大事だ。何かを始めるときにはどうしても失敗はつきものだ。失敗しなくては新しいことを始めることなどできない。だから失敗したことをむしろ称えるべきなのだ。そこからつぎの段階が開ける。

 適度な助言も大切だ。何から始めればいいか迷っている人には、まず歩いてみようと提案してみる。選択に迷った人には間違えたら引き返せることをいう。くじけそうな人にはこれまでの努力と夢の力の強さを思い出してもらう。それぞれの局面にあったことばをかけたい。

 他人のチカラを引き出すことは一筋縄では立ち行かない。それが面白いところでもある。