やる気がいつ起きるかは分からない。特に歳を取るとこれが一番の問題だ。若い人にはせめてやる気を起こさせるようなきっかけを話してみよう。若い人たちには可能性がある。いつか追い抜かれて、そんなこともありましたっけね、などと言われれば本望というものだ。
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日々の思いを言葉にして
やる気がいつ起きるかは分からない。特に歳を取るとこれが一番の問題だ。若い人にはせめてやる気を起こさせるようなきっかけを話してみよう。若い人たちには可能性がある。いつか追い抜かれて、そんなこともありましたっけね、などと言われれば本望というものだ。
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空気を読めないの意味ではないようだ。まさかこの毒のある略語が標語となるわけかない。そう思いながら長年分からないことがあった。検索でもすればすぐにわかることだろうがそこまでの意欲はわかなかったのである。
建設現場にはこのKYの文字がたくさんあり、どうも推奨しているようだ。必ず実行すべきもの、毎日意識せよといった言葉とともに並んでいる。流行した同調圧力を伴うあの意味とは違うことは確かだ。疑問は深まるばかりだ。まさに全く空気が読めない状況だった。
最近この謎が解けた。Kは空気ではなく危険、Yは予知で危険予知という建設業には欠かせない心得であることが分かったのだ。大きな資材や器具などを使う建設現場は危険と隣り合わせだろう。常に最悪の事態を想定し、それに備えることは現場の方々には最重要課題だ。しかし、日常化するとそれを忘れてしまうことをあるのかもしれない。この標語で常に気を引き締めようと言う訳だ。
様々な業界用語がある。その中には自分の生活にも活かせるものもあるようだ。KYは自分への戒めにもいただいておこうと考えた。
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ペーパーレスにせよといってもそう簡単にできるものでもない。大きなスキャナーなどがなくてもスマホだけでも紙のデジタル化はできるし、ただの写真ではなくテキストとして認識するアプリもある。それも安価だ。無料のものまである。
ただどれだけ環境が整ったところで、紙を捨てられないのは肝心の自分自身の脳の働きが影響しているようだ。情報と紙面という物との対応が思考の過程で不可欠なのだ。
これをどちらかに振ってしまうのは進歩とはいえない。私の場合は両方で生きていくしかないと考えている。肝心なのはデジタル化という過程だ。これを習慣化すれば次の世界が見えてくる。暫くは両生類として生きることにする。
11月は今日で前半終了だ。小の月だから明日からが後半となる。短い月だが祝日が2回あってなかなか調子を掴みにくい。
休日を活かせるのはやはり一種の才覚だと感じる。最近は休日も負担に思えることがあるからよろしくない。休むときは休む。平日とは別のことをするのがいい。
中学生レベルという言葉に初心者、入門という意味を感じるとすれば必ずしも正しくない。義務教育の最終段階である中学校が教えることの内容は必ずしも初級のレベルにとどまっていない。おそらくすべての教科を中学生レベルでできたならばかなりの教養がある人ということになる。
学校の勉強というのはできなくて当たり前という感じがいつの間にか出来上がっている。テストで60点しか取れませんでしたといえば、まずまずではないかということになる。中学生への励ましならばそれでいい。成長の過程はそれぞれ人によって異なるし、その時できたからといってあとまで続く知識や技能として血肉化しているのかは別問題だ。だから60点だろうが30点だろうが構わない。
でも、どうだろう。卒業後もそれでいいのかといえば問題がある。私たちは中学生レベルを目指さなくてはならない。せめてすべての中学生向けテストで80点以上取れるように努力しなくてはならないと思う。テストなんて今さら受けるのは嫌だと思う。私もだ。受けなくてもいい。ただ、中学生の学んでいることを知らなかったり、知らないことで平気でいることはやめた方がいい。できないならできないなりに努力したいし、せめてできる人に敬意を持つべきだ。
念のために言うが中学校で学ぶものには音楽や美術、家庭科、保健体育もある。それも含めて中学生レベルになることを私も意識しておきたい。
真面目に副収入を得ることを考えなくてはならないと考えている。金が欲しいということもあるが、それよりも他者から認められるスキルなり、体力なりを作っておかなくてはならないと痛感するのだ。
サラリーマンとして長年暮らしていると自ら稼ぐことに無頓着となり、アイデアも能力もない気がする。しかし、きっと何かあるはずですねと最近考えるようになった。人様からお代をいただくためには何らかの利益を提供しなくてはなるまい。人を幸せにするために何ができるのかを考えるべきだ。
情報化社会でなんでもすぐに手に入る時代だが、ネットでは入手しがたいものやことを提供することが大事だろう、挑戦が始まる。
試合において劣勢になり、負けが感じられるようになると、どうしても心が萎縮する。できるだけ被害を減らすことを考えるのだが、その第一が精神的な保護なのかもしれない。
負けが濃厚になるとその理由を探し出す。まずは誰かのせいにし、適当な人物がいないときには社会のせいにする。確かにそういうときもあるのだが、本当の原因は自身にあることも多い。それを認めるのは辛いので他者に転嫁することになるのだ。これは自身の防衛のためには大切であり、必ずしも責められるだけのことではない。
ただ、それだけでは現状を打開できない。まだ負けていないのかもしれない。安易に抵抗の意志を捨ててはならないのではないか。これはあくまで自戒の文章である。
昨夜はかなり長い間強風が続いた。天気図によれば西高東低の気圧配置だ。しまがまだ南北になっていないので、本当の冬型とはいえないのかもしれない。寒気が入り込んでかなり気温は下がった。
風の音て時々目が冷めた。少し布団を厚くしなければならないとも感じた。季節は進み、この月も中旬になっている。やるべきことは少しずつ、だが確実に進めていこう。
寒いのはいろいろ困るが、心が研ぎ澄まされる気がするのはいいことなのかもしれないと考えている。冬になるのも悪いことばかりではない。
抽象的な話になるが私たちの生きる世界は実に多様な側面を持っているようである。自分が目にしていることですらそれは多くの別の見方と同列の一つに過ぎない。絶対にこれしかないとは思っても、別の視点では異なっているものなのだ。
世界は考え方次第でいくらでも変わってしまう。その不安定さを避けるために何かの規範に身を置こうとするのだろう。規範を壊すものは不安定の闇に人々を突き落とす行為だ。だから、私たちは破壊者を憎むのだろう。
買わなくてもいいものを買ってしまうのはなぜだろう。一つには習慣の効果が大きい。時間、場所、前後の出来事、その他いろいろな条件が揃うと買い物をしてしまうことがある。これはかなり意識して止めなくては繰り返す。
現状把握が不十分なのも問題だ。今足りないのは何か、不足をきたさないためにしておくことは何かを考えておくべきだろう。思ったより不足はなく、むしろ使われることを忘れられているものが多いものだ。
買わずに済んた喜びを記憶しておくことも大事だ。買い物がストレス発散になるというが、買わずに特をした喜びは自覚しにくい。それを言語化することは買いすぎを防ぐ手立てとして必要だ。