カテゴリー: エッセイ

あんバタ

 高校時代の思い出の一つにあんバタがある。校門からほど近いパン屋で売っていた。百円以下だったと思う。店で焼いたコッペパンにバターを塗り、その上に小倉餡を挟んだよくある何の変哲もないものだ。バターとなのっていたが、マーガリンだった可能性も高い。

 やたらと甘くカロリーが高いもので、食べごたえがあった。高校生の頃は部活帰りにこの店によることにしていた。制服のない高校だったので店を一色に染めることがなかったことだけは幸いだった。これを頬張ることを目標にしてあまり楽しくなかった部活を切り抜けた。高校生にとってはそれで十分だった。

 コンビニで似たようなものが売っているが、味がまるで違う。冷静に考えれば今のものの方が遥かに美味い。でも、思い出のバイアスを入れたなら、高校横のパン屋に勝る味はない。あの頃のことはなかなか思い出せなくなっているが、あんバタのことは忘れられないでいる。

寝落ち

 睡眠不足の日々が続いている。寝落ちという言葉は大袈裟だと考えていたが、最近は本当に落ちる。それも突然なので困る。

Are you sleepy?

 ならば早寝すればいいということで床に就くと、一度は寝てもすぐに目覚める。浅い睡眠になっているのだ。高齢者の眠り方と聞くが、残念ながらこれである。よく眠れないから毎日眠い。実によくない。

 半跏思惟像の如く品よく居眠りしたいものだが、おそらく醜態を晒しているに違いない。半覚醒の状況でアイデアが浮かぶこともある。それだけがよいことといえば言える。

あり得ない妄想

やり直せたら

 あのとき別の選択肢を取っていたらとはよく思う妄想である。別の選択をすれば関連して更にいろいろなことが変わり、結果として全く別の状況になる。いまとは違う自分がいるはずだ。

 こういう考え方をしているとき、無意識のうちに並行世界を考えていることになる。量子力学理論ではないが世界はいくらでも分岐すると漠然と考えている。

 学問的な裏付けの有無にかかわらず、この考え方は実は妄想のようなものだ。一人の人生では一通りの経験ができず、それを俯瞰的に捉えることはできない。どんなに並行していても見えなければ存在しないことと変わらない。

 それでもこの妄想をすることは楽しい。それは人生を少しでも豊かにしたいという思いによるものだろう。ただ、生きられるのはやはり今の人生しかない。

インボイスなら廃業します

 いつもお世話になっている赤帽の運転手の方とお話をする機会があった。世間話を早々に切り上げて彼からはインボイス制度への不安と不満が漏れてきた。どうもこの制度はベテラン運転手の皆さんにはかなり具合の悪い制度らしい。

 インボイス制度はこれまで課税の対象になっていなかった一定額以下の売り上げ所得の業者に対してあった課税の特例を廃止する方向に向かわせるための制度らしい。所得税の申告の必要のなかった小規模企業、個人経営者などにも課税の記録を求めるものである。下請け的な発注がなされていた場合、所得に関する税金は結果として大企業が肩代わりしていたことになるが、これが許されなくなった。個人経営者にとっては複雑な税務管理を強いられることになる。

 知り合いの赤帽運転手によれば、税金の計算などを管理するアプリケーションソフトなどがあるようだが、これについていけないらしい。高齢のドライバーはこれが原因で廃業することを決めたという。その方はこれまで税率が変化してもいつも計算しやすいピッタリ価格で通してきた。そのために実入りは減ってきていたが、今回はどうするか分からない。もしかしたら、外税価格にしなくてはいけないかもしれない。でも、それは自分の主義に合わないからもしかしたらもう止めるかもしれないなどとおっしゃっていた。

 この制度は運用に関しては様々な問題点が指摘されている。まじめで良心的な労働者の気概をそぐようなことだけはしてほしくはない。

月光

 十三夜も過ぎて今夜の月は冴えざえと輝いている。木星を従者として落ち着き払っているのだ。時折りかかる薄雲を虹色に彩るのを見ると、秋も終盤だと痛感する。

ダメもとチャレンジ

 何が足りないかといえば成功率の低いことに失敗を覚悟してでも取り組む勇気だろう。きっとそれが若さの喪失というものらしい。

 失敗すれば痛みが伴うし、ときには生き方を変えるようなダメージを受けることもある。それが怖いと前に進めない。

 考えてみればこういう経験は変化の契機なのだ。変化することで新しい局面が開かれるし、そこに新次元が生まれる。だから、失敗は無駄ではなく大切なのはものなのだ。

 ダメもとのチャレンジをすることはこの意味で必要なことなのだ。

平和を語る勇気

 被爆二世の方の話を伺う機会があった。その方の話によれば、自分たちの置かれた立場では平和について訴えるのは難しかった時期があったという。それはかなり心を揺さぶられる問題であった。

