ようやく新型コロナウイルスに対するワクチン接種が本格化したようだ。駅頭に接種会場への道案内が出るようになった。ただ、地域や年齢が限定されており、集団免疫形成の道のりは遠い。
ワクチン接種による効果については今のところ有効性の方が報道されている。副作用もあるが1年以上の忍耐生活から抜け出したいという思いは多くの人を会場へ運ぶだろう。
少し気になるのは摂取の資格に関する格差である。住居や年齢、発言力などによる差がつかないことを祈りたい。
日々の思いを言葉にして
ようやく新型コロナウイルスに対するワクチン接種が本格化したようだ。駅頭に接種会場への道案内が出るようになった。ただ、地域や年齢が限定されており、集団免疫形成の道のりは遠い。
ワクチン接種による効果については今のところ有効性の方が報道されている。副作用もあるが1年以上の忍耐生活から抜け出したいという思いは多くの人を会場へ運ぶだろう。
少し気になるのは摂取の資格に関する格差である。住居や年齢、発言力などによる差がつかないことを祈りたい。
ここ数日すぐれない天候が続いている。西日本ではすでに梅雨入り宣言があったらしい。かなり早い。
関東もこのままだと入梅と判定されそうだ。マスクをつけた2度目の梅雨も気持ちのよいものになりそうもない。顔の皮膚のトラブルが少しずつ出ている。これも気がかりだ。
夏の装いに切り替えたみなさんもいるが暫くは悩みどきだ。寒暖の変化もある。体調管理が一層求められる。
飲食をはじめとするサービス業界の苦境は察するに余りある。おそらくここまで長く時短要請がでることは想定していなかっただろう。とにかく頑張ってほしいというしかない。
同情を禁じ得ないうえでのやや酷ないいかもしれないが、最近接客力が衰えている気がしてならない。マニュアルどおりのことしかできないとはずいぶん前からの批判だが、それがこのコロナ騒ぎで追い打ちがかかってしまった。
接客は経験の中から磨かれる力であるからいまはその意味で危機的な状況であるともいえる。ぜひ日本のおもてなしが絶滅しないことを祈りたい。
思い立ってある資格を取るための準備をはじめようと考えている。この歳になって資格などほとんど意味などないはずだ。だが、実益よりも自己啓発の具として使いたい。
資格認定とは用意された知識やスキルを修得することにあり、吸収型の学習だ、これはこれまで長年身につけてきた方法である。ただ記憶力は着実に低下しているからそれは学習量で補う必要がある。
年寄りの冷や水に過ぎないがやってみることに意味がある。
近隣の植物園に行ってきた。温室には数多くの南国の花が展示されており、しばし異空間に赴くことができた気がする。それにしても植物の多様性には驚かされる。生き抜くための戦略なのだろうがかくもバリエーションが多いと感心する。驚異でもある。
食虫植物というものがあるが、これは虫を栄養源とする。植物が動物を食べてしまうのと言うのがまず驚くべきことのように思う。さらに食べはしないが植物を花の核に閉じ込めて受粉を促進するという種もあるらしい。一般的には虫媒花が知られるが、そこに至るまでのさまざまなグラデーションがあるようなのである。
南国の花は他にもいろいろな特徴がある。その色彩、形状、生態などどれもが不思議なものだ。植物園はそれを簡単に見せてくれるのがよい。

変化が激しい時代において過去の蓄積が評価されにくい状況が訪れている。手作業の中に折り込まれる経験やストーリーよりも効率や結果ばかりが求められると息苦しくなる。
過去にとらわれないとか、前例踏襲主義は悪と言うことは簡単だが、それは過去の否定ではない。まったく新しいことなどできるはずはないのだ。
これまでの実践には誇りを持つべきなのだ。他者に認められないのなら、少なくともいまの自分が過去の自分を認めることから始めよう。そこから次の段階が見えてくる。
通勤電車の動画広告でハーレーダビッドソンが電動のオートバイを発売するというニュースが出ていた。バイクのシンボル的なブランドが電動の世界に踏み出した影響は大きい。
ガソリンエンジンで動く車は今後減産されていく。環境対策であることは明らかだ。ただ電動化すれば環境問題が解決するかのように考えるのは錯覚というものだ。発電にも、車体を作るのにも、道路を維持するのにも大量のエネルギー消費がなされることは変わりない。現在の技術では電動化した方が効率が下がるという試算もある。
いずれにしても技術に依存しすぎてはならないようだ。移動しなくても幸福な日々が送れる社会を構想した方がいい。
定期的にみる幻視がある。開発されたいまの住まいの周辺のはるか古代の姿だ。それは妄想にすぎないが私にとっては楽しい時間である。
多摩地域には多くの古代遺跡があり、その中には住居や墳墓が復元されたところもある。そのような地を訪れると古代を幻視するヒントがある。私はたびたび遺跡に行くのでそれが身についているのかも知れない。
現代の建物を取り去り、治水のために変わった地形を仮想し、外来種の動植物を除去して、そこに価値観がまったく異なる先祖たちを歩かせる。根拠はないがいまとは異なる世界を浮かび上がらせるのだ。
私はその地では恐らく長くは生きていけまい。でも、なんとも魅力的な世界なのだ。
5月も半ばになった。昔からこのあたりの季節には心身の不調を訴える人が多いという。真偽のほどは不明だが少なくとも私は警戒すべき期間だ。過去に何度か危機に陥ったことがある。
生活のリズムが変わることもあるが、気温が上がり、日較差も大きいことが体調管理を難しくするのだろう。一見、活気を帯びて見える自然の推移も自分の調子を超えてしまうとオーバーペースを招く。
意欲的に突進したいところだがまずは少しずつ呼吸を整え、気持ちを高めてからにしたい。無理の効く年頃ではないことは確かだ。
映画やドラマのモチーフの一つに時間軸の往来がある。過去に遡り、未来に訪ねる。それは決して実現できないことだが仮想することはできる。だから創作の域に入る。もし数年後の自分に合えたらと思うことは多い。あるいは過去に遡ってやり直せたらと思うこともある。それは人間としての性なのだろう。
量子力学の世界では世界は限りなく分岐して様々な平行世界が存在する可能性があるという。それが事実なのかどうかは確認ができない。確証がないということは存在しないということではない。だからその可能性を信じていろいろな空想が生まれる余地があるのだ。
さらに創作のモチーフとして時間の繰り返しがある。リピートする時間の中で人は運命に逆らえず同じことを繰り返す。何度やっても同じ結末になる。その切なさをテーマにして作品は進行していく。分岐や繰り返しは時間の概念を乗り越えられる創作の特権だ。
実際は時間の流れに抗うことができない。その性への抵抗が創作の魅力になっているのだろう。
