事後指導

テストの後からの仕事

 教員をやっていると試験の成績はとても気になる。自分の伝えていることが伝わっているのかを反省しなければならないからだ。

 生徒の立場ならば個人の努力や学習量の問題として考えることが可能だ。よく言われたようにもっと勉強しなさいを自分に言い聞かせればよい。これが教員の立場になると話が変わる。個々の生徒にどのような指導をすることが適切なのかを考えていかなくてはならない。

 その点でかつてより楽になったのが機械採点システムだ。自動採点の精度はいまひとつなので期待していない。特筆すべきなのは設問ごとの得点計算が容易にできることにある。どの問題で失点したのかを掴むことで指導方針が立てやすくなる。

 業者テストではそれが行われていた。それが数名の教員で成し遂げることができるようになったのは大きな進歩だ。それをどう使うかが大切ということになる。

インバウンド再び

 コロナウイルスの世界的流行はまだ収束していない。以前よく議論されたように収束という概念はありえないのかもしれない。そして終息は決してない。すると、この厄介な事態と付き合うしかない。

 コロナ騒ぎが始まる前、外国人観光客が日本に大挙して訪れていた。成長しない日本経済のもと、いつまでも物価が上がらない日本は買い物にふさわしい。中継貿易国とは異なり、独自の文化もあり、品質も良いとされている日本製品を買いに来る価値は大いにある。

 一向にサラリーが上がらない日本人を相手にするより外貨のほうが稼げる。しかも自分から買いに来てもらえるならばありがたい限りだ。加えて歴史的な円安だから、外国人にはバーゲンセールにしか見えない。そこで防疫のルールを見直して外国人に来てもらおうということになる。

 この流れは止められまい。昨今の日本の主要産業は観光業となりつつある。たくさん来てもらい観光地だけでなく、あらゆるところでカネを落としていただく。それが双方の利益と考えられるはずだ。

 オリンピックを機に外国人向けに作り直した様々な施設やシステムはその後どうなっているのだろうか。日本人の英語力、その他の言語への学習意欲はどうなったのか。とりあえず日本の産業が復興するまでの時間つなぎは先祖から譲られてきた日本ブランドを広めるしかない。

味覚

 何を美味いかまずいかという尺度はどのようにできあがるのだろうか。普遍的な感覚に思えるが実はまったく特殊なものだ。

 外国人が顔を背けると言われる納豆などの伝統食は確かに日本人でも嫌いな人もいる。そもそも醤油味が苦手だという人には日本は住みにくい国だ。逆に海外の料理の中には味覚的に受けつけないものがある。

 人種による感覚器の違いだという話はあまり聞かない。やはり、食文化が総体的に味覚に影響を与えるのだろう。

 味覚だけではなくすべての感覚にこうした文化的なフィルターがかけられていることは時々思い出さなくてはなるまい。同じものを見ても触っても食べても、別の感覚で捉えられていることを前提にコミュニケーションすることが必要だ。国際問題ではそれが顕著だが、隣人もまた同じ態度で臨むべきなのかもしれない。

Streak365

 このサイトを作成しているサービスにstreakという表示が出るようになった。今日365日となったから1年皆勤ということなのだろう。実はもっと前から続けていて別のサービスも入れると10年以上続けている。内容がなくとも続ければ何らかの価値は出るのかもしれない。そう信じて駄文を連ねて行くことにする。

傘

傘

 北陸では弁当忘れても傘忘れるなという言い伝えがある。天候の移ろいやすい風土の住民の生活の知恵の一つだ。私はしばらく彼の地に生活していてその金言に助けられたことが多いため常に鞄に折りたたみを持ち歩くことにしている。

 ところが、今日はうっかり忘れてしまった。鞄の整理をしていたときに入れ忘れたのだ。今日は曇天。降り出しそうな気配がある。こういうときはかなり不安になってしまうのだ。

 習慣というものは多くの場合、日常の助けとなる。しかしそのそれが崩れたときの応用力も必要だ。最近は傘のサブスクサービスもある。第二の選択肢をいつも用意しておくこともまた弁当よりも必要かもしれない。

