変身願望

 仮装ではなく本当に別人になってしまいたい気持ちになることがある。おそらく多くの人がそのように考えたことがあるのではないだろうか。そしてそれは不可能な願いなのだ。

 もっとも細胞レベルでは生物は常に新陳代謝をしており、一定期間で置き換わっているのだという。だからその意味では常に変身を繰り返しているともいえる。

 しかし、実感としてそれは変身願望には答えられない。それは自分の生の延長上にある加齢というものだからだ。変身するためには別の身体がいる。見た目も行動も全く別の者にならないと変身したことにはならない。

 年齢が変わったり、性別が変わったり、性格が変わったり、その組み合わせだったりするのが変身願望の理想的な完成形だ。現実には外見を変えることはある程度できるようだが、時間軸を往還することや、生命の神秘の領域となるとできることは限られる。

 擬似的に他人になりきることは文学や芸術の力でできることもある。昨今ならば仮想現実の中で他人になりきることもできるかもしれない。漫画やゲームがその役割を果たすこともある。でもこれはどこまでもバーチャルのことであり、少しも自分は変わらない。

 私はしないが化粧することは自分を他者からどのように見られたいのかを示すメッセージだろう。服の選び方とか着こなしの方法も実は変身願望の端緒に当たるのかもしれない。

 結局、自力では他の誰にもなれないことになる。よく考えれば自分の存在は他者の目によって認識されるのだから、変身などしなくても人によって自分は様々に変化しているとも言える。なんとも不思議なものだ。

自分以外にはなれない

There are times when I feel like I really want to be someone else, not in disguise. Many of us have probably thought about it. And it’s an impossible wish.

However, at the cellular level, living things are constantly metabolizing and being replaced over a period of time. So, in that sense, we can say that we are always transforming.

However, in reality, this is not an answer to the desire for transformation. This is because aging is an extension of one’s own life. In order to transform, you need a different body. You have to look and act like a completely different person to be considered transformed.

A change in age, gender, personality, or a combination of the three is the ideal completion of the desire to transform. In reality, it is possible to change one’s appearance to a certain extent, but the ability to travel back and forth through time and the mystical realm of life is limited.

In reality, we can change our appearance to some extent, but when it comes to time travel and the mystical realm of life, we can only do so much. Nowadays, it may be possible to become someone else in virtual reality. Comics and games may play a role in this. But this is all virtual, and it doesn’t change you in the slightest.

Wearing make-up, which I don’t do, is a message of how you want to be seen by others. The way you choose your clothes and the way you dress may actually be the beginning of your desire for transformation.

After all, you can’t become anyone else on your own. When I think about it, my existence is recognized by the eyes of others, so I can say that I change in various ways depending on others, even if I do not transform. How strange life is!

ハロウィン

日本でもハロウィンが行われているが、その意味を理解している人は少ない。子供の行事としてではなく商店の売出しの手段、大人のバカ騒ぎの言い訳として定着している。しかし、昨今のコロナ禍の影響で暴徒化する不届き者はしばらく途絶えている。

ハロウィンの化け物の正体は実は先祖の霊魂であるという。このあたりは日本の民俗に見られる鬼の形相をした先祖まつりと似ている。神と怪物は紙一重であり、まして劣勢の神話は妖怪化しやすい。祖先神とともに邪悪な霊が来訪するという考え方も日本の施餓鬼棚の習慣とよく似ている。仮装する行事としては京都の節分おばけが知られている。鬼面や天狗面をつけて先祖の霊になりきる行事は日本各地にある。ケルト人の信仰が元と言われるが、日本民族と直接の関係がない民俗に共通点があるのは興味深い。キリスト教とは無関係の行事なのでこの習慣がない国も多いらしい。

日本でハロウィンが受け入れられたのはもちろんアメリカとの関係によるものであろう。また、クリスマスまでの商機に利用されたこともある。ただその基層部分には古代信仰の偶然の類似があると考えられるだろう。それを意識している人は少ないにしても。

ハロウィンの起源には魔除けの要素も含まれていたという。もしそうであるならばウイルスという目に見えない魔物を退散させることを願いたい。東京では感染者数が激減しているが、世界的にはまた増加傾向が見られるという。完全に魔物が霊界に戻ることを期待して止まない。

Photo by Toni Cuenca on Pexels.com

Halloween is also celebrated in Japan, but few people understand its meaning. It is not a children’s event, but rather a means for merchants to sell their wares, and an excuse for adults to make a fool of themselves. However, due to the recent corona disaster, the number of rioting miscreants has ceased for some time.

