惑わされずに

 南アフリカ共和国で発見されたという新型コロナウイルスのオミクロン株は、感染力の強さが懸念されている。未知のウイルスであるのでどのような症状が出るのかは予測しがたい。この報道をきっかけに世界中の株価に影響があったという。もっとも株式の世界は様々な要因が複合し、さらには群集心理が左右するので一概には言えないことだが。

 日本では奇蹟と言ってもいいほど発症者が減っている。しかし、これは一時的なことのようだ。隣国の韓国は日本とほぼ同じ条件かむしろ防疫に成功してきたのに今になって感染者が爆増している。欧州の感染者はさらに多いが、これらは来月もしくは数か月後の日本の状況かもしれないのだ。幸い、日本人の律義さもしくは臆病さは保たれており、いまだにマスクを外して歩く人は少ない。むしろに日常化してファッションの一部になっているともいえる。

 先日、ウイルス研究の専門家に話を聞く機会があったが、ワクチン接種は科学的にも意味があるらしい。陰謀説を始め、さまざまなデマを流す人々のことを憂えていた。中には自らは接種をして、ソーシャルメディアではワクチンは危険だと吹聴する輩もいるらしい。それが商売と結びついているというのだから厄介だ。

 ワクチンの有効性についても私たちは最終的には自己判断をするしかない。ただ、それでも科学や社会学のリテラシーを持っていないと迷信やデマに振り回されることになる。

行き交う人

 通勤電車の乗車時間は大体決めている。日によって前後することはあるが、平均的にはある時間発の車両に乗っている。私のような方は多いのではないだろうか。

 同類の方の中には顔を覚えてしまった人もいる。この方とはいつも駅前であう。この方とはもう少し自宅よりの角で行き交う。というふうに場所と関連づけて覚えてしまった。その方の名前や仕事は知らない。ただ、ほぼ毎日お会いするという点においてはすでに赤の他人とは別次元の存在になっている。

 私が遅刻気味のときはより自宅近くでお会いすることになる。私にとっては足を早めよという指標である。逆に私が定時に家を出たときは、お会いする方々の出会いの位置によってその方になにかあったのではと微かに考えることもある。そういえば今朝はお目にかからなかったと思い出すときは心配することもある。わずかな時間だが。

 相手が私のことを認識しているとは思えない。恐らく私のように考える人は少ないだろう。山道を行き交う登山者のようにせめて挨拶でもできたら世の中は随分変わると思う。

 儚い夢物語である。

周囲を確認してから

 最近、電車内での凶悪犯罪が続いた。断続的にこの種の事件は起きるが最近はその頻度が上がっているような気がしてそら恐ろしい感じがする。

 私はこのブログの大半の日を通勤電車内で書いている。最近は混雑も激しくなってきているのでつり革につかまり、右手親指でのフリック入力だ。ただ書き始める前に周囲見渡す習慣ができた。状況把握は不可欠だと思う。

 最近は車内でスマホを持っていない人のほうが少ない。何かに熱中するのはよいが、安全確認は怠ってはならない。残念だがこれが現実だ。

地域格差

 人口減少に情報社会が相乗すると地域格差は一層広がってしまう。

 政府が用意したSociety 5.0の広報ビデオには交通不便な場所に住む高校生らしき人物が登場する。生活に必要なものは無人操作のドローンが配達し、人工知能を搭載した冷蔵庫がレシピを提案、昼食のパンはいつもの商店に予約と支払いまで済ませてくれる。

 学校へ向かうバスは自動運転で利用者が指定した場所にバス停がなくても停まる。そこには憧れの先輩がいて同乗することになる。

 夢物語であることは差し引こう。いかに便利になったとしても過疎地に若者は住み続けてくれるだろうか。人口減少が進んで都市の生活費が今より下がることは考えられる。それでもドローンしか通えない場所に住み続ける意欲は継続するのか。そこを考えなくてはならない。

 バスを降りた後の学校も不安がある。都会の学校と遜色ない質を保てるのか。希望が持てる学園生活を提供できるのだろうか。そして広報動画のように素敵な先輩が通って来るのだろうか。

 格差の問題を解消するのは技術だけの問題ではなさそうだ。東京にいなくても不利ではないと実感できるシステムや、地域ならでは価値の創出が欠かせない。

都心の神社

 都心にある神社に行ってきた。そこにだけある静謐は脆く見えてしっかりと形を表している。どんなところにもこういった不思議な空間があるのだろう。しばし、雑念を捨てて手を合わせることにした。たまにはこういう時間もいるものだ。

日本では沈静化

 日本のコロナウイルス新規感染者は今日143名だったという。これが真実だとすればウイルス対策はかなりうまくいっていることになる。一方で欧州では感染者が増えつつある。特にオーストリアやオランダは多く、英独もそれに続く。

 ワクチン接種がどの程度行われたのかも関係するかもしれない。日本の接種開始時期は遅かったが、多くの人が短期間で接種に応じた。また接種後もマスク生活と手指消毒を欠かすことがない。同調圧力の強い国民性は予防対策には向いているようだ。

