
ドクダミはいまの時期ならどこにでも見られる雑草である。毒を矯めるというのが名の由来で薬草としても使われてきた。身近な民間薬である。
花びらのように見える萼は漢字の十の文字に見えることから十薬の名もある。ところが写真のような5弁の花を見つけてしまった。生物のエラーであろうか。
ドクダミには八重咲きのものもあり、近隣の住宅ではそれを植えている。雑草から園芸種に昇格しているのだ。植物の品種改良はこんな発見から生まれるのかもしれない。
日々の思いを言葉にして
あまり芳しい話ではないが、ものごとには終わりがあるという意識が持てることは大事だと思う。有限の生を生きているという実感は意外にも持つことが難しい。今日の次に明日があり、その次もまた同じという単純な方程式を想起してしまいがちだ。
実際には今日の次に明日がある保証はない。何らかの事情で自分の生命が終わるかもしれないし、自分だけ生きていても自分を包摂する社会でいかに生き残るかは別の問題になる。まさに世界は移り変わるものであり、この変化を止めることは誰にもできない。
終末を意識できることはメタ認知の才能のあることを示すものであり、評価すべきものなのだ。それがいつのまにか妄想なり、老害なり、不確実な言葉で非難するものがでてきたのには残念と言わざるを得ない。この時点で未来を見通す可能性を否定してしまっては何も起きない。
自分は終わりかもしれないけれど、きっと後継者が何とかしてくれる。そういう時間認識と楽天的な他者観の末に私はいる。そのことをいつも忘れてはならない。
トランプ大統領がハーバード大学に対して規制しようとしている動きが報じられている。高等教育機関と政治権力の関係を改めて考えるきっかけになっている。
トランプ大統領の支持層は白人労働者階級が中心という。大学卒業のエリートではなく、その配下として雇用される人々だ。大学卒業者の中には私腹を肥やすことにだけ関心のある人たちもいて、彼らの下で働くものたちが抱える不満や怨嗟は水面下にあるものを含めれば相当なものである。
エリートの負の局面を論えば果てがない。しかし、世界の難題を切り拓いてきたのもこの層の人が多く、教養が社会秩序の維持に貢献することも多い。彼らの活躍は国家として、あるいは世界平和のために欠かせないという一面もある。
知的権威の功罪のマイナス面が強調され、権力者の手によって弾圧が始まると社会は一挙に息苦しくなる。権力側の知性は引き伸ばされ、対立する考え方は悪の象徴にたとえられる。アメリカで起きていることはその事態の始まりなのではないかと危惧されるのだ。
これは我が国でもいつでも起こり得る。学問、教養に対する疑念はまず効率性という言葉で説かれる。役に立たないことを学んで何になるのか。歴史や古典を学ぶより、プログラミングだ、フィンテックだと言い出す。彼らはこうした言動が反知性主義の扉を開くことに気づいていない。意図的なら独裁者候補になれる可能性がある。
学ぶことの意味を利己的、功利的にのみ捉える風潮が拡大すれば日本は一気におかしくなる。その兆しがあることに多くの人は気づいているはずだ。ここで歯止めをかける必要がある。
子どもの頃、潮干狩りに行って妙な生物に出会ったことがある。平べったく、模様のような穴が付いている貝のような何とも言えないものは始めは何だか全く分からなかった。貝殻か魚の骨の一部かとも考えたが、どれも当てはまりそうもない。
子ども用の図鑑で調べるとスカシカシパンという。名前も変だ。似ても似つかないがウニの仲間なのだという。私が拾ったのは恐らく死んだ個体だつたが、生きていても動作は極めて遅く、海底の砂地に何時間もかけて潜り、バクテリアなどを摂取しているらしい。
ウニ風味の菓子パンならば魅力的だが、実物はとても食用にはなりそうもない。命名の妙で可愛らしい印象になったが、相当奇妙な生き物だ。
子どもの頃は変な生き物に出会う度に感動した。そしてまだ見ぬ生き物を見つけようと期待したものだ。毎日のように図鑑を広げていたから、今でも何となく挿絵や写真を思い出すことがある。
富山県黒部市に住んでいたころは今から考えると最も不安定な時期だった。初めて就職した場所が暮らしたことがない地方都市であったことから、この地での生活を始めたのだが、直前に住んでいた渋谷とは全く違う環境に驚いた。
それでも何とか順応できたのは、小学生のころ転校を繰り返した転勤族の息子として経験が生かされたのではないだろうか。つまり、住まいとは移ろうものであり、周囲にいる人もまた同じ。その場その場で適応することこそが大事なのだという学びである。
一人暮らしは気楽であったが、単調になりやすかった。自炊したり、自分なりに楽しみを見つけたりすることは前から得意であったので、不完全ではあったが何でも自分でやるようにしていた。スーパーで魚を買い、自分でさばいて煮たり焼いたりして食べた。炊飯は機械に任せればよいが、味噌汁はしばらくは思い通りにはできなかった。それでも何とかなるものだ。それなりにできるようにはなっていった。
掃除は駄目だった。毎日やらなくてはならないものを週に1度になり、月に1度になり、さらに頻度が減ると耐えがたいものになっていった。しかし、劣悪な環境も慣れてしまうと何も感じなくなってしまう。ある時、これではだめだと思って掃除を始めたが、これは最後まで苦手だった。
