子供にパソコンを持ち運ばせると

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 教育の世界でパソコンやタブレットの使用機会が増えている。一人一台の端末を持たせるというGIGAスクール構想もあり、これから先も普及してくはずだ。しかし、パソコンやタブレットを子供に持ち運ばせることに関して私は賛成しない。重く、壊す機会を増やすだけなのになぜ通学カバンに入れる必要があるのだろう。私の職場でもパソコンの修理は頻繁に行われている。

 スマートフォンでさえ、子供はよく壊す。オークネットの調査では年代が低いほど修理の必要な不具合を発生しているいう。使用の頻度が若い層の方が高いので当たり前だが、それに加えてデジタル機器に対する扱いがぞんざいであることや、ICTが貴重なものであり、様々な生活に深く関与する機器であるという自覚が少ないということもある。

 まして持たされたパソコンやタブレットをおしいただいて持ち運ぶという考え方があるはずがない。多くの子供にとって無理やり持たされた教科書同様、重たくて厄介なものの一つに過ぎない。それを毎日カバンに入れて持ち運べということの方が間違っているのではないか。

 ICTを使いこなす人材がいらないというわけではない。通学途中にパソコン類はいらないだろう。教育の中で活用するというのなら学校にいる間だけコンピュータが使えればいい。ならば投資すべきは生徒が一人一人使えるパソコンの収納ロッカーと充電設備だろう。学校からは持ち帰らない。宿題は紙ベースで行うというのが実は一番いいのかもしれない。少なくとも義務教育まではそれでいいのではないか。

 日本のメーカーは機能を絞った学校用端末を作って世界に売り出だすべきだ。教材やハードのメンテナンスも含めた教育サービスを売ることで、この業界の復活ができる。そのためにはただ子供に端末を持たせればいいとしている現状を分析して、現実に合ったものに変えていくのがいい。

ガチャ

 格差社会を表す言葉の中でも特に悲しい表現に親ガチャというのがある。子にとって親は選べない。誰の子として産まれるかで人生に大きな差が出るということだ。

 これを運命論として片付けてはならないだろう。その家に生まれたのが定めであり、神の思し召しでもある。それを受け入れた上で分に応じて生きるしかない。これは近代が克服した社会観であったはずだ。

 ところがどうも最近の風潮では運の悪さという結論に持っていこうとする風潮があるように思えてならない。諦めがそこには溢れている。苦境にある子どもがそれを言うのならば同情の余地がある。しかし、そうでない人はこの考えはいちはやく捨てなくてはならない。格差は多くは社会システムの問題で起きている。それを放置している政治家と、彼らを選んだ国民を問題にしなくてはなるまい。

 格差を自分の問題と認識できなくなったとき、その禍は必ず自らに至る。相対的貧困率の高いと言われる現実に向き合わなくてはならないだろう。

ゼロトラスト

 ネットワークの世界でゼロトラストという考え方が広まっている。何も信用せずその都度確認するというものだ。人は信じられないとはメロスの敵のような考えだが現実はこちらの方が正しいようだ。

 ゲートを強固にすれば機密は守られるというのがネットワークセキュリティの基本であった。ところが、意外にも壁は容易に乗り越えられ、侵入した部外者が鍵自体を置き換えてしまう。現実世界では難しいことがネットワーク上ではできてしまうらしい。

 そこで出てくるのがゼロトラストの考えだ。垣根の内のやり取りでも決して信用せず、その都度、どこから誰がアクセスしたのかを確認する。面倒な手続きだが、情報を盗まれたり書き換えられたりするよりはましということになる。確認も機械化すれば実際の労力は増えない。

 それにしても何も信じないという考え方自体は人間の限界を如実に表している。というより人間らしい一面であり、システムがようやく追いついてきたと言う方が正しい。残念なことだ。

食べ物の評価

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 レストランの評判は気になる。しかし、味の良し悪しの評価は個人によって大きく異なる。絶対的なものではないことを忘れてはならない。

 さまざまなレビューがネット上にはあふれている。だれでも評価できるようになった最近の方法は一見優れているかのように見えるが、実はかなり偏見に満ちている。本来個人差が大きい味覚に関する分野を統合して数値化することの意味が感じられない。どんなに多くの人がうまいと思うものでも、ある人には耐えられないものである可能性がある。その逆もある。

 よく行くレストランの評価を見てみたことがあるが、かなりの高評価で絶賛している人もいた。その反面、今まで味わったことがないほどまずいという評価もある。食味の評価はそういうものなのだ。私自身は良くも悪くもない無難な味だと思っている。ネットに書き込むのはそういうことが言いたいかなり特別な人なのである。特別な人の評価はそのほかの人のそれとは異なる。しかし数値にはその評価があたかも現実そのもののように提示されてしまう。

店の売り上げにも評価が影響するため、いわゆるサクラやアンチ的な書き込みをする人も多数いるという。ますます信用できない。そういうものだと思ってこの手の情報は使うべきだ。これは多くの人はわかっているはずなのに、だまされてしまう。思ったよりメディアリテラシーは身につくものではない。かくいう私もその一人であり、反省のために文字化してみた。

インターネットエクスプローラー終了

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 Internet Explorerのサポートが終了したという。インターネット利用時からずっとお世話になってきたブラウザだけに一つの時代が終わった感がある。この際、ブラウザとは何かを考えてみるべきかもしれない。

 実際にはすでにIEは使っていなかった。仕事では主にChromeを使い、自宅ではMicrosoftの勧めるEdgeというブラウザを使っている。iPhoneではSafariをそのまま使っている。過去にはNetscapeのNavigatorというソフトを愛用していた。考えてみればどれもアメリカ製だ。

