分配の方法

 18歳以下の国民に10万円の分配をするという法案について議論がなされている。結論から言うと反対である。私の家族に該当者がいないという理由ではない。困窮の度合いに無関係に金を配るというのは愚策であり、財政破綻をしつつある我が国の国益に大きく反する。

 かつては貧乏人の子沢山という言葉があった。しかし、いまは財力がなければ子どもが作れない時代だ。子どもがいるということは資産があるということにもなっている。もちろん、これには個人差があって一概に言えることではない。それでも子どもの数で金を分けるというのはいまの時代には合っていない。

 子どもをつくれば将来にわたって支援金が出るというのなら話は別だ。しかし、今回の給付はあくまで一時的なものであり、国民の分断を生む以外の効果はないように思える。一部の政党の選挙に勝つための戦略であって国益に沿うものではない。

 収入が少なく、善良な(犯罪を犯していない)国民に対して分配するのが優先順位としては先だろう。経済的な保証ができれば希望も持て、就職も可能となり、結婚も可能だ。働いているのに収入が増えない層へ手厚く分配する方法を考えるべきではないか。

 補助を受けるべき人々の基準を明確にしなくてはなるまい。年齢で区切ることは簡単だがそれではバラマキだ。前回の国民全員への給付が経済効果をあげていないことを考えたい。

 分配しなくてはならないのは現在の厳しい現実を乗り越えるための知恵や、相互扶助の精神の徹底だろう。富めるものが篤志の心を持ち、社会のために消費することの美徳も伝えるべきだ。政治家だけの役目ではないかもしれないが、きっかけは作ってほしい。

Photo by Karolina Grabowska on Pexels.com

入力過多

最近の苦しみの一つは入力過多にある。いろいろな情報を入手するのはいいが、それを自分なりに消化し、言語化しえていない。わかったつもりになっているが、実は何も理解できていない気がする。

この悩みを解消するためには、未消化であっても自分の考えを言葉にしなくてはならない。これは難しいことだが、それをしなくては前に進めない。言葉にするにはどうすればいいのか。それは完成形をすぐに求めないことが必要だろう。

作家の草稿を見ると結構多くの書き直しがあることがわかる。作家だけではない画家でさえもたくさんの習作を重ねてやっと作品にたどり着いている。私達は最終形態しか見ていないのであたかも最短距離で作品ができあがっているような感じになる。でも実際は底に至るまでの様々な習作があり、試行錯誤しているのである。

このブログはその習作を臆面もなく発表する機会と考えている。本当の作品はいづれまとめることにして、今は考えたことをひたすら文字にしていく。出来損ないの集積であるが、よろしければお付き合いいただきたい。

古典文学の文庫本

 学生時代は『万葉集』をよく読んだ。国文科の学生であったからそれは教材であり、研究材料でもあったのだが、いまは心の拠り所のようなものである。

 職が変わり日々の業務に忙殺されている間に古典文学を教材としてしか扱わなくなってしまった事に気づいた。文法やその他の知識を生徒諸君に伝達することは教員として大切な役目だ。それを効率的に行うことで仕事の評価がなされることにもなれてしまった。相当な違和感を常に感じながら。

 古典を読む意味は試験に受かるためだけではない。むしろそれは二義的なもので本道から外れる。それに気づいていない教員が多いのはとても残念だが、教員がそうなのだから世間の人々の大半は古典文学は単なる受験の一科目くらいにしか考えていない。

 しかし、古典は様々なことを考える切っ掛けであり、道標でもある。過去の人々の心の足跡に触れることで現状を捉え直すことができることがある。とても大切なことではないだろうか。最近古典文学の文庫本をもう一度開くことにしている。一部は何度も開き壊れそうになっているのでまた買い換えよう。

 相変わらず読んでもわからない部分がある。解釈できない部分さえもある。それでも何度も付きあているうちに読めてくるときが来るかもしれない。それは自分自身の読解力の向上だけではなく、精神の成長に関係するのではないかと考えるのである。


土曜の混雑

 通勤電車の話である。土曜朝の電車が今朝はかなり混んでいる。在宅ワークを止めた企業が増えたのだろうか。日常が戻りつつあることを実感するとともに、また悪夢が再現されないか心配でもある。私はあいも変わらず儚い夢を実現するために職場に通い続ける。

乾燥

 このところ晴天続きで空気が乾燥している。爽やかな陽気はよいが、少々厄介なのは風邪の心配だ。マスク着用生活が日常となったためにインフルエンザの流行は少なくなった。昨季は非常に少なくなったと思う。

