これまで47都道府県の中で1時間以上滞在したことがない県を考えてみた。私の場合は秋田と徳島だ。どちらも魅力的な県なのに今まで縁がなかった。逆に言うと他の県は仕事や個人的な旅行で訪れたことがある。
徳島の祖谷渓や大歩危峡には行ってみたいと前々から思っていた。また秋田の男鹿半島や田沢湖なども写真を見て憧れるばかりだ。この先何かのきっかけで訪れることはあるのだろうか。恐らく待っていても機会は来ないのかもしれない。
いつかは訪問したい。
日々の思いを言葉にして
カテゴリー: エッセイ
これまで47都道府県の中で1時間以上滞在したことがない県を考えてみた。私の場合は秋田と徳島だ。どちらも魅力的な県なのに今まで縁がなかった。逆に言うと他の県は仕事や個人的な旅行で訪れたことがある。
徳島の祖谷渓や大歩危峡には行ってみたいと前々から思っていた。また秋田の男鹿半島や田沢湖なども写真を見て憧れるばかりだ。この先何かのきっかけで訪れることはあるのだろうか。恐らく待っていても機会は来ないのかもしれない。
いつかは訪問したい。
若い人たちにはこういうことにしている。謙虚さは忘れてはならないが、自分を低く見積もることはやめようと。今の成績を語るのではなく、これからの可能性を語ろうと。
最近はなんでも資料が揃い過ぎていて、すぐに他者と比較しようとしてしまう。そしてそれができるような気がする。あたかもパソコンのスペックを比較するように、自分の立ち位置を考えてしまう。そして、大抵の場合、実態よりも低く自分を見積もる。
人々を悲観的にさせたテクノロジーは残念としか言いようがない。でも、この見積もりには未来の成長分が勘定されていない。また、今後の価値基準が変化することも織り込まれていない。
だから、言いたいのだ。自分を安く見積もらないことは大切だと。特に若い世代はデーターで判断することが当たり前のことになっている。ただそのデーターはあくまで過去のものであることを忘れてはならないと思う。
天気予報では来週初から急激に気温が下がり、最低気温が氷点下になる日もあるかもしれないとのことだ。関東南部の住人である私にとっても覚悟のいることだが、北日本や北陸の積雪の多い地域は早めの備えが必要だと呼びかけている。
富山に暮らして間もない頃、雪というものの概念がパラダイムシフトした。雪は心踊る楽しい贈り物のように思っていたが、雪国にとっては少し厄介な日常だ。ただ、これも慣れてくるとなんでもなくなった。早朝の雪かきが程よい運動のように感じるようになっていった。もちろん豪雪の年は大変だった。車庫から車を公道に出すまでの除雪にかけたエネルギーはたいしたのもので、やっと出した車もスリップを恐れながら、ようやく運転した次第だ。
雪のない地域に移ってあの頃の雪に対する思いはいつの間にか溶け落ちてしまい。すでに覚束ない。あのような雪の中に再び戻ることはできるのだろうか。
寒気南下のニュースに接していろいろな思い出が噴出した。とりあえずマフラーでも用意しておこう。
何かに集中しなければいけないときに他の様々なことが想起されて思考を邪魔することを雑念ということがある。私はこの意味の雑念の多いたちなのでこれに悩んでいた。ところが歳を重ねるに従いこの雑念が減った気がする。
集中力が向上したというわけではない。何か別の話題が浮上してやるべきことを妨げることは減った。しかし、何も考えずに茫然としてしまうことがふえたように思う。CMのコンテンツがなく、イメージ画像を流すような感じだ。呆けるとはこのようなことなのだろうか。

現時点ではいま自分は何も考えず時間を過ごしているというメタ認知のようなものは機能している。これがいつの日にかなくなるときが来るのだろうか。雑念に悩んでいた頃は僧侶のような無の境地を憧憬したが、あるいは雑念が湧くということは大切な生命力のしるしなのではないかと考え直している。
アラブ首長国連邦のドバイで開催中の国連世界気候変動枠組条約締約国会議で相変らず日本の評価が低い。この時期に合わせてNGOが発表する化石賞で2位に「表彰」されるなど、国際評価は厳しい。