It is said that the true identity of Halloween monsters is actually the spirits of ancestors. This is similar to ancestral festivals in the form of demons in Japanese folklore. There is a fine line between gods and monsters, and inferior myths are more likely to turn into monsters. The idea that evil spirits visit us along with the ancestral deities is also similar to the Japanese custom of the “Segakidana”. The Setsubun Obake in Kyoto is well known as a masquerade event. There are many events all over Japan where people wear ogre or tengu masks and pretend to be the spirits of their ancestors. They are said to be based on the beliefs of the Celts, but it is interesting to see the similarities in folk customs that have no direct relationship with the Japanese people. It is said that many countries do not have this custom because it has nothing to do with Christianity.

Of course, the acceptance of Halloween in Japan is probably due to the relationship with the United States. It was also used as a commercial opportunity until Christmas. But at the base of it all, there is a coincidental similarity to ancient beliefs. Even though few people are aware of it.

The origin of Halloween is said to have included an element of protection from evil. If this is true, I hope that it will help to get rid of the invisible demons called viruses. In Tokyo, the number of infected people has decreased drastically, but worldwide, the number is increasing again. I can’t stop hoping that the demons will completely return to the spirit world.

Translated with http://www.DeepL.com/Translator (free version)

Deeplで翻訳してみました。日本語の名詞の間違いを直しましたが、それ以外は結構、うまく行っているような気がします。正解はわかりませんが。

紅葉

 まもなく東京も本格的な紅葉の季節となる。最近は暑い夏と寒い冬に挟まれて春秋がとても短い気がする。それでも紅葉からそれが風に舞う頃は、秋を実感する。

 紅葉して葉を見るとどれもが同じように見えながらどれ一つ同じものがない。そこに命の神秘を痛感するのだ。様々な偶然のもとにたった一つの生命の形がある。その意味を噛みしめるのである。

 いつも思うのはもっとも美しい紅葉を選んで、永久保存したいということだ。それはかなり難しい。形あるものをそのまま残すのは困難だが、その前に一つを選び出すことができそうもない。仮にできたとしても、当の自分自身が永久ではないことを悔しく思うだけだろう。

失言というレベルでは

 麻生太郎氏の失言は日常的な出来事なので受け取る方もかなり麻痺しているが、今回の発言は選挙前ということもありかなりの影響をもたらすかもしれない。失言というより、事実誤認、さらには政治姿勢の根本に触れる問題発言だった。

 北海道のコメがうまくなったのは、農家の努力ではなく温暖化の影響という意味の発言をこともあろうに北海道の応援演説でおこなったという。応援された候補者には気の毒と言うしかない。温暖化とコメの生育の関係に科学的な証明ができていないこと、品種改良による努力を軽視するものであることなどそれだけで問題がある。それよりも国際的な動きとして持続可能性が喧伝され、その一つとして気候変動の減少と考えられている温暖化をあたかも天恵のごとく捉えること自体が政治家としての資質を問われるのだ。

 麻生氏は人間的な魅力のある人だと言われ、政治家でなければ好人物かもしれない。しかし、無知無配慮のリーダーのもとで生きる国民は不幸だ。これまでの失言歴だけでも普通の政治家であれば失職しているはずだが、経験と人脈が何とか支えてきた。ただし、自民党にとってそして国民にとってこの方はそろそろ政治以外の方面で活躍していただく方がいい。

生き残る

 劣勢に立たされた時にいかに生き残るかは大切な問題だ。目的が生存ならばうまく立ちまわる必要がある。そのために必要なのは少し先の展開を読む力だ。

 ならばその力はどこから生まれるかといえば、学問と経験によるものだろう。江戸を生き抜いた小藩の歴史にそのヒントを求めることができるかもしれない。

戦争は

 戦中の証言として当時を記憶する方から話を聞く機会を得た。その中で戦争末期の日本の捕虜に対する扱いが劣悪であったと語っておられたのが印象的であった。

 戦争の記憶が薄らぐとともに一部が美化されていく傾向があるのは感じていた。多い傾向として一部の好戦的な人たちが突出して多くの善良な人を無理やり戦争に駆り立てたというものだ。これが正しくないのは戦争を遂行しているのは誰なのかという問題と関わる。

 確かに戦争を遂行していたのは限定された人物だっただろう。しかし、それを行っていたのは普通の国民であったことを忘れてはならない。戦争という特殊な状況が人間を狂気に駆り立ててしまうことを再認識すべきなのだ。戦時中の出来事を意識的もしくは無意識的に美化していく流れを注意深く見つめ、あらゆる正当化の糸口を監視しなくてはならない。

水素エンジン

 飛行機が飛ぶときに大量の燃料を消費するのを考えると、持続可能性という観点では大いに問題があることになる。ガソリンの代わりに電気や燃料電池などで飛ぶ飛行機を作ればいいと思うが、技術的に問題がある。

