予報によると梅雨への流れは一旦途切れ、数日間は気温が上がるらしい。明日などは真夏日になる予報まで出ている。
高温多湿の不快指数が高い日々が続きそうだ。身体が適応するまでには時差があり、それを乗り越えるまでが大切になる。もう一着半袖シャツを買い足そうと考えている。
日々の思いを言葉にして
予報によると梅雨への流れは一旦途切れ、数日間は気温が上がるらしい。明日などは真夏日になる予報まで出ている。
高温多湿の不快指数が高い日々が続きそうだ。身体が適応するまでには時差があり、それを乗り越えるまでが大切になる。もう一着半袖シャツを買い足そうと考えている。
最近、楽器を手にすることがなくなっている。私は特にうまい演奏者でもなく、人に聞かせることなどとてもできない。ただ楽器を弾くことで得られるものは確かにあるのであり、それが失われていることは大きな損失だと自覚している。
中学生の頃からフォークギターを楽しんできたが、実はそれ以上に興味があるのがリコーダーである。小学生のころにプラスチックのリコーダーを授業で吹かされるので誰もが経験している。それが意外にも奥が深い音色を持っているのだ。その後木製の楽器も手に入れた。確かにその方が深い音がする。でも安いプラスチック楽器でどこまで繊細な音が出るのかを追求するのも面白いのだ。
そういうことをする余裕も環境もなくなっていることが残念だ。これは思い切ってやるしかない。公園の片隅で変な音を出しているおじさんに会ったら、それは私かも知れない。
遅まきながら私は今日からいわゆるクールビズとすることにした。暑さのため調子が出なかった感があったのを解消する。もっとも、マスクをつけている限り本調子は遠い。我慢するしかないけれど。
演劇を観ているといろいろなことに気づく。主役を輝かせるのはその周囲にいるものの力であるということだ。
もちろん主役本人に魅力がなければならないことは間違いない。しかしそれだけではない。個人で表現できることには限りがあるのだ。それを補ってくれるのが他の役者であり、舞台美術や衣装、照明などのスタッフなのだ。彼らがそれぞれの仕事を全うしたときに主役は光ることができる。
舞台人でなくても同じなのだろう。私たちは誰もが主役であり、脇役やスタッフでもある。それを同時に演じている。観劇をするたびにそれを考える。
生活保護を申請する人が増えているというニュースが流れている。ここまでよく耐えているという印象がある。暴動のようなものが起きる気配がないのは幸いだが、それにも限度があるだろう。
現在の職にこだわりがある人は仕方ないが、そうでなければ転職を勧めることも必要だ。魅力のある仕事を創出する必要がある。賃金に応じたダイナミックな価格や料金設定などもデジタル化の果てには可能かもしれない。
夢物語を語っても焦眉の急はしのげない。まずはできることからやることと、社会的視点を持った経営者に期待するしかない。
日本人は親切だという意見と不寛容だという意見がある。これはどちらも正しく、また間違っている。人には他人に優しくなれるときとそうでないときがある。まして日本人などという人はいないのであり、人それぞれ考え方や行動様式が異なる。
日本の文化に他人との寛容と不寛容を際立たせる要素があるとは言えるかもしれない。思いやりやおもてなしを美徳として繰り返し教えられるからそういうこともあるかもしれない。また、自分とは直接関係しない集団に対する不寛容さは黙認される。
だから、親切かそうでないかの線引きは容易ではない、隣人愛のような風土はないが、仲間とみなせば助け合える気質が備わっているようだから、仲間意識を膨らましていくのが幸せへの近道だろう。
今日から6月が始まる。まだ終わらない緊急事態にはうんざりだが乗り越えていくしかない。
少し先のことを考えることも大切だ。ワクチン接種が進み、いわゆる集団免疫が形成されたと認定された後でどのような社会変化が起きるだろうか。この騒ぎの前の状態に戻るとは思えない。ディスダンシングに慣れた人々はどういう行動を取るのだろう。そもそも都会に住み続ける意味はあるのかなど。
グローバルな世界を意識したのとともに地域の力の大切さも実感している。金を出しても幸せは買えないときがあることを予感させた。
これから変わるかもしれない社会を考える月始めになりそうだ。
地下に続くスロープに手すりがついていることに気づいた。もう何年も通過しているのに今朝気がついたのである。
恐らくいままで手すりの必要性がなかったために見過ごして来たのだろう。よく見ると高低二本の手すりが並行して取り付けられている。それぞれの身長に対応するためなのだろう。
隠れた善意を見過ごしていたことに驚く。そしてこれからはここを通るたびにこのことを考えることになる。
古典的なものをそのまま保存することは意味がある。ただ、それだけでは博物館から出ることはできまい。思い切って古典のコンセプトを現代に活かしてしまう試みをもっとしてもいいと考える。
私は古典文学を専攻してきたが、最近どうも分が悪い。そもそも学校で古典を教える意味があるのかなどと言い出す人もいるし、古典など知らなくても立派に成功していると豪語する人もいる。彼らは日本語という言語で思考していることを忘れているのだろうか。わたしたちの使う言葉は明らかに古典の延長上にある。
経済効果しか頭にない人に古典の学習意義を説明するのは難しいが、どうもそれも明確化できそうな気がしてきた。コモディティ化が進む世界にあっては独自性特殊性こそが価値を生む。古典的な世界を再構成することも一つのその手段なのだ。美術工芸など具現化しやすいものもある。古典を活かせば新たな可能性が生まれる。
おそらくそれが見えたときに古典学習を縮小しようという声も消えるのだろう。別に金儲けのために古典を学ぶつもりはないがまずは仲間を増やさなくてはなるまい。
実家の近くにあった大きなパチンコ店がなくなり更地になっていた。他にもこのところ建て替えなどが相次ぎ町の風景が変わっている。もともと開発途上の地域だったことに加え、コロナ禍という打撃もあって変化を余儀なくされていると言えるだろう。
昨年亡くなった父の見た風景が消えていくのを思うと複雑な気持ちになった。もっとも代々の先祖が目にした世界と現在は異なるのであり、私が知る風景がいつまで保たれるかなど誰にも分からない。
諸行無常といえばそれまでだが、蟻の視点で見れば心乱れる事実だ。