音韻の種類が少ない日本語には数多くの同音異義語がある。漢字で書き分けることで書き言葉の体裁は保たれている。漢字廃止や制限に関する議論はいつでもあるが、この性質上安易な処置は言語の質を損なうことに繋がる。
この不自由さはときに文芸の利点となることもある。和歌に見られる掛詞や序詞には同音異義語を意図的に活用したものだ。表現の幅を広げることにつながっている。
同音異義語の言葉が関係する物語を書こうと思っている。文才はないがあくまで楽しみとして。多義語を絡めてもいい。言葉は使いようで可能性が広がる。
日々の思いを言葉にして
音韻の種類が少ない日本語には数多くの同音異義語がある。漢字で書き分けることで書き言葉の体裁は保たれている。漢字廃止や制限に関する議論はいつでもあるが、この性質上安易な処置は言語の質を損なうことに繋がる。
この不自由さはときに文芸の利点となることもある。和歌に見られる掛詞や序詞には同音異義語を意図的に活用したものだ。表現の幅を広げることにつながっている。
同音異義語の言葉が関係する物語を書こうと思っている。文才はないがあくまで楽しみとして。多義語を絡めてもいい。言葉は使いようで可能性が広がる。
私にはそんな経験はないが遠い異郷のことを絵画なり文学作品なりにすることは意外に難しいかもしれないと思う。描く手がかりとなる表現が見つからないかもしれないからである。
もちろん、それまでに獲得した語彙や表現方法で、他郷を描くとこはできるはずだ。でもそれは結局は経験をそのまま表現していないのではないだろうか。比喩比況の手法で近似値を語っているに過ぎない。
都から地方官となった貴族の文学をみると大抵は都の文學そのままである。地名が詠み込まれることでようやく地方性を保っている感がある。生活圏を離れて創作することは意外にも難しい。
このところいわゆるゲリラ豪雨が続いている。雷鳴を伴うことも多い。梅雨の終わりの天候なのか。週末には暑い日々が始まるかもしれないという予報もある。
オリンピックはせめて猛暑ではない日にやってほしい。そもそも期間の設定がおかしかったのだ。
絵画の話である。見たままに描く、写真のように描くのは分かりやすいリアリズムだろう。遠近法や陰影の表現などを駆使すればこの方面に近づく。写真も厳密には絵画の延長であり、機械の力を借りた平面化だ。
一方で、写真のように描かないリアリズムもある。感情というベクトルを加えた視界は写真とはかなり違う。そして実際に私たちが目にして感じているのはこちらの方だ。対象に何を感じているのかは絵画でないと表せないのかもしれない。
絵画のみならず表現されたものには、表層に感知されるものと深層に潜むものがある。深層を楽しむことこそ芸術の真骨頂だと考える。
こんなことを考えたことがある。どこか遠くの地方都市に迷い込み、知らない場所を訪ねたのはよいが、帰り方が分からなくなる。とりあえず歩き続けてようやくバス停を見つける。次の便はあと2時間後らしい。かなりあるがないよりはいい。何よりも今いる場所から抜け出せる。それだけでもいいと。
2時間経ってもバスは来ない。3時間、4時間過ぎてもまだ来ない。このバス停は偽のものか。あるいは今日は来ないのか。
そんな妄想が脳裏に巡る。こんな経験はしたことはないはずなのに。リアルなイメージで浮かび上がる。何かの暗示なのか。疲労の果ての幻か。よくわからない。
来週には梅雨明けもあるかもしれないという予報が出た。オリンピックに合わせて真夏が来るようだが今回はなんともむなしい。その前に警戒しなくてはならないのがこの時期の大雨だ。
詳しく調べてはいないが7月中旬は大雨の被害発生の例が多い印象がある。ここまでの長雨に、まとまった降水が重なり害を広げるのだろう。
ウイルスの不安も消えない中でやらなくてはならないことがいくつもありそうだ。
植物にちなむ日本人の人名は多い。特に女性の名前には多いと考える。名字だけでも「木」「草」「花」「藤」「桂」などが使われるし、名前の方には「菜」や「葉」「葵」「百合」などの漢字が使われ、「みのり」「もえ」などの関連語がつかわれることも多い。植物はこの国の人にとって自分の名としてもいい程の身近なものなのだろう。
植物の豊富さもこの国の特徴だ。四季折々に花開く植物が生活に潤いを与えてくれる。だから、生活の一部に花の暦が取り込まれていることにもなる。自然に生える植物にも園芸の品種にも私たちは囲まれている。
時に都会を離れると当たり前のことを思い出すことがある。逆に言えば私の日常は極めて不自然で窮屈なものであるということになる。10数インチの画面に映し出される情報が世界のすべてであるかのように考えてしまっているが、実はそれは何でもない。ただの光の点滅だ。本当の風景を、植物たちのありようを見ることを怠ってはいけない。その名を負う人の尊さもそこから分かってくるはずだ。

東京にオリンピック期間、緊急事態宣言を出し続けることが決定された。海外でのワクチン接種は進み、大谷選手が活躍するボールパークにはマスクをつけていない人が多い。それはいまの日本ではなし得ない。
国際的格差が見せつけられることはしばしばあるが、ここまでの差は衝撃的だ。それは医療科学の差であり、それを後援する組織、政府の差でもある。
無観客でスポーツを行うことは大きな意味損失になるだろう。選手と観客が同じ場所にいることに身体の祭典の意味はある。もし、完全に無人の競技が始まるとしたらeスポーツのような仮想空間に限りなく近づいてしまうだろう。フェイク技術が発達しつつある今、スローにしても分からないほどの偽物も生まれるだろう。
ウイルス克服はいろいろな意味で急務だといえる。命と心を救わなくてはならない。
私たちの身の回りのものはすべて人間の平均的なサイズに合わせて設計されている。だから平均から遠ざかるととても不便だ。その範囲内で生活しているとなかなかこの事実に気づかない。
ところがその意味に突然気づかされることがある。私はここ数年老眼が進んで小さな文字がよく読めない。説明書の類はほぼ難しい。この障害はゆっくり始まって、漸増していく。私は通勤電車のなかでスマートフォンでこのブログを書くことが多い。細かいデジタルキーをタップできるのもいつまでだろうか。
急性のものもある。最近、左膝に水がたまり歩行に痛みを覚えるようになった。幸い医師の力を借りてかなり回復したが、それまでは大変だった。時に階段の昇降は辛く、あまり使わない駅のエレベーターのお世話になり続けた。こうなるとちょっとの段差が越えられなくなる。
ものごとを考える際、思いやりの気持ちが大切だとはよく言うことだが、こうした身体的な条件の違いを考えるべきだろう。実際に起きてしまうと厄介だから、せめて想像の力を発揮して自分とは別の条件の存在を考えるべきだ。
田園の風景を描く作品には魅力がある。ただ、それが画家によって選ばれた空間であることには注意するべきだろう。絵画は偶然の産物ではない。写真だってそれが芸術として撮影されたとき、映像の選択はなされている。
仮に私が画才を身につけ、田園風景を描くとしたなら何を対象とするだろうか。そびえ立つ高山や、小川のせせらぎ、田中の道を歩く人々などいろいろ思い浮かぶ。ただ、そのどれもがすでにどこかで見たことがある。絵になる風景というものは確かにあり、それ以外を描くことは難しい。
コンクリートとアスファルトに囲まれた毎日を過ごしている私にとっては田園は憧れの場所だ。だが、もし生まれたときからその地に暮らし、かつ都会の喧騒を知らずに育ったとしたらここまでの感情を抱くだろうか。田園風景が描かれる心的要因はいろいろありそうだ。