リモート

集中できますか

 イーロン・マスク氏がリモートワークを認めないという発言をしたのが物議を醸している。コロナウイルス感染対策のために在宅勤務が推奨され、一気に普及した。日本でもこれを採用した企業は多い。

 マスク氏の発言にはリモートワークは非効率であるという意味が含まれるのだろう。実際にリモートワークの生産性については賛否両論があり、リモートにして業績が向上したという話も聞く。業種もしくは業務によってはリモートワークの方がうまくいくものもあるのだろう。

 さて、学習の方面ではいかがか。話を中等教育に絞ることにする。コロナ禍でリモート授業を行った結果、成績が落ちたという生徒が多かった気がする。その主因は慣れない学習形態が突然始まったために、準備ができていなかったことだ。それも慣れてくると次第に学習の仕方が分かってきたようだ。

 リモート授業に順応してもやはり効果が上がらない生徒がいる。彼らは対面せずに教育を受けることに向いていない。逆に集団の中では集中できないという生徒もいる。不登校になっている生徒の中に一定数この種の気質の持ち主がいる。彼らにとってはリモート学習は願ってもない機会だったはずだ。

 学校に通うことができる生徒にとってもリモート学習の一部が効果的であったという。科目や内容によっては自分のペースで学んだ方がよいものもある。学校の教員がどこまで関与できるのかは分からない。ただ、生徒の学習効率と結果を考えるとリモートか対面かではなく、両方を使い分けた方がいいのかもしれない。

19位

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 持続可能な開発目標(SDGs)の達成度を示す指数のランキングが発表され、日本は19位だった。昨年から1位下げており、徐々に落ちていく傾向にある。これをどのように考えたらよいのだろう。

 日本より上位の国はすべてヨーロッパの国である。欧州以外の国を拾ってみると26位にニュージーランド、27位に大韓民国、28位にチリ、29位にカナダであり、再び欧州の国が並ぶ。どうもこれはヨーロッパ各国に有利な指数のようだ。欧州を除けば日本は最もランキングが高いということになる。

 しかし、そもそもSDGsの考え方自体に問題があるようにも感じる。一つ一つの理想は高邁なものだが、結果的に「開発」を第一に考えるものであることには変わりない。現在起きている気候変動などの深刻な問題を「開発」で切り抜けることができるのかは大いに議論の余地がある。結局、何もしないことが最もサスティナブルではないかという皮肉な意見もよく聞く。

 太陽光や風力などのエネルギー開発に関してはかえって環境破壊につながるという批判が多い。今の技術ではその瞬間にはカーボンニュートラルを達成していても、製造過程や廃棄過程で今より深刻な環境問題を引き起こす可能性が高いというのだ。森林を伐採して太陽光発電システムを置いている例を見たことがあるが、これなどはサスティナブルとは思えない。

 ランキングで一喜一憂するのは読み物としては面白いが、本質を考えておかないと間違いを犯す。19位はどのような意味なのかをもう少し考えてみたい。

変わり目

 季節の変わり目には様々な困難がある。その一つが身体の適応だ。急に気温が上がると熱の処理に手間取る。熱中症のようなものになりやすいのはそのためだという。

 少しずつ変化していく環境に対して、生物はある程度の耐性を発揮するらしい。限界点を超えると対応不可能となり、最悪の場合命に関わる。対して急激な変化にはその差が実は小さなものであっても限界点を超越するきっかけになってしまう。

 最近、体調が優れない。対応しきれていない自分を痛感している。

6月

6月

 6月になる前からすでに真夏のような陽気だったので、衣替と言われてもぴんとこない。職場でネクタイを締める義務がなくなるのは嬉しいが、季節の移ろいに関する感慨がもてない。かなり疲労しているので事故を起こさぬよう気をつけることにする。

時間の概念

ちょっとお時間を名古屋に行って来ます

 リニア中央新幹線の建設が進んでいる。完成すれば東京品川と名古屋を最速40分で結ぶという。必要性や環境問題の議論が尽くされないまま建設が進んでおり、もはや多くの人的物的投資がなされている。

 仮に完成したとする。すると時間の概念に大きな変化が起こる。関東に住む多くの利用者は、最寄りのリニア新幹線駅までと到着後の目的地に着くまでにかかる時間の方がリニア新幹線に乗っている時間より長いことになる。近いのに遠く、遠いのに近いという逆説が出現することになる。

