今日から仕事を再開する。年が変わっただけのことであるが、時間に区切りをつけて気分を変えるのは人類の叡智と考え、それにあやかることにしたい。
やるべきことを書き出してから始めることにしようということは、昨年も途中までやっていた。いわゆるバレットジャーナル風ノートに書いていたのだがどうも続かなかったので、今年はスマホやタブレットのタスク管理アプリで行う。自分もこうしてデジタルの世界に取り込まれていくのだと実感している。
毎年思うが今年も自己改革したいと考えている。挫折するまでは。
日々の思いを言葉にして
ある人のインタビュー記事を読んでいたら、多くの人には数学的思考がなさすぎるという。そのために事実誤認が生まれ、さまざまな悪影響に繋がるというのだ。
確かに私は物事を経験的な感覚でしか捉えていない。そしてその多くは間違っている。だか、私以外の人も同じような間違いをおかしているので困らないのだろう。
日常些事ならばそれで済む。ただしこれが累積し、継続性を持つようになると大きな問題になる。科学的思考がとれなくなると、思い違いで酷い結果が増幅してしまう。それは損失以外の何者でもない。
不利益を受けるのが自分だけならば自業自得だ。それが他者に影響するとなると問題は別次元になる。後生に課題を残すならばさらに問題だ。SDGsよりも大切なのはまずは思い込みによるエラーを減らすことにあるのかもしれない。
数学の理論を学び直すのは容易ではない。ただ、単純な算術でもよいから、理をもって考える癖をつけなくてはならないと痛感する。
このブログは主に自分を励ますために使っている。読者の皆さんにもこの自己暗示が何らかの役に立つのではないかと考えて公開を続けている。お付き合いいただいて本当にありがたく感謝に堪えない。
今年の目標を書いておこう。言ってしまった限りやらざるを得ない。そういう状況に追い込むのが目的だ。
まずは古典文学の紹介サイトを作りたい。長年、国語の教員をやってきたが最近はその場しのぎの消耗する授業ばかりになっている。このあたりで受け手の心に訴える話を残さなくてはならないと考えたのだ。さしあたっては大人向けの古典文学再入門のコンテンツにしたいと考えている。もちろん最終的には有料サイトにすることを目指したいが、とりあえずは多くの方に見ていただけるものにする。いまご覧になっているブログにもリンクをはる。
次にボランティア活動の開始だ。多忙を理由に地域との繋がりがまったく築けていない。私のようなシニア予備軍世代でもできることを少しずつ始めよう。何をするのかは具体的には決まっていない。少しでも私の経験を活かせるものがあればやってみよう。
そして、最後は健康の維持だ。これが他人に迷惑をかけない最善の策かもしれない。何もしないと衰えてくる身体のあちこちを健全に保つためにやるべきことを続けよう。ブログでもこの点を話題にしていこうと考えている。
ほかにもいろいろあるが風呂敷を広げ過ぎるのもなんだと思う。この記事の読者の皆様には願わくはこれらの記事が空しくならぬよう少しだけ関心をお持ちいただければ幸いである。
2022年が始まりました。新年明けましておめでとうございます。
おめでとうというのは予祝の呪術と学びました。まだ何も祝福すべきことは起きていなくても、めでたいと言うことで周囲にそのような状態をもたらすというのです。これが正しいのなら私は何度も言いたいと考えます。
パンデミックが始まってから2年が経過しいまだ安心のできない日々が続いています。真夏のマスクを2回もしなければならないとは思いだによらなかった。それでもなんとか耐えてここまできたのです。この事実だけでもめでたいと言うべきかもしれません。
予祝の意味を込めて、さらなる幸せが皆様の周りで重ねて起こりますように。
明けましておめでとうございます。
9月は岸田文雄氏が自民党の総裁選挙に勝利し、時期首相になることが決まった。総裁選の一次投票では一位ではなかったことから、旧体制の問題点を指摘する声も上がった。コロナウイルスの感染者数がピークアウトして再び希望が見え始めた。ワクチン接種者が増えたことが原因ではないかと言われるようになったが市中でマスクを外す人はいなかった。
10月は衆院選があり、自民党の安定多数は確保され、日本の株価があがった。しかし、その後の発言から日本市場は苦境に陥ることになる。分配ということばがキーワードになっていた。
11月はオミクロン株の話題で持ちきりになった。海外では激増した感染者が日本では不思議なほど沈静化していた。プロ野球ではスワローズが日本シリーズで優勝したが、コロナ時代によく頑張った。職場ではコロナシフトがかなり改善されてきたが、オミクロン株のニュースに一喜一憂だ。
そして、12月は慌ただしく始まっている。欧米での感染者数の激増が連日報じられ、韓国も方針転換を余儀なくされている。相変わらずなにが正解なのかわからないまま毎日が過ぎていく。街には人がもどり、深夜の営業も再開されている。しかし、どうなのかはまだわからない。
