七夕の願い

星に願いを

 七夕が願い事を短冊に書くようになった歴史はさほど古くはない。古典文学にそのような場面はないのは、この習慣がせいぜい江戸時代くらいまでしか遡れないことによる。もとは御祓の日であり、インプットへの願望はなかったようだ。

 この時期に願い事の行事があるのは実に面白い。結果的にいいタイミングで新しい習俗ができたと言える。半年終わって一度気持ちを改めて、新たな目標を設定してそれを目指すのは七夕の時期をおいて他にない。その意味で七夕は絶妙な時期にある。

 七夕の願いを何にするのか、考えてみると結構難しい。大切なのはそれが何であれ言語化することだ。しかも短冊に書けるくらいに縮約することだ。それができた時点でかなり願いの達成に近づいているのかもしれない。

鞄

鞄を買わなくては

 ここ数年使い続けてきた鞄の持ち手が切れてしまった。他の箇所もかなり傷んでおり取替なければならないと考えていたが今日に至ってしまった。兆候はあったもののあっけなく壊れた。

 自分の身体も同じような状態なのかもしれない。遺伝的にはどう考えてもこの先の展開はよろしくない。にもかかわらず、かなり不摂生をし、メンタル的にも理想からは遠い。少しずつ身体の異変を感じるが、それを口外することも難しい。このブログがその小さな排出口である。

 鞄は買い換えればよい。中古でもいい。使いやすければブランドなどどうでもいい。ものを入れ運ぶための道具としての役割をはたしてくれさえすれば十分なのだ。

 身体は取り換えられない。仮に今さらまったく違う身体になれたとしてももてあまし、結局命を縮めてしまうことになる気がする。最近は人生の最後の段階を考え始めている。

 くたびれた身体でできることはなにか。人に頼らず、むしろ誰かのためになることを続けるために何ができるのかを考え続けたい。

元台風

 元台風がもたらす気温と湿度が通勤電車を取り囲んでいる。今回の台風は関東には大きな影響はなかったようだ。ただこの異常な暑さを考えると今後どのような気象現象が現れるのか考えておかねばなるまい。

 台風の上陸数だけに注目すると減っているのかもしれない。しかし、大きな被害をもたらすものや、発生場所が日本に近かったり、不規則な進路だったりするのは印象的だ。おそらく複雑な要因があるのだと推測する。

 私の体調もこのところ芳しくない。病という範疇には入らないが、疲労感と睡眠不足の印象がついて回っている。天候にまだ適応できていない。

 しかしいつまでも天気のせいにはできない。これは生活習慣や体質改善のいい機会と考えることにしよう。

熱風

 朝から蒸し暑い風が吹いている。ここ数日の酷暑からすると気温的には低いが、昨日が少し控えめな気温だったことに加えて湿度が高い風が体感の不快度を増している。九州に上陸したという台風のせいかもしれない。

 空を見上げると雲は多彩で複雑な状態になっていることが察せられる。大荒れにならないことを祈る。

 この暑さのせいで寝苦しく、何度も目が冷めた。目覚まし代わりにしているスマートフォンの液晶を光らせては時間を確認し、夜明けまでまだかなり時間があることを確認し続けた。今日はデスクワーク中心なので睡魔との戦いに明け暮れそうだ。

気象痛

台風接近

 気圧の急激な変化が原因で体調が悪くなることがある。気象痛とか天気痛というそうだ。頭痛や耳鳴りが多いという。自分にもその気があるのではないかと感じている。

 台風が西南諸島を北上している。気圧や最大風速は並程度であるが、進路が本州にかかる時間が長そうなのが心配だ。渇水気味の地域には恵みの雨をもたらすかもしれない。これも限度を越えないことが大切である。

 はたして気圧だけが原因なのかわからない。ここ数日不調である。疲労感があるのに眠れない。気のせい(以前も使った洒落)に違いない。

通信障害から

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 KDDIの通信障害の回復にはかなり時間がかかっているようだ。我が家のau端末はいったんアンテナ4本を取り戻したのに、いまは「圏外」になっている。自宅のWi-Fiが頼りだ。おそらく技術者の皆さんはいま難題に立ち向かっているのだろう。障害発生には責任追及が必要だが、その前に回復のために尽力している皆さんに敬意を表しておく。

 さて、この障害から分かったことがいくつかある。まずこれが一社のサービス不調にとどまらないということだ。気象通信システムや電子決済、チケットなどのサービスが使えなくなったという。インターネットが前提となっているサービスが軒並み影響を受けたというのだ。この騒動で知ったことだが、コネクテッドカーなる自動車のICTサービスというものもあるらしい。トヨタ自動車はKDDIとの親和性が強いらしく(出資しているらしい)、トヨタの最新設備も影響を受けているようだ。IoTの時代ではもう電話ができないというだけでは済まないのである。

