読解力

真剣に読む

 これまでも何度か話題にしてきたが、読解力の低下にいかに対処するのかは大きな課題の一つである。かくいう私もこの力が漸減しているのを感じている。社会的要因があると考える。

 私個人の問題としてはもちろん老化といった身体的要因がまずある。残念なことだが短期長期の記憶力の低下は大きな影響がある。それよりも実は深刻なのが真剣にテキストに向き合う機会が減っていることではないだろうか。

 日々の生活の中で読解力の有無が致命的な影響を及ぼす機会は減っている。これを読まなかったために大きな損失を被ったという実感を得る機会が少ない。もちろん本当はかなり死活的問題をもたらしているはずだ。それに気づかない。

 現代社会は説明過剰である。効率的なやり方が予め示される。だから自分で状況判断して最適解を模索するという機会が少ない。なくても十分なのだ。これは便利で一見優しい仕組みだが、読解力の養成には向いていない。

 真剣に文章を読む機会がないのなら、意図的に作るしかあるまい。それが現代国語教育の役割の一つだ。こういうと契約書の読み方を教えるといった実用文を扱えはいいという話になる。しかし、実用文はもともと分かりやすく書かれており、最終目標にすべきものではない。

 様々な話題、筆者の評論文や、文学作品、古典文学などを学ぶのは死活的な状況で読む読解力の養成に相応しい。内容から学ぶ叡智はさることながら、難解な文に向き合い読み通すことが大切なのだ。

深夜の地震

 

地震は突然

 昨日の深夜、福島県沖を震源とするマグニチュード7.3の地震があった。福島や宮城などで震度6強を観測した。私の住む地域は震度4という発表だが、2回に分けて長く揺れたため、恐怖を感じるものであった。

 現時点では揺れの大きかった地域で怪我人の報告があり、鉄道の脱線なども起きているらしい。全容は朝にならないと分からない。11年前の大地震と同じ震源域であり、専門家は余震の一つと推測している。いまだに余震があることは驚きだ。

 原発の冷却装置にアラームが発動したとの報道もある。大事に至らないことを祈る。続報を待って判断する必要がある。↓。

似顔絵

顔の印象はどこで決まるのか

 まったく下手なのだが絵を描くことには興味がある。人の顔を描いていて思うのが僅かな違いで印象が激変するということだ。

 顔を描いているとき、ほんの少しの線の有無で雰囲気がかなり変わってしまうことに気づく。だから絵を描くときこれがどのような効果をもたらすのかを常に考えている。

 絵ではなく実際の顔認識ではどうなのだろう。誰かを誰かに似ているという話を聞くとき、納得するときと疑問を感じるときとがある。顔の印象を決定づける要素が人によって異なるのではないか。先の絵の話で言えばどの線を描いてその人らしさを捉えるのかが人によって違う可能性がある。

 写真から似顔絵風のイメージを生成するアプリがある。やってみると同意できないことが多い。我々の視覚はかなり主観的なもののようだ。

表現力

やってみたい授業

 時間があればやりたい授業というものがある。大抵の場合、決められた学力(数値で測定可能な)の向上には向かないという理由でできない。

 考えたことを発表するという授業はぜひやりたいことだ。一人でやるのとグループ発表の両方がいい。また、発表を評価することもいいと思う。

 とりあえずブックトークを考えている。好きな本を自由に選ばせたり、テーマを決めて読ませたりするのもいい。まずは互選させて代表を決める。代表はチームリーダーとなってグループ発表する。

 他にもいろいろなアイデアがある。それを試す時間があるといい。表現力プラスアルファを狙いたいのだ。

教員の礼装

 教員は何度か礼装をする日がある。式と呼ばれる日だ。なんのために? 自分のためでもあるが大切な一日を演出するために形を作ることも大切な仕事なのだ。

 私たちの仕事の大半はこのように特別な時間を演出することにあるとも言える。

夏日間際

梅も見頃に

 今朝はかなり気温が高く、今年になって初めてコートを着ずに出勤した。電車の同乗者も同様だ。予報によると関東南部は夏日近くまで気温が上がるかもしれないとのこと。極端に振れる一日となりそうだ。