 インターネットというメディアそのものがアメリカ仕様のもので成り立っている。私は文章を書いたり表計算をしたりするときはMicrosoftのオフィスを使っているのでほとんどの作業がアメリカ仕様で行われていることになる。それはそれで仕方のないのことなのだが、何か違和感を覚えることも確かだ。かつてワープロは松や一太郎を使い、表計算は楓というソフト使っていた。それらは一太郎を除き、結局なくなくなっている。日本人が考え運営しているソフトは現在ほとんど使っていない。なにかとても残念な気がする。

 こうしたものはしょせん道具であり、それで何をするのかが大切なのであるが、道具に思考や行動が左右されるということは当然あることなのである。日本語にあったソフトがもう少し生き残ってもよかったのではないか。今から見直されていいのではないかと考えてしまう。MicrosoftやGoogle、Appleなどの大企業の都合により次々に変わっていくのは仕方がないことなのだろうか。日本のエンジニア、プログラマーの皆さんには日本語にあったソフトの開発をぜひくじけずに続けていただきたい。

気温差

 今日の最高気温は29℃の予報が出ている。昨日より10℃近く高い。こういうときには体調を崩しやすい。

 体感は相対的である。毎日寒ければそれなりに身体が対応してくる。暑さも同様だ。限度はあるが耐性という能力は進化の過程で身につけてきた根源的能力なのだろう。

 ところが変化には極めて弱い。注意せねばならないのは気温の絶対値ではない。

紫陽花の葉

アジサイ

 アジサイの花が曇天の下で輝いて見える。今日はかなり気温が低い。20度に達しないのではないかという予報である。何も考えずにいつもの半そでで出勤してしまって後悔している。

 周辺の地域では梅雨入り宣言が出た。もっとも数日前から雨が多いため、後から入梅の時期が訂正される可能性もある。低温と雨ならばある程度我慢できるが、問題はこの後にくる高温であろう。蒸し暑さを伴う霖雨はさまざまな害がある。心身ともにいい影響はない。

 そういえばアジサイの葉はあまり虫に食われない。それは表面に虫の嫌う成分が分泌しているからだという。カタツムリに食われている印象は間違っている。梅雨空を住みかとするものはたくましさが必要なのかもしれない。困難に立ち向かうためにはしかるべき戦略とたくましさがいるようだ。

EV

 すでに骨董品の域にある車に乗っている私にとって、電気自動車はいつも気になっている。環境問題の解決策というが製造から廃棄まで考えて本当にガソリン駆動よりいいのか知りたい。

 それよりも現状ではあまりに高価であることや、充電設備の不安が購入意欲を妨げる。日産等が発売した軽車両型の電気自動車は何とか手の届く価格になりそうだ。買えるとしたらこれだろう。今のところ充電できるスポットは少ない。これが増えた頃に検討してみよう。

 それまで自分で運転しようという意欲が続いていればだが。

梅雨入り

 いまだに梅雨入りしていない。今週にはいわゆる梅雨入り宣言がでるはずだ。

 古くはさみだれと呼ばれた霖雨は農事にとっては大切なものだった。皐月、五月女、桜などにつくサは農業と関わる神と関係するという説もある。この時期の雨は慈雨であることは間違いない。

 ただ、毎年この時期には大規模な水害が発生しているのも事実だ。昨今は異常気象と呼ばれる。記録的とか、歴史的と言う仰々しい名のついた注意報や警報がたびたび出される。残念ながらその中の幾つかは的中し、甚大な被害をもたらす。

 恩恵と災害と両方をもたらす梅雨の荒々しい天候は、私たちの生活の一部である。なるべく悲しみのないように願うばかりだ。

地元で支える

Nagasaki city

 コロナによる経済停滞がさまざま問題を起こしている。経済的な基盤の弱い企業が少しずつなくなっていき、街の様子が変わりつつある。そうでなくても低成長と人口減少、少子高齢化などの難問がある中で、地元の経済圏を支えることの意味が問われている。

 以前、長崎を訪問した時、地元の起業家から地域経済の危機をうかがったことがある。市内にある多くの企業は県外の支社であり、その収益の多くは県外に流出してしまう。お土産として買われていくものの中にも実は県外で生産されているものもあり、製造過程から地元経済圏への恩恵は少ない。最近は中国企業の進出もあって国外への流出も顕著だ。これはコロナウイルス流行前のことだったので、事情は変わっているかもしれないが本質的な問題は変わっていないだろう。

 その起業家は地元で作り、地元の店で売ることが大切だと繰り返していた。そのために小さな企業を立ち上げ、地元の人を雇い、観光客に本当の地元の商品を届けるのだと言っていた。大切な視点だと痛感した。もっと言えば地元の人でも欲しいと思うものを作らなくてはならない。

 チェーン店のものを買うのにすっかり慣れた私たちは、旅行先でも自分の街でも見慣れたブランドの店を選びがちだ。飲食店でいえばそこそこ安く、味の最低限の保証はあり、値段がいくらであるか見当がつく。そういう店を選びがちだ。しかし、これでは地元に落ちるカネは限定的なものになる。個人の商店が作るちょっとだけ高いがそこにしかないものを評価する考え方がいる。

 収入の増えない日本人にとって少しでも安い店を探すことは仕方がないことだ。しかし、安さを追求するあまり地元の経済を瘦せさせてしまったならば、様々な不利益は結果的にわが身に降りかかることになる。地元の社会は地元で支えるという考え方が見直されなくてはならない。