読み直し

 学生時代読んでいた古典作品をもう一度読んでみたいと思うようになった。私の場合は古典といっても文学なのでまさに趣味的な世界である。

 最も興味があるのが江戸時代のあたりの人物伝であり、いわゆる奇人伝と呼ばれるものだ。奇人と言うと精神異常者のように考えられるが、それだけではない。強烈な個性の持ち主ということになる。何か一つに秀でたものは他の方面では異常者のように見えることもある。それを描いたのが奇人伝のジャンルである。説話がさらに進化したものであるが、関心が人物そのものに向かっているところが中世のものとは異なる。

 もちろん昔の変わった人の話を読んでも何の益もないかもしれないが、日常の価値観を逸脱して自由になるためにどのような方法があるのかを考えるきっかけとしてはいいのではいだろうか。江戸の文学を読むための十分な知識は私にはないのでかなり恣意的な読みなるがそれもいいのではないかと割り切ることにした。

寒波到来

 かなり強い寒波が到来するようだ。私の住む東京の郊外でも明日は最高気温が8℃ということで、かなり寒く感じられそうだ。特に北日本や北陸地方ではかなりまとまった降雪も予報されており、かなり注意が必要だ。

 この季節になると北陸地方に住んでいたころのことを思い出す。ほとんど曇天の中で、雨が雪に変わるとなぜか心が明るくなったが、その後降り積もる雪に閉口することになる。私がいた期間は比較的降雪が少ない傾向にあったらしい。それでも一晩で1メートル以上も積もったときもあった。雪の重みで玄関が開かなかったり、車を動かすまでの除雪の思い出は強烈だ。ある日は除雪しながらすぐに降り積もる雪にうんざりしたこともある。

 公道に出ても心配だった。最初の年はスリップを繰り返し、制御不能になったこともある。幸い衝突や転落はなかったが、雪国在住者でも失敗はあるらしく、脱輪した車の救助を手伝ったり、田んぼに転落した車の中から人を助け出したこともある。

 東京に転居してからその経験はかなり薄れ、再び白い道を走る自信はまったくない。しかし、いつの日かまた北陸に住みたいと思っている私にとって、雪道に強い自動運転車の発明は待望のマシンである。

鱗雲など

 今朝もよく晴れている。青空の中に様々な形の雲がある。東からは鱗雲の列がある。反対には煙のような薄い雲が並ぶ。気温の低さがこのような現象をもたらしているのだろうか。吐息もそのまま雲になりそうな朝だ。

数学ができる文系

 いまさら文系理系などということ自体が時代錯誤なのかもしれないが、あえていうならこれからもっとも必要とされるのは数学ができる文系だろう。

 AIの発展により単なる技術系は存在感か薄くなる。必要なのはアルゴリズムを理解して行動できる人材だ。機械は法則にしたがって動く。法則はより複雑になるだろうが必ず何らかの基準をもとに動く。それを理解して将来の動きを判断できる人材がこれからのリーダーなのだろう。

 私が理想とする上司とはかなり異なるがこれは避けられない。この文章の読者がもしまだ学生なら少なくとも数学は捨てるべきではない。点数は取れなくても嫌ってはならない。十分に大人になってしまっていたら、子どもや後輩に数学の学習を勧めるべきだ。必ずその人の役に立つはずだ。

 私とて諦めてはいない。中学生の数学も解けないが興味だけは持ち続けたい。

苦しいときほど

 昨日が冬至であったということはこれからは昼の長さが増えていくことになる。気温は少し遅れて下がるから、まだ寒い日が続くが冬来たりなば春遠からじ。

 心の状態を保つのは結構難しい。ふとしたことから乱れが生じ、それがまたたく間に増幅してしまうことがある。不安は連鎖し他者にも影響を及ぼす。悪循環である。

 気分の好転もふとしたきっかけで起きることもある。それを見逃さないことが大切だ。なければ作らなくてはならない。苦しいときほど笑顔を作れという先人の言はそういうことなのだろう。

冴える時間

 最近、残念ながら頭脳の衰えを痛感している。恐らく身体的能力という局面においてかつてのような瞬発力や持続力がないのだろう。近年読んだ本の中で、脳細胞は他の器官よりは長持ちするものという説明があったが、やはりそれにも限度がある。