絵画の下層

Photo by Peter Mayer on Pexels.com

「窓辺で手紙を読む女」(ヨハネス・フェルメール, ca. 1659)が東京都美術館で展示されている。今まで知られている絵とは異なり、背景に天使の画中画が描かれている。調査の結果、この天使の絵は完成後、作者以外の何者かによって塗りつぶされ今の形になったという。そこで上塗りされた絵の具を取り除き、改変前の姿を復元したというのだ。なお上記のリンクは改変前である。

油絵のように塗り重ねていく絵の場合は、このように塗りつぶされた奥にある下層の絵画を復元することができるようだ。その繊細かつ大胆な作業風景も博物館では動画で展示していた。非常に興味深いものであった。絵画修復の技術は日本絵画においても行われている。以前、この技術を利用して高精度の文化財複製をしたスーパークローンの展示を見たことがある。色褪せる前のもとの姿は常識を覆すものもあったが、新鮮な驚きをもたらしてくれた。そして、この技術を知ることで、原作は今見るものとは違ったのかもしれないという当たり前だが気づきにくいことを再確認させてもらった気がする。

芸術作品でさえ、完成に至るまでのさまざまな過程を経てきているのだ。最初から一直線に今の形につながっているのではない。改変にはさまざまな理由があるように、私たちの生き方にも時代の影響でつねに変化が加えられている。今見えていることだけで物事を判断するのはかなり一面的なものだということになる。その下層に隠れているものはなにかを考えることは常に必要だ。

花粉飛散

Photo by SHVETS production on Pexels.com

最高気温が20度を超えるらしい。花粉飛散が本格的になりそうだ。私は対策薬を飲んでいるが、それでも今日は覚悟しなくてはならないかもしれない。

花粉症の知識がまだ世間に周知されていなかった頃、アレルギー性鼻炎は不治の病としてもう少し深刻に考えられていたような気がする。多くの人が耳鼻科に通い、点鼻薬を吸入した。私もその経験を持つが苦い思い出だ。

不治の病といえるがどうかわからないが、この歳になっても根本的な解決はできていない。ただ、予防の知識や抗アレルギー薬が発達したことで以前のような問題はなくなった。それでも薬を飲むと軽い頭痛に悩まされたり、喉が渇きすぎたりするのは厄介だ。

スギ花粉の量が多いのは林業による植林の偏りが影響しているとされている。昭和期に加工がしやすい杉を大量に植林したことが日本の植生を変えてしまった。それで高度成長期以降に花粉症が問題になったという。林野庁は花粉飛散の少ない品種への切り替えを計画的に行っているというが、更新にはかなりの年月が必要なのだそうだ。

風が吹けば桶屋が儲かるそうだが、こればかりは困る。儲けはほかのことで得るのが良いと思う。

当たり前のありがたさ

 今の生活が必ずしもよいものとは思えない。むしろ理想形からはほど遠い。どうしてこんなことをしているのかと嘆くこともある。ただ、それでも毎日を過ごせることのありがたさを再考してみたい。

 

明日の夕日も見られるか

 震災で命を落とした人の大半は、地震の発生する直前まで普通の毎日を過ごしていたはずだ。無情にも突然の災禍が命を奪った。誰にも予測不能なことだった。新型コロナウイルスでなくなった人も、パンデミックが命を奪うとは誰も思わなかったはずだ。戦争もまた然りだ。

 明日のこの時間も生きているという保証は実は誰にもない。無常の世には何の約束もなく、未来があるというのは希望に過ぎないのだ。

 それでも私たちは比較的安心していられる身にある。当たり前のように行ってきますといい、そこには必ずただいまが続くと信じている。信じられる社会がある。当たり前といえる環境にあることに感謝すべきだとつくづく思う。

11年

 東日本大震災から11年経った。ついこの前のことのようでもあり、はるか昔のことのようにも感じる。経験は十分に活かされているのだろうか。

 震災当日は勤務中でちょっとした打ち合わせの最中だった。関東でも強く長い揺れを感じ、防災扉が自動的に閉じた。電源とネットは切れなかったため、職場に一つだけのテレビとウェブサイト、Twitterで情報を集めた。人の安全を確保することと食料の確保で追われた。

 その後、被災地の甚大な被害や原発事故による広範囲への影響の懸念があることを知る。計画停電などのライフラインの遮断、燻るデマや罵詈雑言なども知った。

 そうした記憶も時が経つにつれて薄れてゆく。そのころ生まれた世代にとってはすでに歴史的事実だ。何を学んだのだろう。何を忘れてしまったのだろう。