5月は緊急事態宣言下のひと月となった。オリンピックを控えての処置だと誰もが考え、少しずつ警戒の気持ちが緩み始めていたと思う。近隣の飲食店に廃業するところが散見されるようになり寂しく思った。
6月は、生活保護を申請する人は増え始めているという報道が続いた。生活の格差が拡大しつつあることを実感した。すでに真夏日になることもあり、今年も暑い夏になると思われた。また激しい雨が降った日もあった。職場でコロナ感染者がでたのではないかという騒ぎがあり、結局は陰性と分かったが休業になった日があった。
7月は熱海で大規模な土石流災害があり、多くの犠牲者が出た。土石流の原因が人災ではないかという議論があったがその後どうなったのであろう。メジャーリーグの大谷翔平選手が活躍し、東京オリンピックが賛否両論ある中、無観客開催を敢行した。東京にいながらもテレビでしか競技を見られないという大きな矛盾を味わった。海外の選手団にはおおむね好評だったようだ。それだけが救いの感があった。私はこの月に一回目のワクチン接種をした。
8月は小田急線内の無差別刺傷事件が発生した。この後も同様な事件が相次ぎ、社会が病みつつあることを懸念している。東京オリンピック、パラリンピックは何とか行えたが、これと関係は不明ながらコロナ感染者が爆増してしまった。政府の対応が問題視された。それ以外の要因も含めて菅首相が退陣する方針が決まった。2回目のワクチン接種を済ませたが副反応は全くなかった。
この一年を振り返る企画を今日から3本書いていくことにする。今回は主にに4月までの出来事から。
1月は1都3県に緊急事態宣言が発令され、コロナ禍がまだ継続することに残念な気持ちを強くしていた。アメリカでバイデン大統領が誕生すると、アメリカ議会への暴徒の乱入という大事件が起きた。にもかかわらずアメリカ株式は上がり続け、経済の異常事態を実感したのだった。
2月は日本でも新型コロナウイルス対策のワクチン接種が始まった月であった。私自身は7月まで待つことになったのだが、新たな展開を感じさせた。オリンピック組織委員長であった森喜朗氏が女性差別ともとれる不適切な発言をしたことから職を辞し、日本の指導者の意識改革が必要なことを痛感した。高齢指導者は引退すべきという論も見られた。これは高齢化社会に入っている我が国にとっては大きな自己矛盾だ。大切なのは歳を重ねてからも学び続けることだ。
3月は東日本大震災から10年を迎えた月であった。コロナの影響で十分に報じられることがなかったのは残念だった。10年たつとすでにいろいろな記憶や経験が風化していることに気づかずにはいられなかった。緊急事態宣言が解除になり、ようやくこの病魔と決別の日が来るかもしれないと一時は考えたこともあった。
4月からは新規感染者が急速に増えだし、再び緊急事態宣言が発令された。どうも今回は増え方が激しいので政府の対応を問題視する声も聴かれた。私にとっては新年度の切り替えの月であり、様々なことが変化した。そしてそれらを一つずつ受け入れた。昨年度がかなりのオーバーワークだったので、いろいろと整理されて効率が上がった。
帝国主義による主権の維持に失敗した我が国には、平和と協調こそが国体を維持する唯一の方法と痛感させられる局面を経験している。だから、平和を構築するには協調しかないと考える人は多い。
しかし、その後の急速な発展によりあたかも自国でなんでもできるかのような錯覚に陥ってしまった。悪しき選民思想のようなものが根拠なき優越感を醸成したのである。
最近、その旗色が悪くなるとまたもや精神的帝国主義のようなものが芽生えてきている。隣国を従えて発展すべきなどと。その実力はない。資源なき国にはもとから、他国との協調なしでは存在の力はない。むしろ自他を利することで存在感を訴えるしかないはずだ。
この国の潜在能力には計り知れないものがある。ただそれはいざというときに発揮されるのであって、そうでなければいつまでも眠り続ける。ともに生きる道を歩みだすべきだ。そのためにはもっと隣人を知らなくてはならない。
コロナウイルス対策の副作用は様々な面に現れているが、その一つが精神面である。経済的に追い込まれて困窮する人もいれば、それほどでもなくても精神面において大きな困難を抱えている人も出てきているようだ。本来人は群れて生きるものであるのに、距離を取れというのが命令のように言われ続ければ困惑してしまうのは当たり前だ。
このように追い込まれているのは決して一人ではない。みんな同じ悩みを抱えているということを共有する必要がありそうだ。行き詰まりになっているように思える人は視野が狭くなっているはずだ。私自身もそのような経験は何度もある。まだ自分に余裕があるうちに言っておこう。
私達はひとりではない。そうは見えないかもしれないが、みんなで助け合って生きている。だれもが誰かを支えている。