 恐らくこれからもっとこのような衰えを感じる機会が増えてくるのだろう。これは生きている以上避けられない現実だ。誠に悔しいが受け入れざるを得ない。

 ただ、そうであってもかなりうまくいくこともある。どうやら頭が冴える時間帯があるようだ。私はこのブログを10数分の満員電車の車内で書き上げることが多い。今もそうだ。完成度はどうであれ、私の頭が冴えるのは起きてすぐの数時間だ。それ以降はパフォーマンスが下がる。ならば冴える時間に創造的なものはやってしまうのがいい。

 以前も書いたが、これからは短期決戦だ。時間の使い方もこの考え方で行くほかはあるまい。


つぎはぎ

 記憶はときに曖昧になり、脱落したり変容したりする。過去を正確に再現することは難しい。時間が経てば経つほど、事実は分からなくなる。

 ただ、私たちの思考や行動がこれまでの経験に裏打ちされているのは紛れもない事実だ。その基準となるものが揺れ動くものであることが不思議なのである。

 文字や映像に残せば少しはましになる。でもそれをどのように受け取るのかはどんどん変わってしまう。結局はつぎはぎの記憶と印象を組み合わせて私たちは今を生きていくしかない。

時間短縮恐怖症

 作業時間の短縮を呼びかける人たちの中には、明らかに心的な余裕をなくしている人がいる。作業時間を減らせば効率が上がるというのは事実だが、それで終わってしまえば自分を機械に調和させたというだけの話だ。

 大事なのはその後である。機械的な仕事は効率化してより曖昧で複雑なことに関する考察をする時間を持たなくてはなるまい。作業効率はそのための手段に過ぎない。となると、そのより高次の思考にも機械的な発想を持ち込まないか心配になる。

 決められたことを処理する仕事と、未知の分野を開拓する仕事は性格が異なる。試行錯誤の上で無駄になることが数多く出てしまう。まさに失敗の山からわずかな成功を見いだすことが寛容だ。

 時間短縮恐怖症の人々にこの忍耐力を持っていただかなくてはやはりイノベーションは起きず、徒労感のみが残ることになりそうだ。

年賀状

 年賀状を出す人は年々減っているように思う。昨年は喪中であったため、賀状を出せない寂しさを味わったが、そもそも出す必要があるのかと自問自答を始めている。

 賀状だけでつながっている人は多い。そういう人とのつながりは淡いものであるが、実は心の支えになっていることもある。賀状を書いたり、その人からもらったりすることは、かつての自分に立ち戻ることができるささやかな一瞬でもある。人との関係は大きく変わってしまっていて、それを取り戻すことはできない。しかし、当時を思い出すことだけはできる。

 ソーシャルメディアでの連絡は常に現在の人間関係を意識させられるが、手紙はあくまで自分の思いを乗せることができる点で「ともだち」とは異なる。その意味では年賀状を交換する意味は失われていないのかもしれない。


日本型雇用体系

 これまでもよく述べられて来たことだが、生産性の確保や向上のために人事面にも流動性を高めるべきだという議論がある。終身雇用を前提とする制度が諸悪の根源のような言い回しだ。人事の硬直が仕事の保守的傾向を強調しがちであることは容易に推測できる。

 ただ、ならば能力主義なり、業績主義だけでよいかというとそうでもないのではないか。経験が蓄積されることも必要であり、職能を磨き上げてきたことが日本企業の強みになっていた。それがいま効率主義によって揺らぎつつある。「働かないおじさん(おばさん)」の話はよくでる。解雇が難しい日本の雇用形態では仕事と個人の能力がミスマッチする可能性が高く、その結果として働いていないように見える社員を一定数生み出してしまう。でも、それは経験をもつ社員をうまくいかせていない現実の裏返しでもある。経験に応じてふさわしい仕事にシフトしていける日本の雇用体系を活かしきっていないのだ。

 私は終身雇用体系の利点をいかしつつも、新しい雇用形態を目指すべきだと考える。イノベーションには新しい考えが必要だと言うが、私は多様性の方が大切だと信じている。優秀な若手はもちろん欠かせない。しかし、経験豊富な人材もいなければ本当の新機軸は得られないのではないか。

 社会情勢が不安定になると極端に走ることは歴史が教えてくれる。能力主義がいいと考え、たまたま成功例が出ると、それに一気に追随する事態になるかもしれない。だが、日本型企業を他国に勝るものにするならば、テクノロジーと伝統・習慣が適度に調和したシステムへと成長させる必要があると感じるのである。

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