 もちろんこうしたことはこれまでもあった。新幹線に乗って奈良にでも行くようならば、新幹線駅までと京都から奈良までの時間とがのぞみに乗っている時間より長いこともある。リニア新幹線はそれをもっと極端なもののようにしてしまう。

 所要時間を尺度にした地図を作ればかなりいびつなものになるだろう。都民にとって名古屋はすぐ近くにあるが、千葉の館山は遥かに遠くにあるのだから。

 時間と距離の感覚が崩壊した後に何が残るのだろう。リモートという擬似的な距離飛躍もあるがこれはあくまで現実ではない。適度な距離が安定を保証するという古来からの知恵がなくなったら、どんな世界観価値観が人々を包み込むのか。想像しているところである。

気持ちの説明

小説を教えることに意味はある

 国語の問題の笑い話に、登場人物の気持ちを答えさせる問題というものがある。作者自体が答えられなかったというエピソードとともにこの種の設問を揶揄するものである。

 小説の世界は作品全体を通して形成される。それに対して国語の問題文は短く、切り取られた場面の中だけで完結させなければならない。多面性のある人物像のある一面だけが切り出され、その部分が強調される。そこを質問のポイントに設定すれば全体像を創造した作者の意図しない人物像が出来することもあり得る。

 人物の気持ちを問う問題の難しさはこのような点にあるが、それでもこの行為自体は避けるべきではない。人の気持ちという目に見えず曖昧さを含むものを言葉で説明することはこれからの時代に求められる能力の一つだ。他者との協働が不可避不可欠な今日の状況において、心情を察することは大切だからである。

 だから、登場人物の気持ちを問うことはこの力の養成に繋がるものと考えるべきだ。小説の精読はその機会としてふさわしい。新しい高校の指導要領で文学が軽視されてしまったのは残念だ。現場の教員はうまく立ち回るべきだ。文学作品を読ませることに躊躇すべきではない。

フィンランドに学ぶ

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 フィンランドの社会制度や教育制度に関する紹介をした新書を読んだ。フィンランドの教育には以前から注目が集まっており、私もいくつかの本を読んでいた。しかし、どうしてあのような高福祉国家なのに(つまり恐ろしく税金が高いということになる)国民の幸福感が高いのかについては今一つ理解できていなかった。今回の読書で少しそれが分かった気がする。

 その一つはフィンランド人のものの考え方にある。北欧の小国という自覚が強く、ロシアに接する地勢上の問題もあって、きわめて現実主義であるという点である。国家として存在できれば個人の利益は譲ってもいいという考え方がある。これは極めて大切な観点だ。一定の緊張感のもと利他的な精神が保たれていることになる。

 今の日本人が学ぶことといえばまずはこのことであろう。アジアの辺境に位置する日本が国家として体をなすためには種々の苦難が伴う。そのことを忘れているのではないか。苦難を乗り越えるためには大同団結できるはずなのに、今の日本人にはその自覚が欠けている。アジアの先進国という自負が真実の姿を認識できなくしていると言える。

 フィンランドが理想の国かといえばそうでもなさそうだ。高福祉国家の宿命であるといえるサービスの平準化がある。最低限の質は保たれるがそれ以上は望めない。平等を重んじるあまり、特異な才能は見逃してしまう。伝統的な絆に関しては崩壊の可能性を常にはらむ。そういった危険性を持っている文化である。

 それでもフィンランドに学ぶことは大きい。私はもう少し学びたいと思った。サンナ・マリン首相が有能な若い女性であることが象徴するように、日本にはないなにかを学び取れることができれば、ダウンサイジングする日本にとっては有益な道しるべとなるはずだ。

アジャイル

アジャイルとは素早さという意味があるらしい
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 アジャイル(agile)とは機を見て策を変える手法のようである。ソフトウェア開発で使われていたことばが経営学的にも援用されている。刻々と変わる価値観にいかに適応させていくかを重視する方法であって、不確実性の高い現在の社会状況にまさに適応するために生まれた。

 少し前ならばこういう考え方は低く見られがちだった。一貫したポリシーがないかのように見られがちだったのだ。あるいは弱者が生き残るための必死の策と考えられ、余裕のあるものはとるべきではないと考えらえていた感がある。