五月も下旬

カワラナデシコ

 五月も下旬になって早くも曇りがちの天気が続いている。梅雨の気配なのか。

 そんな中でもさまざまな花が咲き始めている。今日見つけたのはカワラナデシコだ。なでしこの在来種と言われている。万葉集に秋の七種とされ、大伴家持らによく詠まれたなでしこはどのような品種だたのだろうか。なでしこの命名からして子・娘に例えられてきた優美な花である。大和撫子は日本女性の形容としてもよく使われる。秋の草花とされるが実はもう咲き始めている。

 五月の穏やかな天気の中で心は緩むばかりだ。でも今日はその柔らかな感覚の中で時を送りたい気がする。

外来種

アカツメクサ

 近くの公園を歩いてみた。意外に多くの野の花が咲いていた。雑草に分類されるものも含めてよく見ると見どころがある。この中の多くが近代以降に渡来した外来種であることが分かった。

 そもそも公園という空間自体が人工的なものである。そこに自然を見出すのはおかしい。しかし、誰か外来が意図的に植えたものでなくとも外来種で溢れている。アカツメクサはすでにどこにでも見られる。ヒメジオンは歳時記に載っているし、最近増えたベニバナユウゲショウは園芸店で売っても売れるかもしれない。

ベニバナユウゲショウ(アカバナユウゲショウ)

 何をもって外来種というか。その定義は意外に難しい。生態系を荒らす新入りについては厳しい目が向けられるが、それとて人間がもたらしたものである。

 どこからか天の声がする。そなたもかつてここにはいなかった。新入りが新入りを難じていかんとす。

マスクを外す

Photo by Karolina Grabowska on Pexels.com

 政府が条件付きでマスクの着用をしなくてもよいケースを発表している。十分に距離が確保され、会話が少ないという状況ではマスクをつけなくてもよいとするものだ。コロナの呪縛から逃れることができるのはうれしいが、まだ不安もある。もっと不安なのはウイルスより人間の方だ。

 マスク警察とか自粛警察と呼ばれた人々の行き過ぎた行動をしたことは記憶に新しい。集団ヒステリーの一種とも考えられる。マスクをしていない人に過度に注意をしたり、暴力的な言動をする人がいた。さらに県外ナンバーの車を傷つけるといったことも行われた。全く無意味な行動に走ってしまうのが人間というものである。

 今回は政府が外してもいいという見解である。ここでまた曖昧な状況が起こる。価値観の異なる人たちが自分の基準で行動すると過剰反応をする人が出てくるのだろう。自分の常識は他人の非常識、その逆もまた真ということが分からない。同調性の強い国民性である日本人にはこうした考え方が理解されにくい。

 集団で生きるしかない人間の定めから起きる問題である。

記憶の中の人物像

思い出の中ではどんな人?

 人の性格や行動は実はかなり複雑だ。優しい人にも厳しい一面はあり、陰険と思われている者が影では善人であったりする。本当は一言では言い切れない。それを強引に分類していまうのが私たちの日常である。

 こうした人物像の簡略化は、時間とともに進行するのかもしれない。相手との交渉がなくなると、過去の記憶の中でその人物を想起する。その思い出の人物像はすでにまるめられており、時間とともにさらに末端が削られる。故人に対してはもう出会う機会はないから、時間とともに固定していく。

 写真に例えてみる。撮影の時点でその人の典型的な姿が選ばれる。それでも何枚もの写真の中にはその人物の様々な一面がほのみえる。ところが時間とともにその中の写真の大半は失われ、数枚だけがその人の思い出として残るのだろう。

 人物像はこのような仕組みでできている。さらに英雄伝説に誇張がありがちなように、このわずかな印象も変質を始めていく。本当はどんな人物だったのか容易には分からなくなる。人を考えるときにはこうした仕組みを思い出さなくてはなるまい。

新聞

新聞とっていますか

 教科書の単元に新聞の投書を書くというのがあった。念のために家で新聞配達を頼んでいるのか聞いて見るとクラスの四分の一くらいがとっていないと答えた。私の常識は通用しないことが分かった。

 比較的裕福な家庭からの通学者が多い学校でこの有り様だから、実は新聞の宅配率はかなり下がっていると推測する。もっともほとんどの家庭が新聞を購読する国は実はそれほど多くはないという。ネットニュースなど報道に触れる機会はいくらでもある。無理にとる必要はないということなのだろう。

 すると投書というものがイメージできない生徒が相当数いることになる。部分的で扇情的なコメントが投書と混同されている可能性は高い。自分の意見を読者を意識して書くということは、難しい行為ということになる。

 国語の教員の出番はまだありそうだ。