狐は何て鳴く

何て鳴く?

 What does the fox say? を繰り返す奇妙な歌に合わせて踊るきつねダンスは北海道日本ハムファイターズのイニング間のアトラクションとして行われ話題になっている。ナンセンスだが乗りのいい曲と簡単だが印象的な振り付けで楽しい、ところで本当に狐は何て鳴くんだ?

 日本人はほとんどの人はこの問いに困らない。コンコンと鳴くと子ども頃に教えられるからだ。イソップ物語では悪役が多いが、童話の世界では可愛らしいキャクターにもなる。伝統的には憑依する霊的動物であり、稲荷社には霊獣として祀られる。調理の世界ではきつね色は常套だ。でも本当にキツネを見たことのある人はどのくらいいるのだろう。

 万葉集に、「さし鍋に湯沸かせ子ども櫟津の桧橋より来む狐に浴むさむ」という歌がある。恐らく宴席でそこら中にあるものをなるべく多く詠み込んで歌うという芸として披露されたものだ。湯をなぜ狐に浴びせるのかは分からない。この歌来む(こむ)に狐の鳴き声まで詠み込まれているという説もある。どうだろう。

 姿を見たことがないのだから、まして鳴き声を知るわけがない。調べてみるとコンではなくコンコンコンが単位のようだ。人の声のように鳴くこともある。もっと複雑なのだ。

 ファイターズのお姉さんたちが踊る歌の中でもキツネはさまざまに鳴いている。これは嘘ではないらしい。

 

水着

 ジェンダーレス水着なるものが発表された。性別に関係なく着られるデザインであり、肌の露出度は少ない。生物学上の性と心のそれが一致していない人にとっては朗報だろう。

 こどもの頃からなぜ水泳となると男女の格好が大きく異なるのか不思議だった。私の場合性的不一致はないので違和感は習慣に吸収されてしまった。多くの人は同じだろう。てもよく考えてみればなぜ男子は上半身裸なのだろうか。それが改めて疑問になることがある。

水着

 おそらく多くの日本人は逆の考え方をする。女子には乳房を隠さなくてはならないという決まりがあるから上半身にも水着をつけるのだ。男子にはそれがないからつけないと。さらにはデリケートな部分を保護するために身につけるのだと。

 それらはすべて正しいように思える。第一トップレスの女性がいたらとんでもないことになると考えてしまう。でもよく考えてみると男の上半身もそれほど頑丈とは思えない。また、女性が上半身裸の民族も世界には多数あるようだ。日本でも近代以前は普通に混浴がなされていたという。わずかに残る海女の記録でも上半身の着用はない。

 性別によって何をどのように身につけるのかは文化的な問題なのだということになる。日本は近代化によって欧州文化を取り入れ、性差の文化も取り入れたために水着の価値観もそれに倣うことになったのだ。

 新たに性的マイノリティーの存在が世間に認知され、人権に配慮すべきであるという考えが定着すると、別の文化が生まれる可能性がある。ジェンダーレス水着の試作品の写真を見てつくづくそう思う。結局何を身につけるか、身につけてはならないのかは文化的問題である。生物学上の問題を人間が変えることは難しいが、文化ならば少しは工夫できる。

こうなる可能性もある

夏合宿

 このところ中止を余儀なくされていた部活動の夏合宿が復活するかもしれない。感染対策への配慮は必要だが、禁止からスタートではなくなったのは前進だ。

 いろいな事情で以前お世話になっていた宿ではない場所になりそうなのは残念だ。同じ日の同じ場所に10年以上通っていたために、自他の定点観測のようなものになっていた。それが崩れてしまう。

 生徒諸君にとっての合宿は多くの場合楽しい思い出だろう。教員にとっては24時間営業の連続で結構疲れる。かと言って自分の感情をあらわにもできない。苦行の一つだ。

 それでも生徒諸君が嬉しそうにしているとついそんなことは忘れてしまう。教員のもつ弱点である。

給与を上げて

 少しずつ物価が上がっている。日銀総裁は価格上昇が許容できる段階になったというふうに取れる発言をして釈明することになった。サラリーが上がらなければ物価高は経済停滞を引き起こす。高所からものをいう人には個々の事情は捨象する。だから、野党議員にスーパーで買い物してみてはなどと言われてもびくともしない。

 物価が上がる条件は給与も上げることが条件だ。経営者にはこの点を考えてほしい。経済が回らなければ結局自らの首を締める。人的投資は即効性のある行動であると言いたい。

若い人の歌

 若い人の歌を年甲斐もなく覚えようとしている。back numberというバンドの水平線という曲は懐かしいメロディラインなので親しみやすい。

 おそらく若者の挫折に向き合い、それを癒やす歌と言えるのだろう。自分の失敗が誰かにとっては美しいものであり、その逆もまた然り。禍福は社会の中で循環するものなのだということだろうか。