 アジャイルのような考え方が主流派に加わりつつあるのは、やはり予測不能の時代への対処を何とかしたいと思っているからだろう。特にわが国には前例踏襲の伝統があるといわれ、それが発展を阻害していると言われている。私はこれには反論がある。

 日本文化は中長期的には常にアジャイルで進んできている。伝統を守ると言いながら常に新しい要素に寛容であった。よく考えてみればこの日本語自体が時代とともに様々な外来のものを取り入れて変化しているではないか。

 昨今の時代変化はこれまでとは異なり速度や影響力が多大である。それに対応するには日本列島に住んできた人たちが土着的に身に着けてきた臨機応変性を思い出すのが一番だと思う。神道的なものから仏教や儒教といった宗教的なフレームを受け入れベースにしながら、次は資本主義や西洋科学の概念を模倣し文化に取り入れた。情報化社会となった現在も海外からさまざまな考え方や物品が来ているがこれを貪欲に取り入れ、和風化し、その都度取捨選択して形を変えていく。日本式アジャイルはここにある。

 完成品ばかりを理想としてそれにランクをつけるという考え方も実は歴史は浅い。なければ自分で作ればいい。そう考えてきた。そうして次々に自分の身の丈に合ったものに変えてきたこの国の歴史的土壌に自信を持っていいのではないか。日本文化が他国のそれと比較して特に優れているとは考えていないが、先祖たちが築き上げ、いまの日本人にも受け継がれていることは確かに尊いものがある。

電話番号

 携帯電話を使うようになって確実になくなってしまったのが電話番号を覚えるという努力である。機械の方が記憶してくれるし、かけるときも番号が表示されず、相手の名前をタップするだけだから意識するチャンスがないのだ。おかげで家族の番号すら覚えていない。それどころか自分の番号でさえ時々確認している。

 このような機能がない時代はアドレス帳を持ち歩いていた。手帳の付録に番号控えがあった。よくかける人の番号は強引に語呂合わせして覚えた。何回か口に出していううちに長期記憶に入った。考えてみればいまはこれがない。登録すればあとは記憶から消える。

 これは便利な機能であることは間違いない。数年前にたった一度だけかかってきた番号でも1分足らずの作業で登録すればいつでも取り出せる。前回はいつかかってきたのかも調べようと思えばできる。

 便利さは何か大切なものを奪っていく。電話番号が覚えるべきものではなくなってしまうと、次は会話そのものの価値も無機質なものと考えるようになる。論理的飛躍があるがこれは事実だ。いつでもボタンを押せば他人と繋がると考える錯覚はこういうところから起こるのかもしれない。

疑似的俯瞰

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 地図を見ることは楽しい。最近は紙の地図を広げることはめったになくなった。それでも観光地に行くともらえる地図には心が躍る。さまざまな情報が集められているし、その地に行けばきっと何かがあることが予感できるのがいい。

 最近は車に乗るときにスマートフォンの電子地図を使うことが多い。本来ならば専用のナビゲーションが必要だが簡易的に使っている。グーグルマップでも十分に代用できる。これにはいいことと悪いことがあって、いいことは迷わなくなったことだ。何しろ渋滞状況も考慮して最短の道を教えてくれる。これでいける場所が増えた。悪いこともある。それも迷わなくなったことだ。出発点と目的地が点と線で結ばれ、その周りにあるものがすべて無目的に見えてしまう電子地図がなかったころは周囲の地形や目標物をあらかじめある程度頭に入れてから運転していた。その中で大まかな位置関係や地域の状況がわずかながら分かった。ナビゲーションを使うとそれらが頭に入らない。

 電子地図をナビとしてではなく、自分の住まいの近くを表示してみた。すると様々な発見がある。歩いているときとは少々位置関係が違って見える。実査に進むことはできないが距離的には実は離れていなかったり、遠いと思っていた場所がそれほど離れていなかったりする。知らない店の名前や、公園の所在などが分かる。自分の生活圏を俯瞰するのにこの地図は面白い。地図はどこかに行くためのものだけではなく、自分がどこにいるのかを知るためのものであることに改めて気づかされた。

 鳥のように空を飛べば普段気づかないことに気づくことができる。飛ぶことはできないが地図を使えば疑似的な感覚は得られるのかもしれない。