 ワクチンの有効期限が切れれば欧州と同じようになるとの意見もある。まだ油断ならない日々が続いている。


自分で考える面倒な作業

 AIがより実用的なものになった時点で私たちの能力はどうなっているのだろうか。様々な無駄を省き、効率的に物事を進められるようにプログラムされるはずの人工知能に我々はただ従うだけになるのだろうか。

 便利なのものができると得られることと失われることがある。例えば私たちは火を使う際に苦労することはない。ガスコンロをひねればすぐに加熱は出来る。電気式なら炎さえいらない。その代わりガスや電気がなければ火をおこすことは難しい。かつては誰もができたことが誰にもできなくなっている。

 AIが完成しなくてもすでに私は初めて訪れる場所にナビゲーションなしで行くことは困難だ。私だけではなく多くの人たちに共通するはずだ。地図を読む力も落ちている。

 何も考えず、面倒な作業をしないで済むことは幸せなのだろうか。恐らく数知れない利益を齎す一方で、痛切な重大事を見失う可能性がある。先のカーナビの譬えでいえば、ナビに従うあまり、閑静な住宅街に迷い込む経験は何度かあった。確かに近道なのだが、果たして進路としてふさわしかったのだろうかと考えると疑問が残る。近道を選べばいいのではないという選択は今のカーナビにはできないようなのだ。

 どんな時代になっても自分の行動に自分で責任を取ることができる能力を持つこと。取れなくてもせめて自らの判断が幾ばくかの影響があったと考えられるほどにしておくことは大事であり、これからの教育関係従事者の目標となるはずだ。

判断力の低下

 加齢すると判断力が低下するのは高齢者の自動車事故の事例からも容易に分かる。残念ながら脳の機能が低下してしまうのはいかんともしがたい。ならば、どうすればいいのか。AIに頼るというのはもちろん一策であるが、まだそれが実用化するにはもう少し時間がかかる。

 では、何ができるか。いまは自分なりに学習し、理屈で生きるしかなさそうだ。アルゴリズムを自ら作っていくということだ。機械がやってくれる前に自分で考えることになる。もちろんコンピュータのようにはできない。単純な法則を決めてやるしかないのだろう。

 その意味では昔から言われてることわざというのは知恵のエッセンスのようなものだ。短い言葉のなかにやるべきこと、してはならないことが詰まっている。ただ問題なのはことわざには相反する内容がある。「急がば回れ」と「善は急げ」は真逆だ。そのどちらを取るのかは今置かれている自分の状況を分析して判断していくしかない。ただいずれにしても行動を単純化するのが高齢者の瞬時の判断力低下の補助になることは確かだ。

新しい社会

 政府が推進するSociety5.0という未来構想はビッグデータとAI技術を駆使して、仮想空間と現実空間をリンクさせるという構想だ。科学技術で未来を豊かにするという考え方自体は近代科学至上主義の延長上にある。経済的な発展と環境問題や精神的な満足感との調和はそう簡単にはいかないとは思うが、この構想はあくまで理想を語っている。

 総務省のサイトで公開している動画を見るとわかるが、登場する人物の大半は日本人であり、写り込んでいる未来の製品の多くは日本企業の製品である。この点においてすでに現実離れをしている。私達はアメリカや中国や韓国、その他の国のICT機器を使い、ネットワークも外国のものである。日本の製品は部品レベルとなっているのが現状だ。果たしてAIが日本人向けのサービスを展開してくれるだろうか。

 グローバリゼーションの流れを止めることはできないのは事実だ。Society5.0はおそらく非日本社会になることなのだろう。日本人が自分の国のことを自分で決められない社会になるのかもしれない。そして、これは日本だけの問題ではなくなっていく。総務省のキャッチフレーズは人間中心の社会であるが、ここでいう人間が何を何を指すのか、誰のことなのかは再考しなくてはならないようだ。


大声の独り言

 大きな声で独り言を言う人は昔からいた。何らかの障害がある場合とそうでなくともいわゆる心中思惟が言語音声化しやすい人はいるものだ。加齢も関係するかもしれない。私も気づけば声を出しており周囲から呆れられている。

 最近はその範疇に入らない人でも独り言をしゃべっている風景をよく見かける。耳にはイヤフォンをつけて。その機械がワイヤレスだと一層独り言感は強まる。

 お分かりいただけたかと思うがこれは独り言ではなく、そこにいない誰かとの通話なのだろう。周囲からは相手の声が聞こえないので完全に独り言に聞こえる。

 先日などは激怒している人を見た。例のワイヤレスイヤホンをつけているその人の前には誰もいない。ただ何かを激しく叱責しているのだ。怒りのあまり周囲が見えなくなったのだろう。個人情報も結構聞こえたが、誰も知らないふりをしている。

 コミュニケーションに場所の制約がなくなったことは、技術の進歩だ。しかし、それに追いついていないのが私たちの振る舞い方なのだろう。