 肉親に被爆者がいるということは絶対に知られてはならない。そのように家族の中で云い伝えられてきたという。原爆症があたかも伝染する病魔のごとく捉えられ、差別されることをおそれたというのだ。事実、その方もそのことが原因でいじめを受けたことがあるという。だから、平和を語るといったことも控えめになり、その話題に立ち入らなくなっていったのだという。自分の立場を知られずに過ごすために、平和を語るのはかなり勇気が必要だったという。

 このことは書物などで読んだことがあったが、実際に該当者から直接お話を伺うとかなり衝撃が異なる。戦争は戦後も人々の心におかしな状態を作り続けてしまう。残念だがそれが事実なのだ。

久しぶりに訪れた場所

 長らく離れていた場所に訪れたときの感慨というものはなかなか言葉にはできない。なつかしいという言葉ではおさえきれない何かがある。久しぶりに再訪した地はその変化に驚く。

 でも、その驚きは自分自身の変化に対する気づきも含まれている。自分は何も変わってないと思うのはどうも思い込みらしい。本当は自分の方が変わっていてその土地は本質的には変わっていないということもしばしばある。

 こういう経験は旅で起こりやすい。同じ場所に数年ぶり、十数年ぶりに訪れればそのたたずまいと、自分自身の在り方の変化に気づくことができるのだ。

紅葉から思うこと

 紅葉が進んでいる。これまでに何度か取り上げたショッピングモールの植樹であるムサシノケヤキが色づき始めた。

 猛暑から激変した季節に間に合わせるかのように紅葉する速度も非常に速い。日々様子が変わっている。すぐに落葉してしまいそうで切なく感じる。衰退を感じるからだろう。

紅葉の季節

 しかし、落葉樹が葉を落とすのは決して死に向うためではない。むしろ厳しい季節を生き抜くための手段である。落とした葉は自らの養分として再利用するし、そこに至るまで分解者たちの命の糧となるものだ。

 紅葉とその後の落葉は逞しくもしたたかな命の営みの風景の一つであることを思い出しておきたい。

外見と中身

 自分のことをよく分かっていないことが私にはしばしばある。自分がどのようにみられているのかは結局のところ自分ではわからない。だから、自分像は想像の産物だ。その想像が現実と食い違うことがこの原因である。

自分は他人にとっては他人である。自分が他人のことをある印象でとらえるように、自分もまた誰かによって特定の印象で捉えられている。それがどのようなものなのかは分からない。自分の存在を意識するのは、他人に見られているときである。人前だと緊張するのは、他人の目があることを意識することで強く自己を意識するからだろう。その意味では他人に見られることで自分というものができあがるといえる。

鏡に映ったあなたは誰

脳科学の世界には鏡像認知と呼ばれる考え方がある。鏡に映った自分の姿を自分だと認知する能力のことである。人間の場合2歳児になるとこの能力が備わるのだという。逆に言えばそれ以下ならば鏡に映っているものが何者かわからないということになる。脳の発達とともに、おそらく他者とのふれあいの中で自分を認識できるようになっていくということなのではないか。

 鏡に映った自分を、これは自分だと認識し、今日はさえないとか化粧のノリがいいとか悪いとかいう場合、その映像を自分としてとらえるとともに客観視していることになる。鏡に映った像を別の鏡が映しているのを見るとさらに話は複雑になっていく。自分は何者かに写されることによって存在感を増すが、それを観察している自分はその実態を客観的にとらえている。

自分を客観的にとらえるということは実際の自分を別の自分が描写することなのだろう。すると、その描写の仕方によって自意識が変わってしまうことになる。私がしばしば味わう、思っている自分と実際の自分の大きな違いはこんなところに原因があるのだろう。