実家の近くにあった大きなパチンコ店がなくなり更地になっていた。他にもこのところ建て替えなどが相次ぎ町の風景が変わっている。もともと開発途上の地域だったことに加え、コロナ禍という打撃もあって変化を余儀なくされていると言えるだろう。
昨年亡くなった父の見た風景が消えていくのを思うと複雑な気持ちになった。もっとも代々の先祖が目にした世界と現在は異なるのであり、私が知る風景がいつまで保たれるかなど誰にも分からない。
諸行無常といえばそれまでだが、蟻の視点で見れば心乱れる事実だ。
日々の思いを言葉にして
実家の近くにあった大きなパチンコ店がなくなり更地になっていた。他にもこのところ建て替えなどが相次ぎ町の風景が変わっている。もともと開発途上の地域だったことに加え、コロナ禍という打撃もあって変化を余儀なくされていると言えるだろう。
昨年亡くなった父の見た風景が消えていくのを思うと複雑な気持ちになった。もっとも代々の先祖が目にした世界と現在は異なるのであり、私が知る風景がいつまで保たれるかなど誰にも分からない。
諸行無常といえばそれまでだが、蟻の視点で見れば心乱れる事実だ。
二十歳の頃から続けているのが短歌である。最初は文語を使って万葉集のような作品を目指していたが、だんだんと口語短歌に移行し身近なつぶやきを述べる器にしていた。Twitterが始まる前からである。
最近はまた大きな風景を歌う作品に魅力を感じている。画面の大きさもそうだが、事態をメタレベルで捉えることに興味が湧いている。恐らく現実逃避の新しい形態なのだろう。
俳句はかなり構えて作るが短歌は相当いい加減に作っている。私にとってはカジュアルな表現方法なのだ。このところはソーシャルメディアに書き散らかしているが一度まとめて見たほうがいい気がしている。
あらためて共生という言葉の重みを感じる。支え合う社会を目指さなければこの国の行く末は危うい。
自己責任、成果主義で押し通せるときはそれも成り立つ。上昇機運にある時代ではあらゆる逸話が英雄伝に結びつこうとする。停滞や衰退の局面に入ればそれも変わる。支え合う仕組みが必要になる。そういう舵取りをする人がいる。そういう考えを気づかせてくれるきっかけが必要だ。
それはもしかしたら政治家のスピーチではないのかもしれない。もっと身近なところにある何かがいるのかもしれないのだ。
緊急事態がまた延長されるようだ。感染者人数が減らないから仕方ない。ただ、ワクチン接種は少しずつ進みつつあり、夜明けは見えてきた。
明確な基準なり判断をくださない限りこの事態を変更することはできない。さらに決定したら責任を負うことになる。その責任は個人のレベルでは到底負えない。
決められないことを前に私たちは思考停止する。このことについては日本人は得意だ。数多くの理不尽な状況をそれで乗り越えてきたのだから。
私はこれも生きる知恵なのかもしれないなどと諦念を持ち出している。ただ、事態が変化したときに何をするのかを考えておかなくてはなるまい。次を考えよう。
季語としての五月晴れは旧暦5月の梅雨の晴れ間のことをいう。太陽暦になって一月前倒しになり、初夏の陽光を指すようになった。だから、5月の晴天は厳密には五月晴れではない。
ただし、今日の晴れた一日はその名に値する。ここ数日の走り梅雨で湿った空気に光を与えているからだ。気温が高くなりすぎるのは困りものだが。
知らない間に紫陽花も花を揃えてきている。額の花もいい。まもなく正真正銘の入梅となる。この暑さは貴重かもしれない。
検索するのにも高度な方法があるようだ。知っている人には当たり前のことなのだろうが、私を含めて多くの人は知らない。どんなことにもその道の先達がいるものだ。
ネットの普及で情報を探すことは誰にでもできるもののような錯覚が生まれている。実は精査することなく最初に見つかった項目を正解と思い込んでいることが多い。これが積み重なると大きな誤解が形成されていくことになる。虚像が見えると、そこにさらなる装飾が施され、本物そっくりの贋物が完成する。
考え方の根本から間違っていれば修正は困難になる。適切な考え方を学ぶべきなのだろう。それを教えるのが学校であり家庭であり、社会であるはずなのだ。安易に答えだけを求めることは百害しかない。
関東はどう見ても入梅している。ただし、気象庁の判断では走りと認定されているようだ。確かに梅雨入り宣言を出したあとに長い晴天期間があったこともあるので難しい。
気象は連続的なものであり、季節の切れ目があるわけではない。あくまでも人為的に分節しているに過ぎない。春はいつからいつまでというのは暦というものさしに当てはめたもので実態とは異なる。
梅雨が季節なのかどうかも議論されるべきだ。四季という区分では梅雨はその下位区分だ。だが、生活にもたらす影響からすればもっと大きな存在でもある。
時間をどう捉えるのかは恣意的であることを梅雨入り宣言の季節にはいつも考えさせられる。
国際問題に関して今の日本人は切羽詰まっている気がする。日本は東洋の辺境地帯で資源のない島国であるという現実をどこかに忘れてしまったのではないか。この国が繁栄するための最低限条件は他国、他地域との共生だ。それが近年の経済的成長でわからなくなってしまっているとしか言いようがない。
日本が先進国に序せられるのは偶然の積み重ねに過ぎない。私達の先祖もそれを望んでいたわけではない。むしろ毎日を平穏に過ごすことだけを願っていたに過ぎないのであり、他国より有利に過ごそうなどという野望は持っていなかったはずだ。それが明治維新を経過し、戦争の勝利と敗北、経済的な成長ですっかり分からなくなっている。私達がはじめから優秀な国民であるかのようなプロパガンダをすんなりと受け入れてしまう思考停止が今の日本人の現状だ。
私は国としての誇りを捨てることは好まない。しかし、誇りある国は他の国にも誇りがあることはわかるはずなのだ。それがどうも隣国を見下したり、無条件に自国が優れていると考えることが蔓延しているようで仕方がない。私はその意味で愛国心を育てることには意味があると考えている。それが自国優先主義にならないことを注意深く見守ることが必要であることは自覚している。
相変わらずの曇天続きだ。傘は折りたたみにしたが帰宅時に後悔するかもしれない。
通勤の道に樟が並んでいる。比較的若い気なのだろうが幹にはすでに風格が出始めている。常緑樹も芽吹きはあり落葉もする。今は若葉の揃う頃だ。
見てみると赤みがかっている。光沢のある葉は強い生命力を感じさせる。これを糧にしのいでいくことにする。
まだ紫陽花の花が咲いていないというのに、このところ小雨が降る日が続いている。気象庁の見解は分からないが東京も数日前から入梅していたといえる。
曇天は心を重たくするが、生き物にとっては利益も多い。そのことを思えばむしろ喜ぶべきなのだ。禍福はあざなえるもの。
炎天下を歩くよりよほど惠まれているのだと思えば、紫陽花の咲くのを余裕を持って待てる。