うまくやる

 物事を効率的に行うことは究極の目的かもしれない。無駄をなくせば様々な効果が発揮される。うまくやればいい結果が出る。至極当然の論理だ。

 しかし、うまくやるためには下手にやる経験も必要だ。失敗がなければ何が良いのかも分からない。頭で分かっているつもりになっていても、実はそうではないということはいくらでもある。

 失敗を許さないという最近の風潮はその意味で心配だ。ならばコンピュータに判断を任せて失敗を避けよという。するとますますうまくやることの実感が消えていき、全体の構造を俯瞰できなくなる。その結果、環境の変化に対応することはできなくなる。何よりも仕事の実感とかやりがいといったものが見えなくなる。

 せめて若いうちはうまくやれと言い過ぎない方がいいのかも知れない。古人の言うように失敗は成功のもとなのだから。

労働の価値

 金を設けるために何をすればいいのか。そんなこと話題にしているものは山とある。最近見た動画サイトには、職業を選べという。接客サービスなどを行う業種はもうからないのでやめろと何度も言うのだ。

 理屈から言えば確かにそうなのかもしれない。過当競争の多い業種は労働に似合った対価を受けていない。消費者側もそれを分かっていながら、あえて高い金を払うことはしない。だから働き損だということもできる。金銭の獲得という面だけでいえば労働には効率の差がある。

 しかし、労働の中に何を見出すのかという基準でいえば少し違う結論になる。労働の内容それ自体に意味を見出すのならば、決して経済的な数値だけが物差しにはなるまい。どれだけ達成感があるか、社会貢献の自覚がもてるのかということも労働の価値を考える際には必要な尺度だ。

 時に矛盾する価値を埋める何かを考えなくてはならないと思う。社会のために働いている収益効率の低い人を評価する方法を見つけるべきだ。

藤袴

 秋の野草の一つに藤袴がある。淡い紫の色はひかえめだが確かな存在感がある。

 万葉集では秋の七種に数えられ、古来から注目されていたようだ。なでしこや桔梗のような派手さはない。ただしっかりとした植生やわずかな芳香はこの花の魅力だ。

 先日、花壇に植えられた見事な大株を見た。調べてみると野生種は絶滅危惧があるという。ますます愛着が湧いた。

Twitterは公式なのか

 アメリカ大統領選挙ではソーシャルメディアによるキャンペーンが繰り広げられげいる。選挙に向けていまが佳境だ。果たしてソーシャルメディアのつぶやきは公式の見解なのか、無責任なつぶやきなのか。そのあいまいさが気になっている。

 トランプ大統領のツイートは時に過激であり、およそ大国の首席とは思えない表現も出る。しかし、これは公式な見解ではないと思ってみれば、人柄のあらわれとして考えることができる。しかし、時にツイートを政策上の手段として使うこともあり、果たしてどれほど本気なのか分からない。

 これはアメリカだけの話ではない。我が国でも政治家が微妙な立場をつぶやきで済まそうとする。しかし公人が不特定多数の人に発言する表現が非公式などと言えるのか。いま大変疑問に思っている。

冷たい雨

 東京へ気温がまた下がり冷たい雨が降っている。10月も半ばを過ぎたのだから当然といえばそれまでだ。

 同じ気温でも春先この気温になったときの感覚とは随分違う。私たちの体感は相対的なものであり、それまでの気温の推移で暑くも寒くも感じるものだ。また冬に向かうこの頃は気分のあり方も違う。

 気持ちの持ち方が健康にも影響するという。明るくすごそう。

日本型メロディ

 筒美京平さんが亡くなったことを記念していわゆる昭和歌謡がラジオに流れる機会が増えている。懐かしさとともにそこには厳然とした日本型メロディがあると実感した。これを世界にアピールすべきではないか。

 戦後の日本文化はアメリカを中心とした海外要素の模倣と和風化の流れがある。単なるコピーにならないのは、伝統的な日本型旋律の影響や、日本語の歌詞を乗せるという制約のもとに発展してきたからだろう。だから例えば西洋の楽曲をそのままカバーしたような曲でも日本でヒットするのはかなりの和風化が施されたものだ。

 それをまがいもの扱いする時代もあったが、いまとなってはその独自性こそが貴重なもののように感じる。こだわりなくいいとこ取りをしたようなメロディラインや、エモーショナルな響きを重視する曲作りなどは日本楽曲の特徴であり、海外にもっとアピールしてよいのかもしれない。

 評価されるべきものがされていないことが問題かもしれない。これは楽曲の話だけではない。

封じている何か

 感情は自発的なものであり、制御ができないものと考えられる。ただ、ある種の記憶に関してはそれが可能になることもあるようだ。

 大切な思い出の一つはいつまでも忘れられないもののはずなのに、思い出すことを封じているかのように出てこない。これは何かが自発の動きを制しているからなのだろう。そんなことは映画かドラマの中の虚構だと思っていたがそうでもないようだ。

 制していたものはいつか堰を切ることになる。そこには痛みもあるかもしれない。いまはそのことを恐れるのは止めておこう。いまを生きるための本能の技を信じていよう。

国王の肖像

 上野の森美術館で開催中の美術展を観てきた。英国の歴代の国王の肖像画や写真を集めたものであった。権力者の画像は普通の絵画とは違うと実感した。

 英国に限らず権力者が必ずしも聖人とは限らない。むしろ庶民より拘束度が低いために醜態も残りやすい。そして公式記録としてつまり歴史として刻まれることになる。

 写真がなかった時代には国王の肖像画は様々な目的を持っていた。写実的であればいい訳ではなく、むしろ弱点を隠蔽し、ときにそれを補強する必要があった。時代の価値観に合わない部分は描かず、理想的な人物にしなければならなかったのだろう。それを自覚した君主は日常生活と公務の顔を変えていたかもしれない。肖像画のみならず、本人の生活それ自体が二重化、多重化していたのだろう。

 エリザベス1世の背景に暗く描かれるスペイン無敵艦隊の背景を観たとき、明るく笑うダイアナ妃の写真を観たときも画像というものの役割を感じざるを得なかった。

表現手段

 公園で楽器を演奏する人を見かけた。なかなかの腕前であり、通行人の注目を浴びていた。もちろん一流の演奏には及ばないのだろう。でも、演じている本人が楽しそうであり、生きがいを感じているようだった。

 自分を表現する方法を知っている人は幸せだと思う。うまく言えない何か、言葉にならない何かを表現することは案外難しい。それをあきらめてしまうのが通常の人のあり方だが、楽器演奏なり、大道芸と言われるパフォーマンスなりにそれが表現されることもある。演じること自体が目的だから収益は二の次だ。もちろんお金がもらえればもっといいが、それが目的ではない。

 自己表現ができてそこそこ暮らしていける生活が出来たら、なんと幸せなことなのだろう。私は最近そんなことばかり考えている。

すすき

 線路脇の土手一面にすすきが穂を揺らしている。乗車した電車が起こす風がその揺らぎをさらに大きくする。ここ数日ですっかり季節は進んだ。半袖姿は元気な一部の小学生だけになっている。