この時期に始めたのがジョギングだ。一日7,8キロは走っていた。休みの日は朝と夕に二回走った。住まいから生地の港までの真っすぐな道をただ走った。港でしばらく海を見て、また宿まで走る。それを雨や雪の日以外は毎日行った。この経験は功罪がある。よいことは基礎体力ができたこと。少々のことにへこたれなくなったこと。悪いことはおそらくこれが原因で5年周期くらいで膝に水がたまるようになったことである。
黒部市での生活は3年余りだったが、人生においてとても大切な時期であったのは間違いない。いつかまた生地の港を訪ねてみたいとは思うが少し躊躇もしている。
若さというものが何であるのかは人によって定義が異なる。もちろん身体的な問題は最もわかりやすい基だ。しかしこれには個人差がある。歳を取るたびに何かを失っていくというものでもないらしい。それでもやはり、統計的に考えれば加齢は様々な限界を低くしていくのは確かだ。
精神面においては年齢のわりには老いない人もいる。何かに向かってあきらめず追求する姿は若さを感じさせるものがある。私が注目するのはその方面の問題だ。つまり、経験を積んでもまだやれることはあるのではないか。知らないことがあってそれを見つけることが必要ではないかと思えることなのだと思う。自分の無知を認め、それを克服しようと努力できることは若さのなせる業であるといえる。
自身のことを述べるとやはり、近年は知ったつもりになってそれ以上を追求しないか、様々な言い訳をして困難に立ち向かわないことが増えていると思う。どうせできない、誰かには敵わないというのが口癖になっていることがある。それは本当に老いたということになるのだろう。
だから、無理にでも思い直すことにしている。「今日はできなかった。しかし、明日からは分からない。できるかもしれない」と。こういう悪あがきをするのも最近の習慣だ。百均で売っていた「やれたことノート」にいいことばかりを書き連ねる都合のよい自己暗示の策を取っている。傍からみれば滑稽でもいい。まだ自分に向上の余地があると信じて疑わない。それが若さというものなのだろう。年齢が少ないときはそんなことは意識する必要がなかったが、最近はなんでも知っているという錯覚を自主的に打ち消さなくてはならない。それが若さを保つ秘訣ということになる。
この時期に私には試練がある。職場の冷房が稼働し始めると必ず調子を崩すのである。大部屋を一括で制御するシステムは、座席によって冷気の吹き出し口に近いことがあるが、今年の席はまさに寒冷地であり、まともにいられない。
共有スペースに移動して仕事をすることにしているが、何かと不便である。仕事をサボっているのではないことを主張しなくてはならない。もっとも最近は仕事量の方が多すぎてそんな余裕が全くない。サボりの非難よりは仕事ができないことへの哀れみの方がまさっている。
暑過ぎても寒過ぎてもうまくいかない。人は危うい狭間で生きている。
英語で、地名とその地に住む人の語が別々にあると学ぶととにかくそういうものだと思って学ぶ。品詞的には名詞と形容詞の関係だ。Americaに住む人がAmericanであり、Canadaに住む人、Mexicoに住む人が、Canadian,Mexicanなのはなんとなく分かる。Japanに住む人はJapanese、Chinanに住む人はChineseで法則性がありそうだ。Franceに住む人はFrenchであり、Germanyに住むに人はGermanであり、語尾に何らかの法則性がありそうだ。
ところが、Thailandに住む人はThaiであり、Neaderlandに住む人はなぜかDutchで法則性を見出しがたい。The people of~か Someone from ~といえば国名だけで表現できるというが、謎の形容詞形を使ってみたくなるのが人情というものである。
ちなみに東京人はTokyoitesというらしく、何度か文献上で目にしたことがあるが、実際に使われている場面を知らない。それでは横浜人はなんというか、辞書にはないがYokohamanではないかと言われている。ならば、大阪人はOsakanだろう。名古屋はNagoyan、富山はToyamanなのだろうか。偶然だが方言に似ている。京都はKyotoitesの可能性が高いが、きっと地元の人からは「あきまへん。Miyakobitoどす」と言われるに違いない。

最近よく聞く言葉に「世界線」がある。文脈上は別世界の意味があるパラレルワールドのようなものがあることを想定し、もし今いる世界とは別の世界に生きていたとしたらという考え方らしい。実際には起こり得ないが仮に想定してみるという思考法である。

性質は全く異なるが伝統的な他界観である来世と少し似た発想だ。来世が時間的には縦に繋がるのに対し、パラレルワールドは横にある。その違いはあるのだが、現世との繋がりの中で異世界の存在を想定するのは同じことだ。
世界線を移動することができない以上、異世界の存在はなんらかの救いとなるわけではないように思える。今味わっている苦難は別世界では大きな恩恵になっているのかもしれない。でもその別世界には移動できない。
世界線という考え方を一種のメタ認知と考えることもできる。現状を見渡し、敢えてそれに捉われずに自由に発想する。そこから得られる慰めと現実の受け入れ、そして場合によっては現状打破の端緒の発見がこの考えの魅力だ。そうならば別の世界線を夢想することには意味があることになる。