 何かを仮に消してみたら生活がどう変わるかという思考実験のようなものは私たちが時々試みることだ。今回のように本当にそういうことが起きたら、見えなかったものがいきなり表面化する。ついでに想像をたくましくして考えてみよう。渋谷に行くときに東横線が止まったらJRにするとか、地下鉄を使うとかはよくあることだ。通信会社はどうだろう。A社がだめなら、一時的にB社が肩代わりするといったことは通信の世界ではできないのだろうか。東横線から振り替え輸送してきた客でいっぱいになった東海道線がさらに遅くなる、最悪の場合止まってしまうということもあり得る。ならば初めから振り替えなどしない方がいいのか。9時までに渋谷につかないと大切な契約ができず、財産を失うというひとの場合はどうなのか。そういうたとえをいちいち考えておく必要を感じたのである。

 家族割のようなものを使って家族をおなじキャリアのユーザーにしてしまうのは業者にとっても、利用者にとっても価値があるものと思っていた。しかし、今回のようなことはこれで最後ではあるまい。どこかが止まったら別に切り替えるという選択肢を持っている方がいいのかもしれない。あるいは何もせずに駅のベンチで待って紙の本を読んで賢くなる方が実は一番懸命なのかもしれないが。

インフラ不調

もしもし繋がってますか?

 auの携帯電話が繋がりにくい状況が続いている。いまだ復旧作業が続いているらしい。携帯電話の通話のみならず回線を利用した各種サービスが影響を受けている。このところこうしたインフラの不調が時々表面化する。不安だ。

 技術大国を自認する日本においてインフラの不調はあってはならないことだろう。今回のような通信関係のみならず、建造物などのハードウェアに関してもメンテナンスが行き届かないことが原因で事故が起きている。

 一概に言えないが効率化を進めるあまり大切なものを切り捨ててしまったのではないか。最悪の事態に備えておくということがおろそかになってはいないだろうか。

 まずは自分の力の及ぶ範囲でインフラ不調時の対策をしておこう。できることは限られているがやらないよりはいい。

星座アプリ

stars

 星座アプリの存在は前から気になっていたが七夕を間近にして関心が高まりダウンロードしてみた。アルタイルもベガも同定することができた。

 位置情報の技術を星座表に組み込むことでダイナミックな星座ガイドになっている。現実の夜空に向かって星座の位置を探すのであるから、一種の拡張現実が現れることになる。星座の絵まで表示されるのはプラネタリウムのようだ。

 昼間にこのアプリを空に向けると見えないはずの季節外れの星座が現れる。地面に向けると南半球でしか見えないはずの星座も見えてくる。本当はありえないものを見せてくれる。

 東京の空のような2等星くらいまでしか見えない夜空にこのアプリは楽しい時間を提供してくれる。しかし、見えないものを見えることにしてよいものなのだろうか。再びVRやARの問題を考え始めてしまう。

 

中元

中元の贈り物の定番は素麺、私も好きです。

 中元は仏教行事とされているが、さらにさかのぼると中国の土着信仰に期限を持つらしい。道教として整理されているものだ。旧暦7月15 日に行われるのがアジアの多数地域での例だ。ただし日本では旧暦を重んじないため、新暦の7 月15 日もしくはひと月遅らせた(月遅れという)8月15日をその日とする。東京では7月15日の方をとり、先祖祭りをする習慣がある。最近はかなり廃れているが。

 中元という意識はなくなっても「お中元」はサマーギフトとも考えられ、贈り物をする習慣は根強い。本来は先祖への供物であったが、江戸時代には商売関係や師匠へのお礼の品を贈る習慣があったようだ。現在はこれも虚礼として廃す傾向にある。教員を始めたころ、生徒の父兄から中元が来て戸惑ったことがある。いまは住所や電話番号自体を明かさないのでこの方面の恐縮は不要になった。

 無駄な虚礼はやめた方がいい。また、一歩間違えば贈収賄にもなりかねない。間違ったことはしたくない。ただ、この中元という習慣はそれなりに社会的な役割を果たしているのではないだろうか。親戚縁者に贈り物をすることにより、紐帯を確認しあうのは無駄なことではない。形式化するのは問題だが、遠く離れている相手に自分が心を向けているという事実を形で示すのは意味がある。

 この歳になると人からものをもらうのは何か気が引けるが、贈る方はやってみたい気になる。なぜだろう。決して優越感ではない。誰かのためになること、誰かが喜ぶことをしたいと思うようになることが歳を重ねるということなのかもしれない。ただ多くの場合、それができず逆に迷惑をかけてしまうものなのだけれど。

夏越

六月も終わり

 このところ暑さのことばかりを書いている。差し迫った今ここにある危機である以上仕方あるまい。今日は六月晦日であり、旧暦なら夏越の祓が行われた。

 旧暦の行事をそのまま新暦に移すといろいろ不一致が生じる。加えて今年の約一ヶ月早い梅雨明けとなってはその誤差というや多大なるものがある。夏越の祓は半年に一度の罪や穢れを祓い落とし、禊ぎをする行事という。罪悪が塵埃のように取り除くことができるのかという点においては現代人の感覚に合わないが、何らかのけじめをつけようとする精神は共通する。それが夏の終わりにあることに意味があったのかもしれない。それが今年は始まったばかりの感がある。

 どこかに消えてしまった梅雨は恵みの雨でもあったことは確かだ。その恵みがあまり期待できないことになった今夏は、禊ぎの水はどこから得れば良いのだろう。喉は乾いても心までは干からびないように注意するより他はない。