 しかし、これは新しいインフルエンザウイルスへの免疫力が後退したことに繋がるのではないだろうか。証拠がないので単なる危惧に過ぎない。コロナ対策だけではない健康管理をしなくてはなるまい。

 国産のコロナ対策ワクチンの開発が進んでいるらしい。遅くなってしまったが安心感はまず。色々大変な季節でもある。

新生活

 ニューノーマルなどという言葉が独走したが、気がつけばもとの生活が戻りつつある。安堵するとともに危機感も覚える。塩梅を間違えると後退にたどり着く。毎日の点検が必要であると最近は痛感するのだ。

文化

東京では文化の日は穏やかな晴天だった。かつては天長節であったこの日はなぜか晴れの特異日の一つであるという。それが文化の日となった経緯は興味深いが今日はその話題にはしない。文化とは何か、そして文化を伝えることの重要性を実感しているということを述べたい。

日本には日本の生活様式なり、思考の形式というものがある。それは特に優れているというわけではなく劣っているわけでもない。私は日本人なのでそれに対して誇りをもち、優越感を感じることもあるが、これはあくまで相対的なものであることも知っている。どの民族の文化もそれが成立するまでには洗練を繰り返しており、全てが素晴らしいはずだ。理解するのが難しいのは文化が違うことが要因なのである。

それでも日本の文化を海外に広めたいと思うことが多い。こんなふうに考え、行動すれば大変興味深い効果が生まれる。それを多文化の民族にも知ってもらいたいと思うのだ。おそらく多くは奇異と思われ、中には評価する人も出てくるはずだ。その一部の人にでもいい。日本の文化を知ってもらいたいのだ。

文化を伝えるためのもっと良い手段はその国言葉をつかてもらうことにあると考える。ただ、それは非常にハードルが高い。私など何十年も英語を学んでいるというのに未だに満足に日常会話すらできない。でも、日本語を知っていただくことは文化理解の第一歩なのだ。このブログを海外から見ていただいている方もいるかも知れない。翻訳ツールを使えばおおよその内容はおわかりいただけるはずだ。でも本当は日本語を少しだけでもわかっていただけたほうが真意が伝わる。私も外国語の学習を続けていきたい。それが異文化への接点になるというのであれば。

欅の紅葉

欅の紅葉

 近隣のショッピングモールに植えられたムサシノケヤキが紅葉していた。照明に透けて見える葉の色は不思議な鮮やかさだった。すでに落葉が始まっているので、この光景も数日限りだろう。

発想

 脳にも体力が必要だ。最近はこれを痛感する。疲れると判断力や思考力が低下する。怠けたりさぼったりするのとは明らかにちがう。進もうとしても身体が動かない。まさにそのような感覚だ。

 新しいことを発想することの難しさもここにある。よくはわからないが発想には相当のエネルギーが必要なのだろう。だから、体調がよくないと発想が湧かない。衰えた体力で発想をし、それを残すにはどうしたらいいのだろうか。その戦略を考えるべきだ。

 最近、動画サイトをよく見るようになったが、これはほどほどにしなくてはならないと気づいた。分かりやすい動画を見るほど自分の脳の体力が落ちてきている。歩かずに目的地に行き続けると歩けなくなるのと同じだ。しかも、動画の結論は目的地でさえない。

 自分で歩く、つまり頭を使う機会を増やすこと、そして気づいたことはまとまらなくても文字や絵図に残すことが大切だ。私の戦略は思いつきをメモすることとすることにした。このブログもその一つだ。

ほどほどに

 私ももうすぐ高齢者の仲間入りをすることを考えれば、生活のダウンサイジングを考えていかなくてはならない。もちろん、働ける限りは働きたいと考えているし、過去の実績には拘らずできることなら何でもしたい。それでも現在の収入を維持することは不可能であるし、この先の日本経済も不透明なのは不安である。

 「ほど」とは程度や段階を表し、身の程とか、程の良い、といった言葉がある。ほどほどという言葉がある。これは自分にあった程度や段階ということであるとともに、身分や分際に見合ったものという意味も持つ。これから私がやらなくてはならないのはこのほどほどに生きることだ。増やすのと違って減らすのは簡単と思いがちだが実はそうでもない。特に何でも取っておきたい私のような考えの持ち主のものにとってはほどほど生活はかなり困難だ。

 このブログは半分以上自分に言い聞かせるために書いている。だから、あえて文字化しておく。