 そんな理屈をこねること自体、若くない証かもしれない。いい歌なので歌えるようになりたい。キーが高すぎるのが難だが。

6月6日の雨

かわいいコックさん

 私の世代では6月6日に雨が降るのは納得がいく。雨の特異日という訳ではないだろう。もっと単純な理由である。

 棒が一本あったとさ、から始まる絵描き歌は今でも歌われているのだろうか。かわいいコックさんの両手の部分を描くときのくだりが、6月6日に雨ザーザー降ってきて、であった。コックさんの左手は6ではなく反転しているのだが、そういうものだと飲み込んだ。

 この歌を絵描き歌として実際に歌ってから数十年の歳月が過ぎた。にもかかわらず私は始めから終わりまで歌うことができ、コックさんを何人でも描ける。まさに長期記憶の最たるものだ。学生時代研究した万葉集の歌で暗唱できるものは少ない。球体の体積を算出する公式はものすごく単純で短いのに覚えられない。

 そう考えるとコックさんは偉大だ。記憶というものを考えるときにこのことは覚えていた方がよさそうだ。覚えられればだが。

楽器

誰に聞かせたい?

 楽器には様々な興味がある。こどもの頃から笛を吹くのが好きだった。中学生になってギターを始めた。どれも上手くはないが時々思い出したように再開したくなる。楽器を演奏し始めると暫く時間が経つのを忘れてしまう。この魅力はなんだろう。

 世界の楽器の中には木や石、動物の骨や貝殻などをそのまま使うものがある。叩いたり擦ったり、息を吹き込んで音を出す。音階ははじめはなかった。叩くのものの素材によって音色が違うことが音階の発見に繋がったのかもしれない。

 楽器の工夫が次々になされ、同じような音波を再現できる技術が生まれると音楽は公的なものになっていった。それを記号化して時空の拘束から逃れると音楽はコミュニケーションになっていった。

 楽器の魅力はそんな根源に関係するのかもしれない。音に対する素朴な感動と、その感動が他者と共有できるという事実の喜びが理屈なしに文字通り響きわたる。誰かに聞かせることを考えていなくても、演奏するときは聞き手を仮想している。誰かに聞いてもらいたいという欲望がどこかにある。

 楽器はその欲求を刺激し、しばしば成功に導く。演奏の旨さは関係ない。こう考えると楽器はコミュニケーションの道具ということになる。

価値観

ものの価値は人によって違うということが情報化社会の中でかえって分かりにくくなっている。自分は多数派だと思い込むことでいつのまにか自分の行動を正当化してしまう。

 最近、周囲の人たちの精神状態が良くない。何かに苛ついている。あるいは自分がそうだからそのようなことが目につくのかも知れない。

ホタルブクロとコバンソウ

ホタルブクロ

 ホタルブクロを目にする機会が増えた。山野に自生する草花で以前から見かけたが、最近は庭先や街路樹の下に花が咲いているのを見つける。かつては発見すると少なからぬ感動があったが園芸種の仲間入りをしてしまったかのようだ。

 ホタルを釣鐘状の花の中に入れて子どもたちが遊んだのが名の由来だという。ホタルの棲息する場所にも咲くから無理な話ではない。ホタルブクロの方は繁栄しているが肝心の光源の方はかなり減ってしまった。

コバンソウ

 もっと地味な植物のコバンソウは近代に欧州から導入された帰化植物らしい。生命力が強く完全に雑草化している。ところが草刈りでも刈り残されることが多く中には花壇に移植する人もいる。その名の通り花穂が小判、もしくは米俵のような形をしており、縁起のよさを感じるのだ。

 コバンソウも最近よく見られる。人の住まい近くに棲息するためには人間の勝手な価値観に沿う必要がある。食用にならないものは見た目の良さで運命が変わることがあるのかもしれない。

竜巻注意情報

 関東広域で大気の状態が不安定になっており、竜巻注意情報が相次いで出された。今日は東京を離れていたが黒い雲が東から流れて来たと思うとすぐに滝のような雨が打ちつけた。

 大きな雷鳴が響き、驚く間もなくさらなる稲妻が走る。遠かったようでかなり遅れて轟きが来た。豪快な午後になった。

 このところの異常なほどの高温に、気圧の谷は異常反応したのだろう。強引にリセットするかのような乱暴な展開になった。

 私のいたところでは幸い竜巻はなかった。圧倒的な自然の驚異の前では私たちは無力だ。