日本が低評価になる理由の一つとして化石燃料に水素やアンモニアを混焼する技術がごまかしと評価されていることがある。グリーンウォッシュというらしい。この技術を海外に輸出していることも評価を下げている。今のトレンドは化石燃料をいかに使わないようにするのかであり、使い方の工夫をするというのでは評価されないようだ。
ただ、日本にとって再生可能エネルギーへの転換は容易ではない。原子力発電に関して慎重にならざるを得ない国土にあって、何ができるのかを考えなくてはならない。
どうしたら自分をよく見せられるかということを学校が教えると言ったら、どう思われるだろう。実力もないのに虚飾の術を教えるのはおかしいと非難されるかもしれない。ただ、思うにそうでもないのだ。
自分を売り込むことは伝統的な日本の価値観ではあまり評価されなかった。むしろ、実力は隠し謙虚に振る舞うことが美徳と考えられてきた。私自身もそういう文化の中で生きていたので、人前で自分がいかに優れているのかを説く姿には感心しない。むしろ非常識とさえ考える。ところがどうもそうではないようだ。
自分を積極的に評価することは現代社会においては不可欠なことだ。それには2つの意味がある。1つは他者の評価は当てにならないという事実に基づく。自分が周囲からどのように見られているのかは、実は人によりけりであり絶対的な基準がない。高評価も非難も実は偶然の産物だ。だから、他人の評価を気にしすぎてはならないのだ。
もう一つは自己肯定感も関係する。自分を積極的に評価することで、それに見合う生活が展開されるようになる。言葉にし他者に伝えることによって自分のあり方は変わる。だからブラスに見積もればそれに合う己になるように思考や行動が修正されていくようなのだ。だから大風呂敷は広げるべきなのだ。
学校で自己紹介する際に、ネガティブなことは言わないように、それがデメリットでも見方を変えてメリットとして表現するように指導している。中高生は素直に聞いてくれるが年齢が上がるとそうもいかないだろう。自己肯定感よりも謙虚さの方が優勢になる。
でもこれは一種の自己暗示である。気持ちがのれば不可能が可能になることもあるかもしれない。実現はしなくても前向きな姿勢にはなれる。その意味で自己PRを教えることにはやはり意味がある。
とある文学館で脚本家の草稿を見ることがあった。また、箱書きと呼ばれるストーリーを作るための原稿を見た。手書きから感じ取れるものは数多くあった。
ものを考えるとき、やはり思考の跡を具現化するのには、紙と筆記用具とが適している。コンピューターで書くのはいろいろ楽だが、創作的な作業においてはやはり手書きの段階があった方がよさそうだ。
デジタルにもアイデアを系統化して表示できるアプリはいくつもあって、使いこなせれば便利だが、気軽さや曖昧さに対応できるのは手書きがよい。しかも紙面に記すことでいつでも取り出せるものとなる。整理できていればだが。
原稿用紙に文字を書くことが少なくなった現代人は、そのためにクリエイティブでなくなっている、というのは極論だが、そういう面もあるかもしれない。
国際経済協力機構の実施する国際学習到達度調査で、日本の生徒の読解力が向上したとのニュースがあつた。これだけ読むと祝福すべきだろうが、現場の教員からすると大いなる疑問をもつ。ここでいう読解力とは何を意味するのだろう。
短い時間の中で与えられた設問に解答する力を読解力というのなら、ある程度の教育の成果はあるのかもしれない。特にデジタルデバイスを活用して検索した内容を自分なりに纏める力は少し前の世代と比べて格段に向上している。
でも、情報処理以上の読解となると覚束ない。検索可能なものを越え、思考と経験を積み合わせる行いは苦手のようだ。いまの世代には直接的な体験が欠けている。情報としては接していても実物を見たことがないのである。例えば昆虫なり、岩石なり手にしたことがあれば、そこから得られる刺激がある。それがないから、モンシロチョウの羽化も木星の衛星の運行も同じレベルで遠い存在なのだ。
だから子どもの読解力が向上したと言われると疑問符しか思い浮かばない。むしろ、低下しているというのが私の実感である。
小手先の読解力を上げるより、思考とは何かを考えたほうがいい。イノベーションはそういう体験の積み重ねなしには生まれない気がする。