 水素エンジンは一種の夢だ。実際には水素だけで飛ぼうとすると燃料タンクが大きくなってしまい長距離の飛行には向かない。様々なインフラを整備しなくてはならないことを考えると現実的ではない。ただ、化石燃料を使わない飛行機ができることへの期待は止められない。いつか爆音をあげない飛行機が飛ぶことを夢見てしまうのだ。

国会議員ならば

 短期決戦といわれている衆院選はいかに印象に残るメッセージを出せるかが鍵となっているらしく、本日の街頭演説にもキーワードが述べられていた。名前を連呼するだけでは投票にはつながらない。そういう意味では健全な選挙に少しだけ近づいたかもしれない。

 自民党政権が批判を浴びる中で、対案を出し切れていない野党のあり方にも歯がゆさを感じる。私は特定の政党を支持する者ではないが、批判ばかりで実質のない候補者には投票しないつもりだ。今日は少々気になることを聞いた。その候補曰く、昨今の政策は地方とのバランスを考えるあまり都市生活者の利益が侵害されているというのだ。選挙区が人口密集部であることを意識し、地元の利益を優先する見解であった。

 これはこれで間違ってはいないが、国会議員のあり方として問題を感じる。選挙区の利益を確保する必要があるのは分かるが、都市対地方の構造を打ち上げて、まるで地方が都市生活者のパラサイトであるかのようにいうのはおかしいのではないだろうか。都市生活者の権利を守るという名目のもとで地方住民を軽視することの弊害を考えないのだろうか。少なくとも国会は国の代表であり、地方の代表ではないことを考えていただきたい。

冷たい日本人

 興味深い記事を読んだ。他者を救済する人の割合をランキングすると日本は他国を引き離して最下位となるのだそうだ。調査項目には寄付をしたり、ボランティア活動歴、知らない人を助けた経験、支援団体の数などがあるが、そのどれもが世界の水準からかけなれて低いらしい。

 日本に住む私の実感として、この調査の結果は大いに疑問がある。確かに東京に住んでいると他人に対する配慮が少ない人を多く見かける。中には相当わがままな人もいる。しかし、世界最下位になるほどの状況には見えない。秩序正しいので、満員電車の中でもめったにトラブルは起きないし、ゴミを捨てて迷惑な人も少ない。であるにもかかわらずなぜこのような結果なのだろうか。

 思うに伝統的な日本の価値観にウチとヨソの枠組みがあることがその原因のひとつだろう。自分と同じ集団に所属していると意識する相手に対しては過剰なほど気を使うが、そうでない相手は無視しようとする。その枠組みがたとえば人種とか宗教とかそういうものではなく、きわめて個人的な感情に基づくので他人から分かりにくくなっている。

 それを日本人の特徴と考えればそれでいいし、何も他国のそれと合わせる必要もないかもしれない。ただ、社会がグローバル化するなかでこうした小さな集団主義は不利益の面ばかりが目立ち始めている。自分の集団だけで生活が完結できる間はそれでよいが、もうどうしてもそうはいかない。集団の枠を広げていってもそれでも追いつかない。もはやヨソ人と関わらなくては何もできない。

 ヨソ人に関心を持つことの延長上にボランティア活動や寄付行為などがあるのかもしれない。世界はつながっていて統一のルールのようなものがあるというのは一神教の世界では大前提にある考え方だろう。日本にはそういう考え方はない。似たようなものとしてお天道様があるが、規範性は薄い。だから、かかわりのないものへの関心が薄いのかもしれない。世界はつながっていて、他者を救済することは世界を救うことになるという考えは、日本人にとってはかなりの学習を必要とする考え方のようである。

 経済的な衰退傾向も自分たちさえよければいいという考えを転換すれば好転するかもしれないと考えている。寄付でなくてもいい、他者のために金を使うのだ問う思いが資産家にあれば、世の中はよくなっていく可能性がある。人助けは自分を助けることでもある。情けは人の為ならずとはよく言ったものだ。「冷たい」日本人がこれから何をするべきなのか。実はその行動にこの国の命運がかかっている気がする。

フォークソング

 中学生にフォークソングを知っているかと尋ねてみた。するとほとんどの生徒が知らないという。民謡と混同する者、ダンスの方を想起する者など意外な結果になった。

 もっとも私の言うフォークはいわゆるニューミュージック世代以降のものであり、政治的色合いがあった先輩たちのそれは実感としてはない。かつてのソングブックには反戦ものや四畳半ものが少なからず掲載されており、練習用に歌ってみたこともある。ただ憂鬱でつまらないものであった。

 おそらくいまの若い世代にフォークソングを聞かせても演歌の様に聞こえるかもしれない。分かりやすく類型的なコード進行にセンチメンタルな歌詞、私小説的世界観、単純な伴奏、そのどれもが隔世の感覚で捉えられるかもしれない。

 それを嘆くわけではない。時間が経ったということである。